王と二人の奴隷の物語

『精神的マスナヴィー』2巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

王と二人の奴隷の物語

ある王が、二人の奴隷を安値で買った。そのうち一人と言葉を交わしたところ、彼が頭の回転も早く弁舌爽やかであるのを見出した。砂糖で出来た唇から出てくるものとは何か?砂糖水だ。

845. ヒトはその舌の裏側に隠されている。舌とは、魂へと至る入り口にかけられた垂れ幕だ。一陣の風が垂れ幕を巻き上げるとき、館の内側の秘密が私達に開示される - 館の内側に隠されているのは真珠か小麦か、はたまた金銀財宝か。あるいは一面を覆い尽くすヘビか、サソリか。あるいは宝のすぐ脇に、大蛇が控えているかも知れぬ。それもそのはず、見張る者無き黄金の財などありはしない。 - あらかじめ準備をしていたわけでもなく、それでいて五百もの念入りな計画を立てていたかのように、彼(奴隷)は知恵ある言葉を話した。

850. (彼の言葉を耳にしたなら、)あなたはきっと言っただろう、彼の内側には海がある、大洋は雄弁の真珠で満ちあふれている、と。そして全ての真珠が輝いて光を放ち、真実と虚偽とを区別する規範となっているのだ、と - (全的知性が放つ)規範の光が私達の心を照らすとき、私達は真実と虚偽を識別する。それらは切り離され、細かな塵また塵となる。(聖なる)真珠の放つ光は、私達の目の光となる。問いも答えも、私達自身の内側に生じるもの、しかし目が曇っていれば、あなたは夜空に二つの月を見ることだろう。混乱した状態で何かを凝視すること - 『問い』とは、これと似ている。

855. あなたの目を月明かりに照らせ。そうすれば、月がひとつであることが分かるはずだ。物事を正しく見よ - すると、ほら!たちまちそこに『答え』が見えてくる。あなたの考えを述べるなら、ゆがんだものの捉え方はするな。物事は、じっくりと正しく見るようにせよ。そのようにして生じる考えこそは、まさしく真珠の輝きそのものである。どのような時であれ、何がしかの『答え』が耳を通して胸中に届けられると、目が言う、「『百聞は一見にしかず』という言葉を知らないのか。耳を通してもたらされるものなど捨て去れ、『問い』あらばこの私にじかに尋ねよ」。耳を通してもたらされるのは、幾重もの媒介を通したまた聞きに過ぎない。目を通してもたらされるのは、何の媒介も差し挟むことの無い展望そのものである。目から得るものは実存の経験だ、しかし耳から得るものはコトバに縁取られた教条に過ぎない。耳が得るものは既に変質している。目は根源の変容そのものを得ている。

860. もしもあなたが火について、コトバによってのみ知識を得、それを確信しているならば、あなたは未だ料理されていないのだ - 自らを料理せよ。火そのものに触れよ。他人から聞きかじっただけの知識を根拠に、何ごとかについて知ったと思うな。疑うこと無しに、確実性の裡に留まろうなどとはするな。直観の確信というものは、実際に火傷を負うこと無しに得られはしないのだ。炎の裡に座せ、もしもあなたが、真にこの確信を得たいと欲するのならば。耳が良く通るものならば、それは目と同じ働きをすることだろう。そうでなければ、耳は(神の)コトバを捉えることは出来ない。耳はコトバに捉えられ、コトバを心に届けることも出来ないだろう。 - この話には終わりが無い。戻るとしよう、そして王がかの奴隷たちをどうしたのかを見てみることとしよう。


865. さて、その若者 - 彼について語るのに、仮に私が憐憫を示す修辞の言葉を用いたとしても、それは彼を軽んじているからではない。祖父が「ぼうや」と口にするのも、決して相手を見くびっているからではないのと同じだ - が、鋭い知性を備えているのを見てとると、彼(王)はもう一方(の奴隷)に近くへ来るように合図した。二人目の奴隷が、王の前にやって来た。彼の歯は黒く、その口は悪臭を放っていた。彼のしゃべる様子を王は不快に感じたが、それでも王はいくつかの問いを発し、この奴隷の、奥深くに隠された思考を引き出したのだった。王は言った、「その面相、その悪臭…、少し離れて座れ、だがあまり離れ過ぎないように。書状や文をしたためる書記ほどの位置に座しておれ。おまえと私の間には隔たりがある、おまえはわが同胞でもなく、友人でも、僚友でもない。

870. 我らはおまえの口を治療することとしよう。今この時から、おまえは愛されるべき患者であり、我らは腕の立つ医師となろう。たった一匹のノミのために、真新しい毛布をまるごと一枚燃やすのは間違っている。それと同じことだ、表面上の瑕疵のために、私は私の眼を閉じたり、おまえに背を向けたりはしない。さて、そこへ座れ。何かしら話し手みるがいい。おまえの心が如何なるものか、見てみることとしよう」。それから彼は、例の賢い者の方へ向かって浴場へ行くように命じた。「行け、自分で自分をよくこすり洗って来ると良い」。それからもう一人の醜い者の方へ向かって言った、「よしよし、おまえは賢い若者だ。たった一人で、百人分の価値があるぞ。

875. おまえは、おまえの同輩とは違う。奴ときたら、おまえについて私に告げ口をしたのだよ。全く嫉妬深い奴だ。おまえが盗み、嘘をつき、礼儀知らずで恥知らずな悪名高いいやらしい奴隷だ、と、嬉々として私の耳に吹き込みおった。私が、おまえを嫌うように仕向けたのだ」。奴隷は答えた。「私の同輩は、いつでも誠実でした。私は、彼ほど正直な者を見たことがありません。誠実さが、彼にとり生まれもっての天性なのです。たとえ彼が何を言ったとしても、私にとりそれは真実に反するものではありません。善良な心の持ち主が、どうして悪意を差し向けるでしょうか。彼を疑うくらいなら、むしろ私は、私自身の心をこそ疑うことでありましょう。

880. おお、王様。きっと彼は私の仲に、私自身も気づいていなかった私の過誤を見抜いているのでありましょう」。他人の過誤を見つけ出す前に、自らの過誤を見つけ出す者 - 聡明な者ならば誰であれ、いつまでも自らの過誤を放っておくことなど出来ないはずだ。聡明な者ならば誰であれ、一生をかけてでも自らの欠点を直そうとすることだろう。だが世間にたむろする人々は、自分自身についてはあまりにも無関心だ。それで彼らは、お互いに相手を非難し続けてばかりいる。おお、偶像を崇拝する者達め、二元論を奉じる者達め。もしも私が、私自身の本当の顔を知らずにいたなら、私はあなたの顔を自らの顔と見誤り、あなたはあなたで、私の顔をあなたの顔と見誤ることだろう。自分自身を知れ - 自らの、真の顔を知る者は、(神によって)創られしもののうち最も明るい光を放つ者となるだろう。

885. たとえその者が死のうとも、その視覚は永遠に残る。何故ならその者の視覚は、永遠の御方の視覚そのものだから。賢明にも、自分自身の顔を見るのにその者が用いた光は、(肉体の)感覚に属する光ではないのだから。 - 王は言った。「さあさあ、おまえの同輩の欠点を話して聞かせよ。あやつがおまえについてそうしたのと同じように、語って聞かせよ。私の財産、私の義務を守るのに、どちらが良き執事としてふさわしいのかを知りたいのだ」。彼は答えた。「おお、王よ。ならば彼の欠点についてお聞かせしましょう - 私にとって彼は、共に働くのに好ましい同輩ではありますけれど。

890. 彼の欠点とは、すなわち愛情、忠誠、そして人徳です。彼の過誤とは、すなわち誠実さ、強い信念、そして心のこもった友情です、ほんのわずかに、彼の欠点となっているもの、それはすなわち優しさ、寛大さでありましょう - 寛大さゆえに、彼は自らの命すら惜しむことがありません」。神が示したもう無数の生は、捧げられた無数の生によって購われている。寛大さを持ち合わせない者は、寛大さに出会うことも無いだろう。そしてひとたび寛大さに出会った者が、どうして自らの生を惜しんだりするだろうか?惜しみなく与える義侠の者には、神は惜しみなく与えたもう。それなのにどうして自らの生を、みじめなものとみなして嘆き悲しんだりするだろうか?川岸にしがみつく者 - 彼らはあまりにも無知だ - は、眼前の水をのみ見て、これを惜しみ塞き止めようとさえする。水の流れが、やがて行き着く大海の豊かさを知りもせずに。

895. かの預言者は告げた、「復活の日の報奨を見る者ならば誰であれ、ありとあらゆる場において、ありとあらゆるやり方で寛大にふるまうことだろう。復活の日には、一つの行いが十倍になって返されるのだから」。全ての寛大さは、それに対する報奨を「見る(確信する)」ところに始まる。報奨を「見る(確信する)」ことは、怖れや不安とは正反対に位置する。寛大にふるまうことから後ずさりさせているのは恐怖心だ。報奨への不信が、吝嗇を生じさせているのである。潜り手を喜びで満たすのは、海底に眠る真珠への期待だ。自らの行いと引き換えに受け取れるものがあるということ、またそれが、決して害を及ぼすものではないということ - これさえ理解出来たなら、この世の誰ひとりとしてみじめな思いをすることも無くなるだろうに。

900. 言うなれば寛大さとは、手からではなく目から生じるのである。「見る(確信する)」ということが肝心なのである。他の誰でもない、ただ見る者のみが救われるのだ。 - (奴隷は続けて言った、)「彼のもうひとつの欠点は、すなわち彼が自惚れていないということにあります。彼は自らの過誤について、常に目を光らせています。彼はいつでも、責めるならば自らを責め、非難するならば自らを非難する者でありました。彼は全てに対して親切でした、ただし自分自身を除いて - 彼は自分自身に対しては、常に厳しくふるまっていました」。王は言った。「おまえの友人を、そうも熱心に誉めたたえて見せるのはやめよ。彼への称賛と見せかけた仮面の下に、自らへの称賛を忍び込ませるのはやめよ。私は彼を試してやろう、終いには、おまえが恥をかくことになるだろう」。


905. 彼は言った。「いいえ、アッラーにかけて、偉大なる神にかけて。王国の所有者、愛あまねく慈しみ深い御方にかけて。必要に迫られてではなく、ただ優しさと偉大さから預言者達を遣わしたもう神にかけて。低き大地の泥土から、高貴なる騎士達を創りたもう主にかけて - 彼らを、地上の性質から浄めたまい、天上の者にも優るものとなさしめたもう主にかけて。炎の裡から、純粋なる光を掬いあげたもう御方にかけて、そしてまたその光から、他の全ての光を創りたもう御方にかけて。

910. それが雷電となって魂の上に輝いたとき、アダムはその閃光から(神の)知識を得たのです(コーラン24章43節)。そしてアダムから放たれたそれらの知識を、拾い集めたのはセトの手でありました。それゆえに、アダムはセトの裡に光を見出し、彼を自らの後継者としたのです。ノアはこの宝石を心から楽しみました - 神の知識という名の真珠を、魂の大海めがけて一面にまき散らしたのです。アブラハムの魂は、その強烈な輝きにすっかり魅了され、燃え盛る炎の中へさえも恐れずに飛び込みました。イシュマエルも光の筋を辿りました。流れに身を投じた彼は、(アブラハムの)光る刃先の前に、自らの首を差し出したのでした。

915.  - ダビデの魂は光に照らされて熱をもちました。彼の手機にかけられれば、鉄も柔らかくとろけたものです(コーラン21章80節、34章10-11節)。またソロモンは、<ひとつ>の光の乳を授かって育ちました - それゆえに、悪魔ですら忠実な下僕とまり、彼の命じるところに従うようになったのです(コーラン38章36節)。定められた聖なる運命に対し、ヤコブが頭を垂れて服従を示すと、光は失われし息子(ヨセフ)の芳香を放ってかれの目を開きました(コーラン12章93-96節)。月のかんばせを持つヨセフが、かの太陽を目にすると、彼は十二分に目覚め、夢を解き明かすまでになりました(コーラン12章43-49節)。光に照らされ、光の沁み入った水を、モーセが手ずからその杖に飲ませると、杖はたちまちファラオの帝国を、ほんの一口で飲み干してしまいました(コーラン20章69節)。

920. マリアの息子イエスは、その梯子を見つけるやいなや、急いで昇り始めました。四層目の天蓋を、梯子の行き着く一番高い処を目指して。そしてその帝国、その至福をムハンマドが手にしたとき - それは月裂けて二つに割れたとき(コーラン54章1節)。『(神に)愛されし者』にとり、アブー・バクルは灯されたしるしのようになりましたが、それは彼自身が王者(ムハンマド)の朋友となり、『シッディーク(誠実な者)』の呼び名を与えられたときでもありました。『(神に)愛されし者』を目にして、驚きうろたえたウマルも、やがて『ファールーク(識別する者)』となり、心そのものとなって真実と虚偽とを見分けるようになりました。ウスマーンは明晰なる根源の泉そのものと合一しました。彼はあふれだす光をその掌中におさめ、『ズーン・ヌーライン(二つの光を持つ者)』と呼ばれるようになりました。

925. そして全てを冷静に眼差し続けたムルタザー(アリー)が、真理の真珠を惜しむことなくまき散らし始めたのです - 魂を養う牧草地にあって、彼は神の獅子となったのでした。ジュナイドが、差し向けられた援軍の助けを得たとき、彼のマカーマート(神秘道における階梯)は計り知れぬほどの高みへと上昇しました。バーヤズィードは、神の恩寵にこそ瞠目しました。そしてそれが溢れんばかりに豊かであることに道を見出したのです。そのとき彼は聞いたのです、神が彼に、『神秘道の支柱』の名を授けたもうたことを。カルヒーは、その都を守る護衛となりました。聖なる深き流れは彼に直観の知を授け、彼は愛を教える伝道師となりました。アドハムの息子もその方角を目指し、嬉々として馬を走らせました。やがて彼は、正しく義を行なう者の、最も高い位階まで上り詰めたのでした。

930. そしてまた、かの高名なるシャキークも - 彼もまたこの道を渡って歩みました。その目は晴れて澄み渡り、彼は識別の太陽となりました。(彼らの他にも)何千、何万という名も無き魂の王者達がいます。彼らは、こちら側の世界では隠されておりますが、あちら側の世界では頭を高く掲げております。神の嫉妬ゆえに、彼らの名は明かされることがありません -  全ての物乞い達が、彼らの名を盗み取ることの無いように。御方の光の真実にかけて、光に照らされた彼らの真実にかけて。彼らはまるで光の大海を泳ぐ魚のよう、けれどその大海をどう呼ぶべきか。魂の大海と呼ぶべきか、大海の魂と呼ぶべきか - どちらも否だ、もっと別の、新たな呼び名を探さねば。(註:人名について参照

935. 彼ら全てと、彼らを連れ出したもう御方の真実にかけて。種と、種を包む殻にかけて。わが同輩にしてわが友人、彼の性質の善良さは、私の説明を百倍も上回るものです。私の知る同輩の(精神的な)価値を、おお、高貴なる王よ - どのように語ろうとも、あなたは信じますまい!」。王は言った。「これだのあれだのについて、おまえはどれほどの長い間語り続けるつもりでいるのか。おまえ自身についてはどうなのか。おまえ自身は何を持っているのか、おまえ自身は何を得ているのか。どのような真珠を、海の底から持ち帰っているのか。

940. おまえの感覚も認識も、死んでしまえば消滅するだろう。その時どうするのか?おまえの魂は光を得ているのか?おまえは、おまえの心と対の同輩たるべき光を得ているのか?墓に入れば両の眼は土で覆われるだろう。その時に墓を明るく照らす光を、一体おまえは得ているのか?墓に入れば手も足も潰えて失われるだろう。その時におまえの魂を空高く飛翔させる翼を、羽を、一体おまえは得ているのか?獣としての魂が死んだその後には、永遠の魂を据えねばならぬ。『善いことを行なう者は、それと同じようなものを十倍にしていただける(コーラン6章160節)』。だが報奨は善行の裡にあるのではない。神の御前に善行を捧げるところにこそ報奨が控えているのだ。

945. おまえの裡には二つの性質がある、人間のそれか、あるいは愚かなけもののそれか。いずれかを、いつかは神の御前に差し出さねばならぬ。言葉だの行為だの、過ぎ去っては消え失せるものなど、どうして持ち運ぶことが出来ようか?祈りや斎戒といった行為でさえも、起こってしまえば二秒と待たぬ間に無へと帰する。偶有の出来事など、あちら側の世界へと持ち込むことは不可能だ。しかしそれらの出来事は、物質的な側面に影響を及ぼす。それらは病を取り除きもする - 行為が、物質を変化させるのだ。出来事の持つ意味が、物質に変化をもたらすのだ。努力や節制それ自体は偶然でも、物質的な側面に働きかけ、変化を生じさせる。斎戒を通じて、苛烈な口も蜂蜜のように甘くなる。

950. 種蒔きを通じて、大地も稲穂を実らせる。手入れを通じて、髪も鎖(註:長く美しい巻き毛を指す)のようになる。偶然に、男と女が共寝する。終わってしまえば情事は跡形もなく消え失せる、だがその意味は残る - やがて月満ちて生まれる赤子がそれだ。私達自身もそのようにして生み、生まれる。馬もラクダも同じように交わりを持つ。交合自体は偶然の出来事でも、そこに生じる仔は姿形を、物質を伴っている。庭に草木を植えるのもそれと同じで、植えるという出来事から生じる諸々は物質を伴っている - これを軽んじてはならぬ。錬金術の行為もこれと同じように考えられるだろう。錬金術によって何かしら生じせしめたものがあるなら、それをこそ此処へ持って来るがいい。

955. 『磨く』というのは、偶然に起きた出来事に過ぎないのだよ、おお、貴公子どの。そしてその出来事から純粋なる実質が生じる - 『私はこれこれしかじかの行為をしました』などと言うべきではない。行為から、何を得たのかが肝心なのだ。わが命ずるところを避けようなどとはするな。私は結果を見せろと命じているのだ。性質の価値などどうでも良いわ、単なる偶然に過ぎぬのだから - 黙れ、だまれ!屠るなら山羊そのものを屠れ、山羊の影を屠ったところで、犠牲の足しにもなりはせぬ」。奴隷は言った。「おお、王よ。それを偶然としてお切り捨てなさるのか。ならば心は、絶望して消え去る他には何のすべも無くなりましょう。おお、王よ。偶然の出来事がただ生起しては消え去り、二度と戻ることも無いと仰るのですか。ならば(神の)しもべもまた、ただ消え去る他には何もありませぬ。

960. もしも偶然が偶然として消滅し、復活の日へと運ぶこともかなわぬならば、行為は無駄な戯れ、言葉も泡沫となることでしょう。偶然は、別の様相となって運ばれてゆくのです - 死を免れ得ぬ全てのものにとり、復活とは、別の様相における生に他なりませぬ。らば全てのものがその様相に適した在り方で運ばれ、持ち越されることに何の不思議もありませぬ。様相とは、すなわち群れをまとめる羊飼いのようなもの。復活の時、全ての出来事がそれに見合った姿形をまとうことでしょう、その姿形の通りに、神の御前に連れ出されることでしょう。あなたご自身はどうなのですか - あなたご自身もまた、不可避の出来事であったまぐわいより生じたのではありませぬか。行為と目的とが一致したところに生じた、不可避の産物ではありませぬか。

965. 家屋や、建築をごらんなさい。あれらは、まるで建築家の(心の)物語のようでしょう。館のあちらこちらに、私達は美を見出します - 広間や屋根、そして扉は、互いに釣り合いが取れています。意匠や思案は、不可避のひらめきとして生じたものです。それを道具や、(現実界に存在せしめるための)柱を用いて、建築家達はそれぞれの仕事を通して作り上げてゆきます。想像、不可避のひらめき、思案の他には、あらゆる仕事の起源となるものも、根源となるものも御座いませぬ。公平無私な目をもってご覧下さい、世界における、ありとあらゆるものの多種多様さを。しかもそれら全てのうち、不可避のひらめきに端を発したのでは無いものなど、ただのひとつとして御座いませぬ。

970. 始まりにあるものは思考です、そして終わりにあるものが行為です。永遠の世界なるものも、そのようにして築き上げられたのだとお知りおき下さい。最初の果実は心の中、思考の中に実るのです。しかしそれが実際に、存在として顕現するのは最後の過程においてです。あなたが仕事を終えたとき - 木を植え、やがて果実が実るように - 最後の最後になってから、ようやくあなたは、最初に読んだ言葉の意味を見出すことでありましょう。順番からすれば、最初に顕されるのはその枝、その葉、その根で御座います。しかしそれらは、全て果実のためにこそ送り届けられたもの。顕されぬ(隠された)思考を辿ってゆけば、それは九層の天の核心に、『Law laak』*1の主へと行き当たることでありましょう。

975. この議論もこの対話も、必然に形を与えて不可避のうちに進められているものです。あれがライオンなのも、これが野良犬なのも、必然に形が与えられ不可避のうちに運ばれてゆくものです。まことに、あらゆる創られし存在とは、予測も出来ぬ事故のようなものです。(書物の)啓示も、これと同様のことを伝えております - 『人間には、人間と呼ばれるほどのこともなかった時期があったではないか(コーラン76章1節)』。出来事は、どこに端を発するのでしょうか?ひらめきです。ではひらめきは?ひらめきは、『思考』より生起します。この世界は、すなわち(万有の主である)普遍の知性による思考の発露なのです。知性が王なら、ひらめきとは王に仕える使節のよう。第一層は猶予と試練の世界であり、第二層に、あれやこれやに対する報奨の世界が控えています。

980. おお、王よ。あなたの使用人が罪を犯しました - するとその出来事は(実体と化して)鎖と牢獄になります。あなたの奴隷が善い働きをすれば、その出来事は身体と精神の狭間において、名誉の外套となるではありませんか。出来事と、質量を伴う実体とは、鶏と卵のような関係にあります。れらは連続しているのです - こちらはあちらによって生じ、あちらはこちらによって生じる、という具合に」。王は言った。「仮にそれが真実だとしよう、それならそれで、何故におまえの起こす出来事は何ひとつとして実体を伴わぬのか」。「(聖なる)知恵が」、奴隷は答えた、「それを封じているのです、この世において善と悪とを、隠された秘め事とするために。

985. もしも『思考』が眼に見える実体を伴ったなら、不信の徒も信じる者も、等しく神を賛美し、それ以外には口にしなくなるでしょう。この世は、試練の場では無くなることでしょう。隠されることも無く、全てがあらわにされたならば、おお、王よ、信と不信とが、一人ひとりの額に浮かび上がるものならば - 偶像も、偶像を崇める者もこの世からいなくなることでしょう。聖なるものへの呪詛を、胃袋に溜める者もいなくなることでしょう。私達の住むこの世界は、毎日が復活の日のようになることでしょう。今日が裁きの日と知りながら、罪と過誤を犯す者などいるでしょうか?」。王は言った。「悪への懲罰について、神はヴェイルで覆い隠したもう。ただしそれは卑しき者どもに対してであり、神ご自身の選びたもう者に対してではない。

990. もしも私が一人のアミールを罠にかけるなら、他のアミール達には隠しておくだろう。だが宰相に対しては別だ。行為と報奨について、神は私に多くを見せたもう - 意図について、また意図が、どのような形で顕されるのかについて。『しるし』を見せよ、私が全てを知れるように。雲があろうと、私は月を見誤りはしない」。奴隷は言った。「ならば何故に私に話せと仰るのですか。全てご存知なら、お話しすることは何も御座いませんのに」。王は言った、「神が世界を創造したのもそのためだから。神は知恵もて世界を創造したもう、故に知恵は明らかにされねばならぬ。

995. 産みの苦しみ、痛みの中に世界が据え置かれるとき、それは御方がご自身の知恵の開示を望まれたもうときだ。そうなればたった一瞬でさえ、何も為さずにただ座っていることなど出来はせぬ。悪きにせよ善きにせよ、何かしらを産まぬ限り休息を得ることなど出来はせぬ。おまえの内側にある意識を、外側に向けて明らかにせよ。行為を起こせ、それがおまえに対して命じられたことだ。心に繋がる糸の端が、今まさに引っ張られているどのときに、どうして糸巻であるおまえの身体が、何ごとも無いままでおられようか。おまえ自身の苦しみが、糸を引っ張っているのだ。行為を起こさぬままでいればいるほど、おまえは断末魔の苦しみを味わう羽目に陥るだろう。

1000. こちら側の世界もあちら側の世界も、永遠に何かしらを産み続けている。あらゆる原因は母であり、あらゆる結果はその子にあたる。そしてまた、生じた結果は長じて原因となり、次に生じる結果に、思いもよらぬ影響をもたらすことだろう。こうして入れ替わり立ち代わり、生じては消え、消えては生じる - だがよほど注意深く観察する目を持たぬ限り、連環する鎖を見破ることは出来ないだろう」。王は(奴隷と共に)かく語り、ある結論に到達した。求めた『しるし』を見出したのかどうか、王の表情から読み取ることは出来なかった。(『しるし』を)見出していたとしても不思議ではない - だがそれについて、ここでとやかく詮索することは私達には許されていない。

1005. やがてあの(もう一人の)奴隷が暖かな浴室から出てくると、王と高官達は彼を近くへと招き寄せた。(そして)言った、「汝、末永く健やかであれ!汝に幸あれ!おお、美しき者よ、磨かれたる者よ、見目麗しき者よ!誰であれ、汝の顔を見れば喜ばずにはおれぬだろう。もしも汝について、あれこれと告げ口する者さえいなければ。そのような者さえいなければ、汝は帝国の領土にも値するだろうに」。彼は言った、「おお、王よ、ほんのさわりだけでもお教え下さい。その汚れた悪党は、私について何を言ったのですか」。

1010. 王は言った。「第一に、彼はおまえには裏表があると言った。外面は治療が済んでいるように見えても、内面は病んで膿みただれている、と」。王から、同僚が彼について悪口を言ったと聞くが早いか、彼の中の怒りの海はあっと言う間に荒れ狂って波しぶきをあげた。奴隷は真っ赤になり、口角泡を飛ばして矢継ぎ早に反論し始めた。吐き出される罵倒と非難の言葉は、たちまちのうちに境界線を超えた。「初めて共に仕事をした頃から、あいつにはひどい目に合わされてばかりだ!まるで飢饉の最中の野良犬のよう、糞でも何でも食らう奴め!」。まるで鳴り止まぬ鐘のよう、王は彼の口に手を当ててふさいだ。「もう十分だ!」、王は言った。

1015. 「おまえについても、彼についても十分に承知した。真実は明らかだ。確かにおまえの同僚は病んでいる、だがそれは口腔に限ったこと。しかしおまえは、性根が病んでいるとみえる。それ故に命ずる。汝、汚れた者よ。遠く離れて座せ。命ずるのは彼だ。そしておまえは、彼の命ずるところに従え」。これはハディース(預言者ムハンマドの言行録)にも記されていること。曰く、「知れ、偽善者による神の賛美など、塵の山に花を飾るようなものだと」。どれほど見栄えが良かろうと、どれほど善きものに見えようと、価値が悪ければ見た目など何の意味も無い、小銭一枚にもならない。そしてまた、どれほど見栄えが悪かろうと、姿かたちは劣ろうと、中身の価値が高ければ、四の五の言わずにその足許にひれ伏せ!

1020. 知れ、外側に顕われる姿かたちは、いずれは消え去るものであることを、そしてまた、リアリティは永遠に残るものであることを。あなたは、一体いつまで水差しの形にこだわり続けるつもりなのか。水差しの外見など構うな、それよりも、行け、行って水そのものを探せ。あなたは外側に顕われる姿かたちを見ることはあっても、現実そのものを見ることはしない。賢い者ならば、貝殻の中に真珠を見出せ。世界中にある身体という名の貝殻、どれひとつを取っても魂の海原の恩恵を受けていないものはない - そしてまた、必ずしも全ての貝殻が、真珠を持っている訳ではない。あなたの目を見開いて調べよ、それらの中心に何があるのかを。

1025. そして見分けよ、それらが何を持っているのか、いないのかを。価値ある真珠というのは、そう簡単に見つかるものではないことが知れるだろう。姿かたちばかりを意識するようなら、山はその見かけによってルビーをはるかに凌ぐものとなろう。大きさからすれば、山々はルビーよりもよほど大きい。姿かたちで計るなら、手も足も髪も、目の縁には収まり切るものではない。しかしあなたが有する全ての器官のうち、最も優れたものが両の目であることは明らかだ。心に入り込んだたった一つの思案が、百の世界を一瞬にして覆してしまえるほどに。

1030. 姿かたちとしてみれば、スルタンの身体はたったひとつだ。しかしその背後には、何千、何万という兵士達が控えている。その頂点に立つ王の姿かたちは、目には見えぬひとつの思考によって動かされているのである。見よ、終わり無き洪水のごとく大地を流されてゆく人々を。人々の目に思考は見えぬ、だがそれはあたかも洪水のように世界を流し去ってしまう。全ては思考に始まる。この視点に立てば、世界に生じ、存在するあらゆるもの -

1035. 家も宮殿も都も、山も野原も川も、大地も海原も、太陽も大空も - 全てはそこから生まれ、そこに生かされているのが見える。まるで海から生まれ、海に生かされる魚のように - ならばあなたの愚かしい性情は、おお、見ぬ者よ、何ゆえに身体についてはソロモンのごとく捉え、思考については蟻のごとく捉えるのか。あなたの目は山を偉大なものと捉え、オオカミのごとくに捉え、それでいて思考についてはネズミのごとく捉える。あなたの目には、物質的領域こそが畏怖すべきもの、称賛すべきものとして見えている。あなたは震えて、雲を、雷を、空を怖れる。

1040. ところが精神的領域についてはまるで無関心、無頓着だ。おお、ロバにも劣る者よ - 怖れることも無く、すっかり安心しきっていられるのは何故か。路傍の石のように姿かたちだけを持ち合わせ、思考を巡らせる知性の持ち合わせが無いからだ。それのどこがヒトだろうか、生まれたばかりのロバにも劣る者よ。影に過ぎないものを実在と看做すのは、無知のなせる技ではないか。無知ゆえに、全てが遊戯にしかならぬし、また全てが軽々しくもなる。 - 待つがいい、思考が、精神が、邪魔立てするヴェイルも無く翼と羽を拡げる「その日」の訪れを。「その日」、あなたは見るだろう、山々が羊毛のように柔らかくなり、大地が熱さも冷たさも失って消失するのを。

1045. あなたの目は空を見ることも、星々を見ることも、その他の何を見ることも無いだろう - ただ神を除いては。唯一の御方、生ける御方、愛する御方 - ここに物語がある。嘘かまことか、いずれにしても真実を告げる物語が。


王と奴隷と、侍従の嫉妬

王は奴隷を、その美徳ゆえに他の家臣達よりも飛び抜けて寵愛した。彼の手当はアミールの俸給にして四十人分、侍従を百人集めても、彼の手当の十分の一も受け取ってはいなかった。王が過ぎし日のマフムードなら、奴隷はアヤズのようであった。

1050. 繁栄と幸運の星の下に生まれつき、更にそれを成就させたのである。彼の身体が創造される以前から、彼の精神は王のそれと同類の、非常に近しい間柄だったのだろう。身体の創造以前に関わる話である ー それは(神を)知る者にとっては重要な議論だ。後から新たに加わったこれ(身体)については置いておけ。彼ら(神を知る者)の目は見開かれている。彼らの目は、原初において植えられたものをこそ凝視する。それが小麦(善とみなされるもの)として植えられたのか、あるいは大麦(相対的に悪とみなされるもの)として植えられたものか - 昼となく夜となく、彼らの目はそれが植えられた場を見守り続ける。夜そのものからは何も生まれぬ、女が孕んだ以上のものは生まれぬ。意匠も計画も、それそのものは風に過ぎぬ、空っぽの風に過ぎぬ。

1055. どれほど美しい意匠だろうと、いや優る神の意匠を見た者の心が浮き立つことは無いだろう。自らの計画を信じる者とは、所詮は(神の)罠の裡に罠を仕掛けているに過ぎない。神のからくりを見もせずに、ヒトのからくりに陥る者。数えきれぬほどの緑が育ち、そして枯れてゆく。最後に残るのはただ神の植えし緑のみ。狡猾な者は原初の種の植えに新たな種を蒔く、だが二番煎じの種は没する。つつがなく永続するのは第一の種、原初の種のみ。第二の種は不正の種、腐敗の種だ。

1060. あなたの才覚など、愛されし者の前に投げ出してしまえ - 尤も、あなたの才覚ですら実のところ愛されし者の有であったのだが。真に役立つものとは、ただ神が高めたもうもののみ。最後まで生長するものとは、ただ神が原初に植えたもうもののみである。たとえ何の種を蒔こうとも、御方においてこそ蒔け - おお、愛する者よ!あなたは愛されし者の捕虜に過ぎぬ。盗癖ある我欲の周囲をうろつくな。我欲の為せる業から離れよ、神の為せる業の他は全て無に帰するのだから。良い種を蒔け、復活の日が訪れる前に、その日、王国を保持する御方を前にして、夜盗は恥をかくことになろう、

1065. 復活の日、その首には未だ彼らが盗んだものが、彼ら自身の策略はぶら下がっていることだろう。幾千万という意識が、御方の罠を避け、別の罠を仕掛けようと一緒になって飛び跳ねている。しかし彼らのしていることは、彼ら自身を更に深く罠へと陥らせるだけのこと。藁くずがどれほど抗おうと、風が吹けばどう抗えるだろうか? - するとあなたは私に尋ねる、「それでは一体、何のために創られたのか分からない。私という存在の意味は何なのでしょう?」。私は答える。「この頑固者め。あなたがそうした問いを発することにこそ、何らかの値打ちがあるというものだ。あなたの発したその問いに、本当に何の意味も値打ちも無ければ、どうして私が耳を傾けたりするだろうか。さっさと素通りして、実を結ぶことも無いだろう。

1070. そしてまた、あなたが意味について問いを発するならば、祈れ、そしてこうも問え - 世界とは、無意味で値打ち無きものだろうか?ある視点に立てば、世界とは価値無きものだろう。だが別の視点に立てば、世界とは価値高きものでもあろう。あなたには値打ちあるものと見える何かが、別の誰かにとり無駄なものと見えたとしても、あなた自身が価値を認める以上、そこから手を引くことは無い」。彼の兄弟達にとっては目障りで余計なものに過ぎなかったヨセフの美貌も、世の人々にとっては価値高き憩いであった。ダビデの奏でる旋律も、信じる者達にとってはこの上なく貴重で大切なものだが、疑り深くそれを禁じる者達にとっては、木々の切れ端がこすれ合う雑音でしかない。

1075. かつてナイルの水は命の水よりも優れていた、しかし疑り深い者、信じぬ者にとりそれは血でしかないのだ。真に信じる者にとり、教えに殉ずるとは真に生きることを意味する。しかし偽善の者にとり、それは忌むべき死滅と腐敗を意味する。全員が満ち足りるということはあり得ぬ - 教えてくれ、この世におけるありとあらゆる祝福のうち、誰ひとりとして除外される事無き祝福などというものがあるだろうか。雄牛とロバが、共に砂糖から益を得るだろうか?あらゆる魂は自らに見合った異なる食物を得る。全員が同じ草を食むことは出来ぬ。 - とは言うものの、その食物が本来の意図するところではなく、本質にそぐわぬ時には、良き忠告によって矯め直すのがふさわしかろう。

1080. 例えば、やまいにより好んで土を食するようになった者のように - 病人自身は、それ(土)が自分にふさわしい食物と思い込んでいる。しかし実際には、やまいが本来の食物を忘れさせ、滋養とはかけ離れた食物へと病人を向かわせている。やまいが蜂蜜を捨てさせ、毒を食べさせている。病んだ食物を、やまいが脂肪のごとき滋養であるかのように思わせるのである。ヒトにとり、本来の食物とは神の光だ。動物が食べる食物は、本来からは大いにかけ離れている。だがやまいを得た成り行きから、ヒトの意識は惑いに陥っている、すなわち朝夕、水と土とを口に詰め込まねばならぬという惑いに。

1085. その顔は青ざめ、足許はおぼつかず、心は今にも壊れてしまいそうな - 天上の食物はどこにあるのか?星のごとくきらめく軌跡を描いて届けられるはずの、あの天上の食物は?それは聖なる食物、選びに選び抜かれた滋養。喉を通ることも無く、食器を使うことも無しに食べるもの。(精神の)太陽が育んだその食物は、天上の玉座が放つ光を通して届けられる。対して嫉妬深き者、邪悪な者が口にする食物は、泥土の絨毯が吹き上げる土ぼこりに過ぎない。神は告げたもう、「神の道に殉ずる者は、主のみもとにおいて養われている(コーラン3章169節)」。その糧(を食するのに)、口も皿も必要とはせぬ。心とは、それが必要とする食物を、友から受け取り養われるものである。心とは、それが必要とする成長を、知から受け取り磨かれるものなのである。

1090. 全てのヒトは、一見するとまるで杯のようだ。彼、もしくは彼女の真実 - 杯の中身 - を感知し得るのは(精神の)目のみ。相手が誰であろうと、出会ってしまえばあなたは必ず相手から何かしら受け取り、食することになる。たとえそれがどのようなつながりであろうと、あなたは必ず相手から何かしら土産として持ち運ぶことになる。惑星と惑星が出会い、合の座相に入れば、それにふさわしい結実がもたらされるのは疑いようもない。男と女が出会い、合の座相に入れば、その結実としてヒトの誕生がもたらされる。石と鉄が出会えば、その結実は飛び散る火の粉である。大地と雨季が出会えば、果実が、木々が、甘く香る緑草が生まれて育つ。

1095. 緑に彩られた景色や景観は、それを見る者と出会い、見る者の心に喜びを生じさせる。しばし悲しみを忘れさせ、幸福を思い起こさせる。そして私達について - 私達の良心、私達の愛情は、私達が自らの魂と出会い、幸福な合一を果たすことによって生じる。私達はじっとしてなどいられない。閉ざすもの無く広き処で自由に遊びたい。その欲求が満たされて、ようやく私達の身体は、ものを食べたり、飲んだりすることも出来るようになる。血は頬と出会って表情を赤く輝かせる。血から赤みを引き出すのは、美しいバラの色をした太陽の光だ。全ての色のうち、赤ほど優れた色はないだろう。それは太陽から生じる色、それは太陽から届けられる色。

1100. 土星との合の座相に入った土地では、どこもかしこも硝石と化して、種を蒔くどころの騒ぎではなくなる。同調する者があればあるほど、行為はその力を増してゆく - 悪魔と、偽善者達の結託を見よ。魂における真実は、(現世的な)見かけ倒しの華麗さや荘厳さなど必要とはしていないのである。魂における真実は、華麗も荘厳も、最初から九層の天によって得ているのである。現世は被創造物、そこにある華麗も荘厳も借り物に過ぎない。(けれど)彼らは、現世における華麗を、荘厳を求め、そのためなら屈辱をも受け入れる。(現世の)名誉を乞い願う間は、たとえ失墜しようが彼らは幸福なのだ。

1105. ほんの十日間ほどの(ほんの一時期の)、惑いに満ち満ちた名誉を欲して、彼らの首は糸つむぎのように細くなり、不安の糸を巻き付ける - 何故に彼らは、此処へ、私のいるこの場へと足を運ばないのか。名誉を、栄光を欲するなら私の許へ集え、(精神の)栄光の裡にある、私は輝く恒星だ!太陽の昇り処は煤色の(天国の)塔。けれど私の『太陽』は、全ての頂点を超えたはるか彼方を昇りゆく。『彼』にとり昇り処といえば、それはただ御方の塵残されし処のみを指す。『彼』の本質は、上昇もせず下降もしない。主の塵を拝しつつ二つの世界を往来する、私は影無き太陽だ!

1110. それでもなお、私は『太陽』を中心に回転し続けている - 素敵なことだ、全てはこの『太陽』が為せるわざ。『太陽』は全ての理由を熟知している。それでいて、同時に『太陽』は、全ての理由に通ずるへその緒を断ち切るのだ。幾千回、幾万回となく私の希望のへその緒は断ち切られた - 誰との?『太陽』に決まっている!私が『太陽』無しに生きてゆけるなどと思わないでくれ、魚が水無しに生きてゆけるなどと思わないでくれ。そしてもしも私が絶望したならば、わが友よ ー わが絶望は『太陽』がそう望み、そうさせたまでのことなのだ。 (註:『太陽』=亜語でشمس(シャムス)。シャムス(シャムスッディーン)について参照

1115. 生起する現象を、どうして生起させる者自身から切り離せるだろうか?偶有の存在が、絶対の存在の牧草地に依存すること無しにいられるだろうか?ブラーク(天馬)であれアラブ馬であれ、たとえロバであってさえこの牧草地に養われているのである。うつろい変わりゆく全てが、かの大海原から生じているのだ。だがそれを見ぬ者、知らぬ者は、何かが起きるたびにせわしなくそちらの方を向き、次から次へと祈る先を鞍替えする。彼らは甘き大海原を前にして、辛い水を飲んだ者達。塩水が、彼らの目を塞いでしまっている。大海原は告げる、「おお、見ぬ者達よ。わが水を右の手もて飲んだなら、汝らの目も開かれることだろうに」。

1120. ここで言う「右の手」とは、「正しい見識」という意味だ。善について、そして悪についても、それらが何処から来るのか良く知っている、ということだ。おお、槍の穂先ならば槍の射手について良く熟知しておかねばならぬ、まっすぐに飛ぶべきか、あるいは弧を描くべきか。 - 『太陽』への、シャムスッディーンへの愛ゆえに、今宵の私は爪を抜かれて無能と成り果てた。でなければ目の見えぬ者達にもの見せるなど、以前の私なら雑作も無いことであったのに!これ、ヒシャームよ、真実の光よ - 急げ、急げ。癒してくれ、嫉妬深きこの目を、取り除いてくれ、この混乱を。威厳という名の磨き粉で目を磨き、強情の暗愚に薬を与えてくれ。

1125. 見えぬ者の目にそれが届けば、垂れ込めた百年の暗闇も取り除かれることだろう。見えぬ者は誰でも癒しておやり - ただし妬みの感情ゆえに、おまえを否定する嫉妬深い者を除いて。おまえを妬む者に対しては、新たな生など一瞬たりとも与える必要はない - たとえそれがこの私であっても!否、おまえはそう心配するな。構うな、私のことなら放っておけ。私は(魂の)死をこうして味わい続けよう - そして彼らもまた。彼らというのは、つまりわが『太陽』を妬む者どものこと、『太陽』の存在を苦悩と捉える者どものこと。真実の光よ、ヒシャームよ。おまえは見ておけ、彼らを犯している不治の病の有り様を。おまえは見ておけ、永遠の太陽を前にしてそれを否定した者どもを、そしてそれ故に、穴の底をどこまでも深く転げ落ちてゆく者どもの有り様を。

1130. 永遠の太陽の滅びを願う者がある。そんな願いがどうして叶えられるだろうか?


鷹とフクロウ

ここに鷹(神の探求者)がいる。いずれは、王の腕へと還る身である。はぐれてしまった鷹もいる。それは盲いた鷹だ。道に迷って、彼女は荒野へとその身を堕とした。彼女は荒野の、フクロウの群れの中にその身を堕とした。いと高き神が放つ光を一身に集めて、かつてその鷹は全身全霊が光そのものであった。だが神の定めたもう運命が、彼女から光を奪い去った。その瞳を塵で塞ぎ、正しき道から遠く引き離してしまった。

1135. 挙げ句の果てに、フクロウ達が相争って鷹に襲いかかってきた。美しいその羽を、翼を、引きちぎるようにして奪い合う。フクロウ達の間に喧噪がわき起こる - 「見ろ、鷹だ、鷹が来たぞ!我らの住処を奪おうと企んでいるに違いない!」。それはまるで、野卑で凶暴な野良犬どもが、見知らぬ旅のダルヴィーシュの外套に飛びかかるような有り様だった。「一体、この私が」、鷹は言った、「どうしてフクロウなどと共棲みなど出来ようか?このような荒野など、百でも二百でもおまえたちフクロウにくれてやろう。私は望んでここにいるのではない。私は去る身、王の中の王の許へ還らねばならぬ身。

1140. フクロウどもよ、鎮まれ!あまり興奮し過ぎると、自ら命を縮めることになろうぞ。私は此処に留まる者ではない、私には還るべき住処がある。このような荒れ果てた廃墟でも、おまえたちには栄華の都というわけか。しかし私にとっての喜ばしき臥所は、王の腕に他ならぬ」。「油断するな!」、首領とおぼしきフクロウが、群れに向かって語る。「この鷹の企みなどお見通しだ。我らを住処から追い出して、そこに居座る魂胆だ。狡猾にも、我らの住処を乗っ取ろうとしているのだぞ。我らと我らが巣を引き裂いて奪おうとは何たる偽善者か。こいつめ、自分自身にすっかり満足し切っている!神かけて、世界中の欲望をかき集めてもこいつの欲望には追い付かぬだろう。

1145. 貪欲さゆえに、こいつはまるでなつめやしの蜜でも食うように泥をむさぼり食うのだ。おお、仲間達よ!羊の尾と熊を取り違えてはならぬ!王だの、王の腕だのと自慢げに嘘をつき、こいつは我らの純朴な心をもてあそび、我らを惑わせようとしているのだ!鳥は所詮ただの鳥に過ぎぬ。どうして取るに足らぬ鳥の分際で、王と親しくなれるものか。こいつの言うことに耳を貸してはならぬ、少しでも知恵があればその価値も無いことは分かるだろう。一体、こいつは何ほどの者か。王の一族か、それとも宰相か?くるみの実で作る菓子に、にんにくがふさわしいとでも思うのか?言うに事欠いて『王も王の軍勢も私を探している』などと!

1150. 全く受け入れ難い、狂った妄想も甚だしいとはこのこと。嘘に決まっている、全てこいつの策略だ。何の足しにもならぬ無駄な誇りだ、そんな罠にかかるのは愚者に決まっている - 誰であれ、これを信じるのはまさしく愚かさゆえだ。ちっぽけな鳥が、どうして王と同等に渡り合えるものか!我ら平々凡々たるちっぽけなフクロウがこいつの脳髄を叩き割ったところで、何処に王の救いの手など得られるものか!」。鷹は言った、「もしも私を羽一枚でも傷つけようものならば、王の中の王はフクロウの眷属を根絶やしにすることであろう。一体フクロウとは何か?もしも私の心を悩ませいらだたせ、私に無理強いする者が鷹であったならば、

1155. 王は何十万、何百万の鷹を討ち取り、その首をあらゆる丘と谷とに積み重ねることであろう。御方の恩寵は、常に私を見守っていて下さる。たとえ何処へ行こうとも、御方の庇護は常に私の背後にある。わが想い、わが幻が、常に王の御胸に去来している。わが姿、わが面影を見失えば、それは王にとっても堪え難き苦痛なのだ。王が私を、王の道へと飛び立たせるとき、私は身も心もこれ以上は無いほどの高みへと飛ぶ、まるで王の放った一筋の光のように。月のように、太陽のように、私は大空の垂れ幕を引き裂いて飛翔する。

1160. 知性の光はわが思考より放たれる - 大空(というまやかし)を破裂させ、『存在』へと帰さしめること - これぞわが天与の性質。私は鷹、私を見ればフマー(不死鳥)でさえも驚きのあまり茫然自失するであろう。一体フクロウとは何か?わが秘密を知るフクロウは誰であろうか?わがために王も牢獄(現世)を今一度思い起こし、幾千、幾万の虜囚を解き放たれた。束の間、私をフクロウと相見えさせ、わが吐息(言葉)によってフクロウを鷹へと変化させた - フクロウに祝福あれ!おまえたちは本当に運が良い、(神へと帰還する)わが飛翔を目にし、わが秘密を知り得たのだから。

1165. そうやって私に執着するがよい、私を追い回すがよい。そうしているうちに、やがておまえたちフクロウにも、王の鷹となって飛翔することの歓喜が訪れるやも知れぬのだから。かような王と愛し合う鷹が、たとえ何処に降り立とうとも、どうして見知らぬよそ者などであり得ようか?苦痛をいやすのに、王をこそ薬とする - かような者が、たとえ笛のごとく悲しげな音色を奏でようとも、どうして何ひとつ持たぬ貧しき者だなどと言えようか?私には、私の統べる魂の王国がある。だのにどうして、私が誰かの機嫌を伺い媚びへつらい、世辞を言う必要があろうか。私には聞こえる - あれは岸辺から王が太鼓を打ち鳴らす音、あれは鷹を呼び出す音 - 『還れ!(コーラン89章28節)』と繰り返すあの音が。たとえ敵の手に墜ちようとも、唯ひとつの神こそはわが証言者。

1170. 王の中の王と私は似ても似つかぬ、王の中の王ははるかに遠い - しかし私は王から光を与えられた。光にかけて私は告げる、私が私であることを! - 姿や性質が異なるからといって、それが同種ではないとは限らない。水と土とは異種だが、植物の裡においては同種である。風と火とは異種だが、永遠不変という点において同種である。葡萄酒も、ヒトに飲まれればやがてヒトと同種となり情緒を醸す - 私と王とはいかにも異種である。故に私は「私」を捨て去り、「王」の中へと「私」を消し去ったのだ。「私」の自我はすでに消融し、ただ御方のみが残存する。

1175. 個に分かたれ、自我と名付けられた魂は土埃に過ぎぬ。今の私は、わが主の馬の脚の下に巻き起こる砂塵の一粒、わが主の馬が駆け抜け後に残されたしるしに過ぎぬ、小さくはかない一粒に過ぎぬ。おまえたちも塵の一粒となれ、いと高きものの頭上に戴かれし冠とならんがために。わが姿かたちに欺かれることなかれ - わが旅立ちの前に、わが祝宴の蜜菓子を食べるがいい!」。世にはその姿かたち自体が待ち伏せである者が数多くいる。姿かたちに引き摺られ、いつしか神に辿り着く者もいる。彼らは(聖なる者の)姿かたちを標的とし、実のところ神に引き寄せられる。どうあがこうとも魂は体に繋がれている、だが魂と体は似ても似つかぬ。一体、この魂なるものと体とに何の共通点があるだろうか?

1180. 眼光は脂肪の塊のごとき眼球に宿り、心光はどろりとした血液の一滴に宿る。歓喜の情は腎臓に座し、悲哀の情は肝臓に座す。ろうそくのごとく照らす知性は、ここ、頭の中の脳髄に座す。こうしたつながりについても「いかにして」あるいは「なにゆえに」の解答が必ず存在する。しかし「なにゆえに」の問いに対する知識について、私達の心はそれに答えうる能力を持たない。宇宙の魂、全的なる生命が、ヒトの魂、個別の生命に働きかけた - 後者は前者より真珠の一粒を受け取り、胸の奥にしまい込んだ。それが胸の奥に触れたとき、魂は身ごもったのだ、あたかもマリアのように、我らが憧れの救世主を!

1185. 地上を歩くでもなく水上を歩くでもなく、しかし空間の束縛をはるかに凌駕する偉大なる救世主を  - 魂の魂、生命の生命によって個々の魂が身ごもるとき、それは世界をも身ごもる。そうして産まれた世界が次の世界を身ごもり、さらに次の世界からその次の世界が産まれる - このようにして世界は産まれ、このようにして人々が集まる場となり、このようにして今まさに生命について知らされているという訳だ。このまま終末の日に至るまで語り続け、物事を数え上げようとも、(魂における)復活について語るには、私ではいささか力量不足というもの。魂の復活について語ろうにも、実際に私の口から紡ぎ出せる言葉といえば、ただ祈りの言葉のみとなろう - 「おお、主よ!」。私の言葉は祈りの言葉となろう、甘き唇を持つ御方の吐息をわが身に引き寄せるために。

1190. 「われここに在り」の御言葉を頂けるなら、どうして怠ってなどいられようか?「われここに在り」の御言葉を、耳で捉えることは出来ぬ。それでも「おお、主よ!」と呼びかける者は、頭から爪先まで、全身でその甘美を味わうことだろう。


喉の渇いた男が煉瓦を水に放り込む話

流れる水の岸辺に高い壁があった。そしてその壁の上に、のどの乾いた哀れな男がいた。壁は、男が水へと至るのを妨げていた。まるで魚が水に焦がれるように、男は水を欲していた。突然、彼は一塊の煉瓦を水めがけて投げ入れた。水しぶきの音が彼の耳に届いた。

1195. まるで耳元で話しかけるかのよう - まるで甘く楽しげな友人の語る言葉のよう。水の音は彼を酔わせた。まるで葡萄酒を飲んだかのように、彼は酔い心地になった。(激しい渇きの)試練の只中にいた男は、水の音を耳にする楽しさに、煉瓦を取り上げては次々に投げ始めた。水は音を立てた、それはこう叫んでいるように聞こえた - 「おい、そうして私に煉瓦を投げつけて、一体おまえに何の得があるというのか?」。のどの乾いた男は言った、「おお、水よ!私には二つばかりの得がある、だからこうし続けることを止めるつもりはないぞ。一つめの得は水の音を聞けることだ。のどの乾いた者にとり、その音はまるでラバーブ(註:古楽器の一種。参照 http://t.co/gtJxLGsY )のように心地よい。

1200. その音は(私にとり)まるでイスラーフィールの(喇叭の)よう、死者を甦らせる響きか、はたまた春を告げる落雷か - それにより庭園も数々の美しい飾りを得るだろう。あるいはまた貧しき者にとっての喜捨の日のよう、あるいはまた虜囚にとっての解放の吉報のよう。それは口を用いること無しに、はるかヤマン(イエメン)からムハンマドに届けられる慈悲深き御方の吐息のようでもある。あるいはまた罪人に、執り成しのために届けられるアハマド(ムハンマド)の芳香のよう。

1205. あるいはまた美しく優しき者ヨセフの芳香のよう、それは衰えたヤコブの魂を打つ。そして二つめの得とはこれ、こうして煉瓦をこの壁から引きはがせば引きはがすほどに、私は水の流れに近づくのだ。壁を高くしているこの煉瓦の、残りが少なくなればなるほどに、壁もまたその分だけ低くなってゆく。壁を低くすること、壁を無くすこと、これぞ水へと近づく道。私と水とを分かつこの壁、この分離こそが、実は合一への導き、合一への妙薬であったのだ!」。塗り固められた煉瓦を引きはがすこと、これすなわち祈りのために平伏すること。祈りのために平伏すること、これすなわち神に近づくこと - 「伏し拝んで、主に近づけ(コーラン96章19節)」といわれる通り。

1210. ふんぞり返って高くそびえ立つ驕りの壁は、(祈りのために)頭を垂れることの妨げとなる。土塊で出来たこの身体を逃れぬ限り、生命の水のおもてに顔近づけることも叶わぬ。壁の上に立つ者の、のどが乾いていれば乾いているほど、誰よりも速く煉瓦を、土塊を引きはがすだろう。水の音に恋い焦がれれば恋い焦がれるほど、誰よりも大きな土塊を壁からはぎ取るだろう。水の音に満たされる者は、首元まで(法悦の)葡萄酒に満たされる者。だが愛を知らぬ門外漢には、ただの水しぶきとしか聞こえぬことだろう。

1215. ああ!祝福されたる人々とは、すなわち過ぎ去る日々の中で、あらゆる好機を逃すことなく自らの借りを返し終える人々 - 未だ衰えぬ間ならば、健やかさも力も、心と体とに満ちあふれているというもの!そして青春は瑞々しく鮮やかな緑の庭園のよう、惜しみなく果実をみのらせて成熟の時期を迎える。気力と活力の泉は涸れること無く流れ、身体の土壌に新緑が生い茂る。手入れの行き届いた館の屋根ははるかに高く、その壁は歪みひとつなく、支柱も補強も必要としない。

1220. あなた方の首を「椰子の荒縄(コーラン111章5節)」もて括れ、老いらくの日々が訪れる前に、痩せて砕けた不毛の土地となる前に。良い草は、痩せ土には決して育たない。ひとたび、気力と活力の泉が涸れてしまえば、自分からも他人からも、何ひとつ得ることが無くなるだろう。眉は馬のおとがいのように垂れ下がり、目はうるんでかすむだろう。顔には皺が刻まれ、とかげの背のようになるだろう。言葉も覚束なくなるだろう、舌も歯も使いものにならなくなるだろう。

1225. もはや日も遅く、ロバの足も衰え、道程ははるか遠い。仕事場は荒れ果て、仕事そのものの調子もくるい果てた - 悪習が堅固な根を張り、だがそれを抜き去るための力は残されてはいないのだ。


譬え話:道に茨を植える者

譬え話をしよう。口だけは達者な、無神経で冷酷な男がいる。平然と虚偽をまき散らし、嘘をつくことに何の呵責も感じぬ男だ。彼は往来の真ん中に、棘の生えた茨を植える者。道ゆく人々は彼を非難し、幾度となく、茨を掘り起こして道を元通りにするよう彼に求めた。時が経てば経つほど、茨はどんどん大きく育ってゆく。道を歩くたびに人々の脚は傷つき、痛みと共に血が流れる。

1230. 着ている衣服は棘に引き裂かれ、靴持たぬ貧しき者の足裏は哀れにも血まみれになる。やがてアミールもやってきて、真剣に男と向き合いこう告げる、「掘り起こせ」、と。すると男は答える、「ええ、そうですね。いずれは掘り起こしますよ」。もうずいぶんと長いこと、彼はそう約束し続けている。明日にでも掘り起こしますよ。明後日にでも掘り起こしますよ。  - その間にも、彼が植えた棘だらけの茨は旺盛に育ち続け、今やすっかり根をはってびくともしない。ある日、意を決したアミールは彼に命ずる。「この嘘つきめ、約束を違え続ける不届き者め。今すぐに私の命じた通りにせよ、取り返しがつかなくなる前に。これ以上は逃げも隠れも出来ぬと思え」。彼は応じる、「おお、親愛なるわがお身内どの。そう慌てずとも、時間はたっぷりありますよ」。「ならぬ。急げ」、彼は告げる、「分からぬか。これ以上、負債の支払を遅らせることは許さない」。

1235. 「明日こそは」と口にする者よ、心せよ。日々というもの、過ぎ去れば二度と取り戻せはしない。掘り起こさねばならぬ者が、ぶつぶつと言い訳を重ねる間にも、一度植えた邪悪の木は育ち続ける。掘り起こさねばならぬ者が、年老いて力を失いつつあるのとは裏腹に、茨は生気を、力を増し続ける。棘だらけの茨はいきいきと緑の度合いを増す。掘り起こさねばならぬ者は刻一刻と灰色の度合いを増す。あなたは老いる。棘の茨は若返る。急がなくてはならない、あなたの時間は限られているのだ。

1240. あなたの悪習、あなたの悪癖とは、すべてこの茨のようなもの。しばしば、この茨の棘はあなた自身にも突き刺さる。あなた自身の悪癖によって、あなたはしばしば傷ついてきた、あなたが意識していなくとも - あなたの、そして見知らぬ誰かの、あなた自身が苦悩の棘となっているのだ。あなたが他人を傷つけることに無頓着な悪人であったとしても、自分自身の傷にまで無頓着でいられるはずもなかろう。とるべき道は二つにひとつだ。人間として立ち上がり、斧を握って茨に振り下ろすか  - アリーのごとくハイバル砦を陥落するか -

1245. あるいは棘と同衾し、茨と成り果てるか。諸感覚の)燃え盛る炎を、(神の)友の光とひとつに重ねよ。友の光は、あなたの炎を沈めるだろう。友との繋がりは、あなたの棘をバラへと昇華させるだろう。あなたが地獄なら、(神の)友は真に信じる者。真に信じる者ならば、地獄の炎を消し去ることも不可能ではない。地獄の炎の語り口について、ムスタファ(ムハンマド)はそれを惧れることは真に信じる者に近づくための一歩であると説いた。惧れを持つ者は、謙虚さをもって歩み寄ることだろう、そしてこう言うだろう、「おお、王よ!どうぞ私の上を通り越して下さい。そして私の中で燃え盛る炎を、あなたの光と共に運び去って下さい」。あるものを消し去ることが出来るのは、その対極にあるもののみ。

1250. 真に信じる者の光は、炎を消し去ることだろう。炎は光の対極にある、前者は(神の)憤怒より生じ、後者は(神の)慈愛より生じている。正義のなされる(審判の)日、炎は光に背く者となろう。もしもあなたが、邪悪な炎を取り除きたいと願うなら、炎の中心に向けて(聖なる)慈愛の水を注げ。真に信じる者こそは、慈愛の水湧く泉である。行い正しき者の体内には、純粋な精神という生命の水が流れている。あなたは彼らを避けて逃げる - あなたの我欲という炎が、彼らという水の流れから遠ざかろうとしているからだ。

1255. 炎も、その熱も、水によって消し止められ冷まされることを恐怖する。身体に備わる諸感覚や、それに基づいた思考など、炎以外の何ものでもない。精神を導く師たるシャイフの感覚、シャイフの思考は、美しい光そのものである。彼の光の水が、炎の上にしたたるとき、炎はガリリ、ガリリと歯ぎしりの音を立て、激怒して飛び上がる。ガリリ、ガリリと音を立てるのを聞いたなら、それに向かって言え、「汝に滅びと災いのあらんことを!」と。たちまちそれは冷えて凍りつくだろう。そしてあなたの薔薇園 - あなたの正直さや、あなたの善い行い - を、燃やすことも無くなるだろう。あなたの我欲、これこそがあなたの地獄なのである。

1260. (地獄が凍れば)それ以降は、あなたが何を植えようとも、必ずや花が咲き果実がみのることだろう。あなたの行く先々で、チューリップが、野バラが、タイムが育つことだろう。こうして私達は、再び元通りの広くまっすぐな私達の道を取り戻すのである。 - 待てまて。引き返そう、「私達の道」とは何処にあるのか - やきもちを妬いている場合か、遺すならば、我らはきちんと遺しておかねば。おまえのロバは何とのろくなったことか、そして目指す宿の灯りのなんと遠いことか。急がねば、旅路の果てはまだまだ先だ。もう年の暮れだ、種蒔きの時期はとうに過ぎてしまった。それなのに収穫したものと言えば、黒ずんだ恥と悪業の数々ばかり。一体どうしたものだろうか。身体という木の、根に虫が巣食ってしまったのだ。掘り起こして、燃やしつくしてしまわねばならぬ。

1265. 何度でも告げよう、急げいそげ、おお、旅人よ!もう日が暮れる。生命の太陽が沈もうとしている、穴の中へ隠れようとしている。ほんの一日、二日分だけでも、いくばくかの気力があなたに残されているのなら、今すぐに寛容の翼を拡げて羽ばたけ。あなたの手に、ほんのわずかでも種が残されているのなら、あなたの時間の、ほんのわずかでもその種を育てることに捧げよ。やがて種は、長い時間をかけて大きく育つことだろう。宝石をちりばめたランプが消えてしまう前に、あなたが自ら芯を替え、あなたが自ら油を注ぎ足せ。用心せよ!「明日こそは」、とは口にするな、一体どれほど多くの「明日」が、そのようにして浪費されたことだろう。種を蒔く日々を、一日たりとも無駄にはするな。

1270. 私の忠告に耳かたむけよ - 身体とは、強烈な束縛そのものである、新たな日々を得たければ、古い日々を捨て去らねばならぬ。口を閉じて手のひらを開け、握りしめたままの黄金を手放せ。身体の束縛を去れ、吝嗇を捨てて寛容を示せ。気前の良さ、寛大さとは、つまるところ欲望と快楽を去ることにある。欲望の裡に沈み込んでしまえば、二度と立ち上がれる者はいない。気前の良さ、寛大さとは、まるで楽園の糸杉の枝のよう、ひとたび枝を手放した者の、何というみじめさ、悲しさか!諸感覚がもたらす快楽を放棄すること、これがこの枝を握るための最も確実な方法である。

1275. この枝は、握る者の魂を天へと引き上げる。おお、行い正しき人よ、あなたは寛大な枝のごとく振る舞え。そうすれば、あなたは天に引き上げられもしよう、あなた自身の根源に出会いもしよう。美に満ち満ちたヨセフとは、あなた自身のことである。そして現世とは、井戸の底である。神の命ずるところに従うこと、これが井戸の底に下ろされたあなたを引き上げる綱となる。おお、ヨセフよ、今あなたの目の前に綱が垂らされている。あなたの両手でしっかりと握れ、綱をなおざりにするな、見て見ぬふりはするな。もう日が暮れる。これ以上、先延ばしには出来ない。神に称賛あれ!この綱は、もうずいぶんと前からこうして垂れ下がっている - 慈悲と慈愛を捩り合わせたこの綱を握れば、あなたは新たな魂の領域を見るだろう、不可視であったはずの領域を、ありありと鮮やかに見るだろう。

1280. 物質の領域は視界から消えて、隠されていた魂の領域が顕われることだろう - 風が吹けば塵が舞う。風と塵とがたわむれている。お遊びの芝居を演じながら、実在を隠す幕をひく。外側から見れば忙しく働いているように見えるだろう、しかしそれは表面上そのように見えているだけに過ぎない。実際には、そこには何も無いのだ。外面を見るな、内面をこそ見よ。殻の内側の核を見よ、その根源を見よ。塵とは、風の手に握られた道具のようなもの。風にこそ目を凝らせ、それは高きところよりやって来る - 風の根源たるいと高き処をこそ見よ。塵を見る目と風を見る目は明らかに違う。塵の行方を追いかける目など、塵と同等の塵の目に過ぎぬ。

1285. 馬については馬が知る。自分が属する仲間達も、自分と類を共にする馬だからだ。それと同じで、騎手に関する事柄を熟知するのは騎手である。そして身体に属する感覚としての目が馬ならば、神の光はその騎手である。馬自体は、乗りこなす騎手無しには何の役にも立たない。馬を訓練し、悪癖を取り除いて矯めねばならない。さもなければ、癖馬は王の前に拒絶されることだろう。馬の目は、王の目から逃れる道を探そうとするだろう。王の目の届かぬところでは、馬の目など捨て鉢の破れかぶれ、何の役にも立ちはしない。あなたがいくら呼び出そうとも、「否。行かねばならぬ道理がない」。馬は緑なす牧草地から離れようともせず、一歩も踏み出そうとはしないだろう。

1290. 身体に属する感覚の目を、騎手として乗りこなすのは神の光だ。そして魂は、神をあこがれてやまぬ。けれど騎手を持たぬ馬が、どうして辿るべき道を知るだろうか?王へと至る道を知るには、王を必要とするのである - 王こそは、その道を知る者だからだ。光を感知せよ、光の進む方へと進め。その光こそ感覚の友とするのにふさわしい。神の光は、感覚の光に輝きを添える飾りとなるだろう。「光の上にも光を加える(コーラン24章35節)」、これがその意味である。身体に備わる感覚の光は、ヒトを地上に引き止める。神の光は、ヒトを天上へ引き上げる。

1295. 身体の感覚が引き起こす諸々の事柄は下界に属する。神の光は海のよう、それは朝露のひとしずくのような働きをする。けれど感覚の馬にまたがる騎手の姿を、目にすることはないだろう - それは良き行為、良き言葉を通してのみ感知され得るものだからである。視覚によって捉えられる光などたかが知れている。それは鈍く重たく、しかも両目の黒(瞳孔)に覆われ隠されている。鈍重さが、光を感知する感覚を押し隠したままならば、更に深くに隠された光の放つ繊細な輝きなど、どうして見つけ出すことが出来ようか。

1300. この世は無に等しく、まるで手の上に乗せられた藁屑のよう、風が吹けばあっと言う間に散って消える。この世は見えざるあの世より生じている。そして見えざるあの世の他に、この世を生じさせるものも無い。あの世との分かち難さ、切り離し難さの中に、この世のはかなさ、救い難さがある。見えざる力が、今この世を高く持ち上げたかと思えば、次の瞬間には奈落ほどにも低く落とされる。たった今、散り散りに砕かれたかと思えば、次の瞬間にはびくともせぬほどに強固となる。右に揺られ、左に揺られ、ある時は薔薇、またある時は棘 - 見よ、筆が走り物語が綴られるのを。そして、見よ、物語がたちまちのうちに人々の目を奪い、筆を走らせる手をまんまと隠しおおせるのを。疾走する馬は目に見えても、馬に乗る騎手は目では捉えられぬ。見よ、矢が空を切って飛んでゆく - しかし弓はどこにあるのか。一人ひとりの魂がその姿を顕すとき、魂を統べる魂はどこに隠されるのか。

1305. 矢を手折ってはいけない、何故ならそれは王の矢なのだから。その矢は、いたずらに距離を競ってたわむれに放たれたのではない。的を熟知なさる御方が、御手ずから弓につがえて放ちたもう矢である。神は告げる、「おまえが射止めたとき、射止めたのはおまえではなく神である(コーラン8章17節)」、と。神の働きは、私達の行いに先在している。矢を手折ってはいけない。手折るならば、あなたの怒りをこそ手折るが良い。怒りの目もて見るならば、ミルクすら血の色に見えることだろう - あなたを刺し貫いた矢に接吻せよ。それから王の御前へと差し出せ、血に染まった矢を、あなたの血に濡れたままの矢を。目に見えるものなど怖れる必要はない。可視の領域は有限の領域、制するも御するもたやすいことだ。しかし目に見えぬものはどうか。不可視の領域には定まった限界がない。その熾烈さときたら、まるで手に負えるものではない。

1310. (不可視の領域における)私達は、狩るよりもむしろ狩られる獲物だ。恐るべき罠を仕掛けたのは誰か?私達は、ポロ杖で打たれる球に過ぎぬ - だが打つ者は何処にいるのか?布が切られ、縫い合わされ - だが仕立て屋は何処にいるのか?火は焚きつけられ、燃え上がる - だが火の番は何処にいるのか?御方にかかれば、ほんの小一時間ほどで、真の聖者もたちまち不信の徒となろう。そしてもう小一時間ほどで、信仰無き合理主義者もたちまち古き良き禁欲主義者となろう。自我が完全に浄められぬ限り、いかなるムフリース(誠実な信仰者)も、罠の危険にさらされたままであることに変わりはない。何故ならその者は未だ道の途上にあり、そして道には数え切れぬほどの山賊達が待ち構えているのだ。安らかに守られるのは、ただ神の御許に逃れた者のみ。

1315. 澄んだ鏡のごとく自我を消し去ってしまわぬ限り、それはムフリース以上の者ではない。小鳥を捕まえぬ限り、狩られる者のままで終わる。しかし狩られる者が完全に狩られ切ったとき、ムフリースはムフラース(勝利する者)となるだろう。今やその者は守護の許にある。それこそ、勝利を得た者である。ひとたび鏡となったなら、二度と鉄に還されることもない。ひとたびパンとなったなら、二度と小麦に還され、納屋に積まれることもないのだ。成熟した葡萄が、未熟な葡萄に逆戻りすることはない。熟れきった果実は、再び青く固くなったりはしない。私達は成長し、熟さねばならぬ。ただし、成熟と腐敗の違いは弁えておかねばならぬ。熟しつつ、だが腐敗とは遠く距離を置かねばならぬ。行け、行って光となれ。(我が師)ブルハーヌ(ッディーン)・ムハッキクのようであれ。

1320. 自我を脱却しおおせたとき、あなたの全身全霊は、(神の)明証以外の何者でもなくなることだろう。あなたの裡の奴隷が消え失せるとき、あなたは王となることだろう。更に、もしもあなたが神秘の全貌を理解したいと願うなら、見よ、サラーフッディーン(・ザルクービー)が良き証左となろう。彼は見るための目を拵える者、目を開かせる者だ。彼の目、彼の仕草、هو(hu:神)の光を得た者がそれらを目にすれば、自らの(霊的な)貧しさを認めずにはおれぬことだろう。シャイフ(サラーフッディーン・ザルクービー)はあたかも神の為すごとくに振る舞う、道具立て無しに物事を行い、言葉を口に出すこと無しに弟子達を教え導く。彼の手のひらの内側で、心は蝋のごとく柔らかにほどけて、おとなしく為されるがままになる。彼は蝋に紋章を押し当てる、あるときは恥辱のしるしを、またあるときは名誉のしるしを。

1325. 蝋に押し当てられたしるしは、紋章が刻み込まれた指輪(の存在)を語る。銘を彫り込まれ、指輪に嵌められた貴石は、では何を語るのだろうか?それは細工師(の存在)を語る - (全ての物事は)連関する鎖だ。全ての輪が、別の輪を通って繋がっている - 私達の、心の山にこだまするあの声の主は誰なのか?時に山は声に満ち、また時に山は静寂に包まれる。たとえ何処にいようとも、その(声の)主こそは賢者であり師である - 師の声よ、どうかこの山をお見捨て無きよう! - 一声、響き渡るとき、二倍にしかこだませぬ山もあれば、百倍にもこだまする山もある。

1330. かの一声を聞き、その語る言葉を聞いて、何千、何万という泉を湧かせて澄んだ水を吹き上がらせる山もある。それは山があまねく贈りとどける恩寵、泉の水とは、それゆえに山の血そのもの。幸運の王が一歩その足を踏み入れれば、シナイの山もその裾から裾までがルビーに変化する。山は、余すところ無くその全体で生命と知性とを受け取ったのである - 人々よ、私達は石ころにも劣るのだろうか?魂は、水を与えるたったひとつの泉すら持たず、体は、ほんの少しばかりの緑も持たない。

1335. 恋い焦がれるあまりの嗚咽が響くことも無ければ、酌人が純粋の葡萄酒を注ぎに来ることも無い。そのような山、斧とつるはしもて根こそぎ切り崩してしまえば良いものを、そうするほどの熱意も渇望も皆無なのだ - ああ、私は月に望みを託すとしよう。月ならば、石のかけらも分け隔て無く照らしてくれることだろう。月の光は、どこであっても道を見出し沁み渡ってゆくことだろう。復活は、山を粉々に打ち砕くだろう。私達から、(拠りどころとなっている)影を奪い去るだろう。この(霊的な)復活が、あの(肉的な)復活よりも後回しにされるとは一体どうしたことか。(外的な)復活が傷ならば、(内的な)復活は傷を癒す塗り薬である。

1340. それを目にする者(経験する者)ならば、誰であれ傷から守られることだろう。それを目にする者ならば、たとえどれほどの悪を積んだ者でも善を行なう者となるだろう。麗しき者を友に持てば、醜き者は(束の間の)幸福を味わう  - だが(外界の)美には、必ずや秋の衰微が訪れるのだ。パンそれ自体は生命を持たない。生命ある者と交わることで初めてパンは生命を持ち、生命の実質そのものとなる。昏い色をした枯木は、明るく燃える炎の友だ。火が点けば昏い色の闇は去り、残るのはただ光だけ。死したロバが塩の山に倒れれば、罪も穢れも拭い去られる。

1345. 「神の色染め(コーラン2章137節)」とは何か。神の洗礼とは、هو(Hu)の、絶対なる<ひとつ>の染め桶にこそ在る。その(染め桶)の中で、白、黒、まだらの者達がたったひとつの色に染まる。かの者(神秘主義者)がその桶に落ちるとき、あなた方は言う、「立ち上がってそこから出て来い」。だが落ちた者は恍惚として答えるだろう、「私は桶になってしまった、どうか私を責めないでおくれ」。そこで「私は桶」と言うのは、かつてある聖者が「私は神」と言い放ったのと同じほどの意味だ。鉄のような者であっても、火に焙られれば火の色に染まる。火を前にすれば、鉄は鉄のままではいられない。鉄は、いかなる時でも沈黙を守る者のごとく振る舞う。しかし実際には、鉄は無言のうちに焼けつくようなその激しさを誇ってもいるのだ。火に焼かれ、鉱山に輝く黄金のように赤く燃えるとき、(鉄は)舌で語ること無くして高らかに叫ぶ - 「私は火だ、私は火だ」。

1350. それ(鉄)は火の色、火の働きによって鍛えられ、称賛に値するものとなる。それで(鉄は)言う、「私は火だ、私は火だ。私は火だ、信じぬなら、疑うなら、試してみよ - 汝の手で私に触れてみよ。私は火だ、信じぬなら、疑うなら、試してみよ - しばし汝の顔を、私の顔に重ねてみよ」。神から光を受け取る者を、天使達は讃えてかしずくだろう、その者が、神に選ばれし者であるがゆえに。そしてまた、その者の魂ゆえに - 頑迷と疑念から解放された、自由な精神ゆえに。

1355. 火とは何か?鉄とは何か?もういい、喋るな。暗喩も理解せず、賢いつもりでずけずけとものを言うな。海に足を踏み入れるな、海が濁るではないか。海についてさかしらに語るな、海岸に立ち沈黙しておれ、どれほど驚愕しようとも、唇を噛んでただ沈黙しておれ。私が百人集まろうとも、海を運ぶ(語る)力を私は持たぬ - いっそ海に溺れてしまいたい、そう思わずにはいられない。その時、私の魂、私の心が、海への捧げものとなりますように - かの海は、私の心、私の魂を、血もて購うことだろう。足が動く限り、私はその中を歩み続けることだろう。もしも足を失ったなら、その時は真っ逆さまに潜るのみだ、まるで鴨がそうするように。

1360. 無様であろうが不調法であろうが、「そこ」にいる者の方が、いない者よりもよほどましというもの。たとえ縁が曲がっていようが、扉は扉に変わりがない。汚れた身体よ、桶に飛び込む時が来たのだ。桶の外に突っ立ったままで、どうして浄められるだろうか。たとえ浄められた者でも、桶から離れてしまえばたちまち汚れてしまう。だがこの桶の清らかさは、決して損なわれることがない。体の清浄など問題ではない。心の清浄こそが問題である。心の清浄には終わりというものがない。そして心には、目には見えぬかの海との繋がりが隠されているのだ。

1365. あなたの限りある清浄さは、より強さを増したがっている。さもなければ(清浄さは)使い古され、すり減ってゆくばかりだからだ。汚れてしまった者に水は告げる、「急いで私の中へ飛び込め」。汚れてしまった者は言う、「水を前にすると、恥ずかしくてかなわない」。水は答える、「だが私無しには、その恥からも逃れられなくなるのだぞ。私無しには、その汚れを拭い去ることも出来ないのだぞ」。古くから『羞恥は信仰の妨げ』と言われるが、汚れを恥じて水から隠れようとする者とは、まさにその好例である。体という桶の歩みが、心に泥を持ち込み濁らせる。しかし体を浄めるのは、心という桶にある水だ。

1370. 心の桶の後を追え、おお、息子よ。体の桶の歩みには、怠ることなく注意を払え。体の海は心の海を打ち砕こうとするだろう、(だが)それらの間には、「超えることの出来ない障壁(コーラン55章20節)」が設けられている。まっすぐだろうが曲がりくねっていようが、正しかろうが間違っていようが、常に御方のお傍へと這ってゆけ。決して後ずさりだけはするな。王の傍近くに仕えれば、それだけ危険も増すだろう。だが御方のお傍に仕えることと引き換えに出来るものなどありはしない。王は砂糖よりも甘く、生はこの甘みのためにこそ使われるのがふさわしい。

1375. (神を恋い焦がれて)愁訴する人々よ!あなた方の上にこそ安寧はある。だが安寧を欲して粗捜しに明け暮れる人々よ、あなた方こそは安寧を遠ざける未熟な人々だ。私の魂は燃えるかまどだ、火を点じられてこそ幸福というもの。火の住まう館になるためには、魂のかまどが不可欠になる。愛のためには、いつでも何かが燃えている - この私の、魂のかまどのように。これを理解せぬ者、愛の熱を知らぬ者は、魂のかまどを持たぬ者。何ひとつ所有せぬということ、無一物であるということそれ自体が、あなたの財となり糧となるとき、そのときあなたは永遠の生を得るだろう。死の方が、あなたから逃げさってゆくだろう。愛のもたらす痛みが、あなたの喜びとなるとき、そのときあなたの魂の庭いっぱいに、薔薇と百合とが咲くだろう。

1380. その他の人々にとっては恐怖でしかないものが、あなたにとっての安寧となり、安寧の守護となることだろう。鴨にとっては守護となる川の流れも、地に住まう家禽達にとっては恐怖でしかない - おお、わが医師よ!今一度、私は気狂いとなった!おお、わが愛する友よ!今一度、私は情熱の人となった!御方よ、あなたが繋いだ鎖の輪ひとつひとつの、なんと多彩なことか、なんと多様なことか。鎖の輪ひとつひとつが、異なる狂気の相を示す。鎖の輪ひとつひとつに贈られた祝福とは、すなわちそれが他のどれとも似ておらず、他のどれとも違うということ。ゆえに私はこうして一瞬ごとに、異なった狂気を味わう。『狂気は全て異なる』という格言がまさしくこれ、とりわけ、素晴らしき貴公子に連なる狂気の鎖ならば。

1385. この種の狂気は、私の理性を断ち割ってしまう。そうなれば、私以外の気狂い全てが正気に返り、私を諌めようとすることだろう。


ズーン・ヌーンと訪問者

ミスル(エジプト)のズーン・ヌーン - 神が彼の貴き魂を、さらなる高みへと引き上げたまいますように! - について、彼の深奥に端を発した新たな騒擾と熱狂について。それはこのようにして起こった - 彼の激情は、途方もなく強烈であった。そしてそれゆえに、大多数の人々の心に生じた苦い塩(反感)もまた、積もりに積もって天を衝くほどの高さになった。おお、地にまき散らされた塩辛い者よ、用心せよ!あなた方の抱く動揺と、聖なる人々の抱く動揺とを、同じ程度のものだなどとは夢にも思うな。人々は、彼の狂気に耐えることが出来なかった。彼の炎に見舞われれば、通常の人々のあごひげ(誇り)など、ひとたまりもなく燃やし尽くされてしまう。

1390. その火が、ものを知らぬ下劣な大衆のあごひげに燃え移ったとき、彼らは彼(ズーン・ヌーン)を牢獄に閉じ込めてしまった。俗物どもに手綱をつけて引き返させるというのは不可能なことだ - たとえ彼らの選んだ道が、彼ら自身を苦しめることになると分かり切っていたとしても。(精神における)王者達は熟知している、彼ら自身の生命を脅かすのは、実にこうした大衆に他ならぬということを。多勢は常に盲目である。そして王者は、(目に見える)しるしというものを持たない。権威は放埒な者達の手に握られていた。ゆえにズーン・ヌーンが牢獄に繋がれるのも当然の出来事であった。偉大な王者とは孤独なものだ!これほどまでに価値ある真珠が、子供達の手で弄ばれたのである!

1395. 真珠とは何か?否、(その真珠は)ひとしずくの裡に大海を秘め、ひとしずくの裡に太陽を閉じ込めている。太陽はかつて塵としてその姿を現した。やがて少しづつその顔を明かすうちに、全ての塵がその中に消滅した。世界は(その成り行きに)酔いしれ、その後で酔いから覚めて静寂を得た。(権威の)筆が裏切り者の手に握られてしまえば、マンスール(・ハッラージュ)が絞首台へ連れて行かれるだろうことに疑う余地はない。ものごと(を支配する権力)が愚かな者達に属するとき、それがもたらす必然の結末とは、すなわち預言者達の殺害(コーラン3章112節)に他ならない。

1400. 愚かさゆえに正しき道を見失った人々は、預言者達に向かって言う、「私達にとり、あなたは災いの前兆に他ならぬ(コーラン36章18節)」。キリスト教徒の無知を見よ。彼らは「(十字架に)磔にされた」主の守護を喧伝する!彼らの信条によれば、かれ(主)はユダヤの民により受難したのだという。しかしそれならば、一体どうしてそのような「主」が、彼らを守護し得るだろうか?「あなたが彼らと一緒にいる(コーラン8章33節)」にも関わらず、かの王の心臓が、彼らのために血を流すというのか? - 純金と、それを扱う金細工師にとり、贋金を作る模倣の徒ほど危険な存在はない。

1405. ヨセフは醜き者の嫉妬ゆえに幽閉された。美しき者は、その敵が放つ(苦難の)炎の中で生きることを余儀無くされる。ヨセフは、兄弟達の狡猾さによって井戸の底へと追いやられた、妬みゆえに、ヨセフにオオカミをけしかけた者達のために。嫉妬は、エジプトのヨセフに何をもたらしただろうか?この嫉妬なるもの、茂みに潜む巨大なオオカミである。このオオカミゆえに、慈しみ深いヤコブは絶え間なくヨセフの身を案じ、怖れていた。外界における(現実の)オオカミが、ヨセフの周囲をうろつくことは決して無かった。(しかし)嫉妬のオオカミは、その悪において(現実の)オオカミをはるかに凌ぐ。

1410. この(嫉妬の)オオカミは傷を与え、しかもその上に罪を逃れるためのコトバを重ねるのだ - 「私達は、駆けくらべをしていただけなのに(コーラン12章17節)」。この世にオオカミはごまんといる。だが一匹たりとも、このような狡猾さを持ち合わせたオオカミはいない。(だが)このオオカミも、最後には恥辱の中に投げ込まれることになる。しばし止まれ、そして、見よ!審判の日、嫉妬の念を抱く者達が(死から甦って)ひとつ処に集められる。そのとき、彼らがオオカミの姿となって裁かれるだろうことは明らかだ。集められるその日(審判の日)、ほしいままに死肉(合法でない食物)を食らった貪欲な者達は、食われるために飼育された豚の姿となって復活させられることだろう。姦淫を犯した者達から、隠していた悪臭がたちのぼるだろう。飲酒に耽った者達の口は腐臭を放つことだろう。

1415. 隠された汚れを感知する者は、この世においてはごくわずかだ。しかし復活の日には、かつて少数しか知り得なかった汚濁が、誰の目にも明らかに、あらわにされることだろう。ヒトという存在、これはまさしく混沌の密林に他ならぬ。あなたはこの存在から自らを守護せねばならぬ、もしもあなたが、自らを(聖なる)息により在らしめられた者と知るならば。何千ものオオカミ、何万もの豚は、実に私達自身の存在の裡に潜んでいるのである。信も不信も、善も悪も、何もかもが私達自身の裡にある。そのうち何を優先させるかによって、あなたがどちらに属し、またあなたが何者であるかが決まるのである。金と銅のうち、金の割合の方が大きければ、それ(その合金)は金である。今あなたが選択した在りようが、復活の日のあなたの姿となる。

1420. ほんの一刻もあれば、オオカミはヒトの思考の裡に紛れ込んでくるだろう。しかしほんの一刻もあれば、オオカミに代わって月のごとく美しいヨセフが顕われることもある。愛すべき性質も、憎むべき性質も、いずれも隠された道を通って、胸から胸へと往来しているのである。本当に、知恵も知識も、美点の数々も、ヒトから牛やロバへと伝わるもの。落ち着きのない癖馬も、なめらかに進む素直で従順な馬になる。熊は踊り、山羊はサラームの挨拶をする。意志の力がヒトから犬に伝われば、羊を守り、狩りを共にし、館の番をするまでにもなる。

1425. (洞窟に眠る)同胞達と共に過ごした犬には、彼ら眠り人の善き性質が伝わっていた。それで犬の身ながらも、彼が神を探す者となったのである(コーラン18章9節〜)。 - 一瞬ごとに、異なる性質が胸の裡を去来している。ある時は悪魔、ある時は天使、そしてまたある時は野生のけもの。あらゆるライオンは熟知している、この驚異の密林、心の奥深くに、魂の糧へと至る道が用意されていることを。おお、كلب(kalb:犬)よりもものを知らぬ者よ。神を知る者のقلب(qalb:心)へと分け入り、魂の真珠を盗み出せ。「同じ盗みを働くならば、いっそ価値ある真珠を盗め」!背負わねばならぬ重荷ならば、たとえどのような時であれ、より貴き荷を運べ!


1430. 友人達はズーン・ヌーンの話を確かめようと牢獄へ赴き、これについて思うところを口にした。(彼ら)曰く、「おそらく、これは彼自身の意図するところなのだろう。あるいは、何かしら深い知識に基づいてのことに違いない。彼は模範者、この宗教における輝ける光だ。彼の知識ははるか彼方の海のように深い。その深さゆえの狂気が、彼を愚行に走らせたのだ  - きっとそうに違いない!神よ、何ということだろう!彼の歩んでいる(魂の)完成へと至る道においては、彼という満月は狂気という雲に隠されねばならぬとの思し召しか!卑しい俗物どもの悪意を避ける為に、彼は『館(牢獄)』へと逃げ込んだのだ。『正気』の者達が投げかける非難と汚名が、彼を『狂気』に走らせたのだ。

1435. つまらぬ肉体ごときのために、知性を働かせることを恥じたのだ。彼は意図して(肉体を)置き去りにし、敢えて狂気を選んだのだ。『私を牛の尾で鞭打て、今すぐに!』、彼はそう叫んだ。『何故、などとは問うな!さあ、私を鞭打て!一打ちごとに私は息を吹き返すだろう、太古の昔、モーセのそれ(牛)によって殺された男が息を吹き返したように(コーラン2章67-73節) - おお、我が同輩よ!かの牛の部分もて鞭打たれることが私の幸福。一打ちごとに私は(生命を)取り戻す、モーセの牛のために殺された者がそうであったように』」。 - かつて殺された者は、牛の尾の一打ちで息を吹き返した、彼(の魂)は純金となった、あたかも錬金術によって銅が金になるように。

1440. 殺された男は突如として跳ね起き、それから秘密を語った。血に飢えた群衆の正体を明かしたのである。彼ははっきりとした口調で言った、「あの人々の群れが私を殺したのだ。彼らは、今なお私に対する怒りと憎しみですっかり気が動転している」。鈍重な肉体が殺される時、秘密を知る(精神の)本質が蘇生する。楽園と、地獄の炎を二つながらその目にし、全ての神秘を理解する。悪魔のような殺人者の正体を明かし、虚偽と狡猾の罠を暴く。

1445. 牛を - すなわちナフス(我欲)を - 屠ること、これがスーフィーの道を歩む者に課された条件である。魂を再び目覚めさせるには、屠った牛の尾による一打ちが必要なのだ。さあ、急いで牛を殺せ。あなたの我欲を屠れ。そうすれば、隠されていた魂がいのちを吹き返し、意識を取り戻すことだろう。 - さて、友人達が彼(ズーン・ヌーン)の許に近づくと、彼は叫んだ、「待て!汝らは何者か?立ち去れ!」。「私達はあなたの友人です」、彼らは慎ましげに話しかけた。「あなたにお仕えしたく、献身の意を胸にあなたのおそばへ参りました。ありとあらゆる知をたたえた海のごとき人よ!あなたの真意を伺いたい。あなたの示すこの狂気が、どれほどあなたの知を貶めていることか!

1450. 風呂焚きの煙が、どうして太陽を煤けさせることなどできましょうか。アンカー(不死鳥)が、どうしてカラスに引き裂かれるでしょうか。どうか私達から真実を隠さないで下さい。本当のことを言って下さい。何があったのか聞かせて下さい、私達はあなたを愛する者なのですから。よそよそしくしないで下さい、狂人を装うのは止めて下さい。愛する者に対して仮面を被り、嘘やごまかしで追い払おうとしないで下さい。私達はあなたの味方です。あなたを愛し、あなたを案じて、心から血を流しているのです。二つの世の何処にあろうと、私達の心を癒せるのはあなただけなのですよ」。

1455. すると彼は汚い言葉を使って罵り始めた。悪いものの名を次から次へと口走るその有り様は、狂人の語り口そのものであった。彼は跳び上がると、石や木切れを片っ端から投げつけた。ぶつけられるのを怖れて、訪問者達は散り散りに逃げ出した。それを見て彼は大笑いし、軽蔑し切ったようにかぶりを振った。「それ見たことか」、彼は言った。「口先ばかり無駄に達者な『友人』どもめ!会うならば、汝らに相応しい『友人』に会うがいい!真の友のしるしとは何か?それは悲痛だ。真の友から与えられるものならば、それが痛みであってさえも、まるでいのちのように愛しいものなのだ」。友が引き起こす悲痛に背を向ける者を、真の友と呼べるものだろうか?傷つけられることを怖れ、痛みを負うことを怖れて逃げ回っていたのでは、真の友など得られるはずもない。悲痛こそが核心だ。親睦だの友好だの、核心を覆う外殻に過ぎぬ。

1400. 苦難や災難の裡にこそ、歓喜が潜むのを知らないか?そしてその歓喜が、苦難の裡に真の友を探し当てるしるしとなるのを知らないか? - 真の友は黄金のよう、そして苦難は炎のよう。純金は、心に燃え盛る炎をこそ愛するのである。


物語:賢いルクマーン

さて、ルクマーンの場合はどうであったか。無私無欲の奴隷ルクマーンは、昼となく夜となく身を粉にして奉仕していた。彼の主人は、仕事においては誰よりも彼を重用し、自身の息子達以上の器とみなしていた。何故ならルクマーンは、その身分こそ奴隷の出自ではあったが、しかし自らを律するという意味においては紛れもなく主人であり、我欲に捕われるということが無かった。

1465. かつてある王がシャイフと語る中でこう言った、「汝、私に褒美を乞え」。彼は答えた、「王よ、恥を知りなされ、私に向かってかような事を仰るとは。もっと高みを目指しなされ!私には奴隷が二人おります。いずれも卑しき者どもですが、しかしこの二人こそはあなたの支配者、あなたの主人なのですぞ」。王は言った、「それら二人とは誰のことか?何かの間違いに決まっている」。すると彼は答えた、「一人は怒り、もう一人は欲望」。 - 王位に囚われぬ者こそが、真の王であると知れ。真の王とは、月も太陽も無しに光輝を発するものなのである。

1470. その本質が、(魂の真実の)財宝そのものである者のみが真に財宝を所有する。その存在が、自身の敵となる者こそが真にその者の存在を占有する。ルクマーンの主人は、外見上こそはルクマーンを所有していた。しかし真実のところ、彼(ルクマーン)の主人はルクマーンの奴隷であった。さかさまにひっくり返ったこの世では、この種の出来事は数多くある。彼らの目には、真珠は藁くずにも劣るものと映っている。あらゆる砂漠のうち、マファーザ(安全地帯)と呼ばれたことの無い砂漠は無い。その呼び名と、もっともらしい外見が、彼らの理解を失わせ、その本質を見誤らせるのである。

1475. 服装が、ある種の階層に属していることを示すことがある。ある者がカバア(前開きの長衣)をその身にまとえば、人々は彼を物乞いの仲間と呼ぶだろう。ある階層に属する人々の場合は、(そのしるしは)偽善者とも見まがう禁欲主義者の姿。だが禁欲主義の密偵となり、真の本質を看破するには光が必要だ。服装が、ある種の階層に属していることを示すことがある。ある者がカバア(前開きの長衣)をその身にまとえば、人々は彼を物乞いの仲間と呼ぶだろう。ある階層に属する人々の場合は、(そのしるしは)偽善者とも見まがう禁欲主義者の姿。だが禁欲主義の密偵となり、真の本質を看破するには光が必要だ。行為や言葉といった確証無しにある人物を知るには、模倣や酩酊とは無縁の光が必要である。そしてその者の心に、知性の道を辿って入り込み、習慣や伝統に囚われること無しに真の相を把握しなくてはならぬ。(神に)選ばれししもべ、不可視の領域の知覚者とは、魂の領域における心の密偵である。

1480. スズメの躯の、いったい何処にタカの知性を隠し持つ力と能とがあるだろうか?هو(hu:『それ』、すなわちスーフィーが『神』を呼ぶ際の一種の真名)の秘密を会得した者にとり、創造されたるものの真の秘密とはいったい何であろうか?天空を歩みゆく者に、どうして地上を歩みゆくことが困難でなどあろうか?ダビデの掌中では鉄も蝋となる。では蝋は何となるだろうか、おお、無法者よ!ルクマーンは外見こそ奴隷だったが、実のところ真の主人であった。彼にとり、使役は自らのまとう外殻、口絵のごときものに過ぎなかったのである。

1485. 誰にも知られずに誰も知らぬ処へと赴こうというとき、主人は自らの衣をその奴隷に着せる。そして主人自身は奴隷の衣をはおり、奴隷を前に立たせて案内役を演じさせる。主人自身はその後について道をゆく、誰にも主人であることを悟らせぬように。「おお、奴隷よ」、主人は言う、「汝、行って正面の席に座せ。私は後をついて行き、最も卑しい奴隷のごとく汝の靴を取ろう。私を手荒く扱って罵れ、決して私に敬意など払ってみせたりするな。

1490. 一切の奉仕をせぬことをこそ、最上の奉仕と受け取ろう。私は異郷の土地に住まい、策略の種を蒔くのだから」。こうして主人はあたかも奴隷のように使役を行い、奴隷であるかのように思わせる。主人の地位など堪能し尽くし、目にするのも飽き飽きしていた。奴隷の仕事をこなす準備は整っていたのだ。だがそれとは反対に、官能の奴隷となった者どもの方は、自らこそ知性と精神の師であるかのように吹聴してまわる。真の主人からは謙譲の行為が立ち顕われよう、しかし真の奴隷からは奴役の他には何も生じることがない。

1495. 知っておけ、この世とあの世では全てが異なり、全ての序列がさかさまにひっくり返っているのである。 - ルクマーンの主人はこの隠された相をその目に見ており、隠されたしるしをその目に見ていたのであった。かの旅人(ルクマーンの主人)は秘密を会得していた、(しかし)彼は彼なりの道によって善を追求していた。彼は見たものについて語ることはせず、静かに沈黙したのである。彼は最初からルクマーンを解放したいと望んでいた、しかしこの世にあっては奴隷で居続けることをルクマーンその人が望んでいた。それで主人はルクマーンの満足を優先したのだった、自らの勇猛と慈愛の強さを、隠し通すことをこそルクマーンが望んだから。

1500. 邪悪に対して自らの秘密を隠そうとすることに、いったい何の不思議があるだろう?真に不思議がるべきなのは、それを自らに対して隠さねばならぬことについてだ。成し遂げた仕事については、自分自身の目から隠してしまわねばならぬ。そうすれば、その仕事は(自分自身の)邪悪の目から守られることだろう。成し遂げた仕事については、 - ただ自らを聖なる(神の)報奨という名の落し穴に突き落とせ!傷を負った者には阿片を与える。矢尻を抜き取るためには、それが必要なのだ。死の間際にある者は苦痛にその身を引き裂かれる。否応無しに苦痛に没入しているうちに、その魂を奪い去られる。

1505. それと同じで、何がしかの思想に自らの心を委ねたいと欲すれば、何がしかが知らぬうちにこっそりと奪い去られることだろう。そしてまた、あなたが何がしかの思想を持ち、それを獲得した頃、同時に盗人が、あなた自身が安全と考えていた処へ忍び込んでくる。いずれ盗まれるものならば、更により善きもの、より高きものへと自らを導け!そうすれば、盗人が何がしかを盗み出す頃には、それは既に価値低きものとなっているだろう。商人達の品物が水の中に落ちたなら、彼らはより価値の高いものから拾い上げようとすることだろう。全てを拾い上げることは出来ない。何がしかは水の底に沈むのである - ならばより卑しきものを捨て、より貴きものを求めよ!


1510. どのような食べ物を贈られても、ルクマーンの主人は、その一部をルクマーンに送り届けることを常としていた。そしてルクマーンはと言えば、送り届けられる食べ物の、ほんの少しだけに手をつけて、残りは主人が食べるようにと残しておくことを常としていた。主人はルクマーンが残した食べ物を口にして狂喜し、またルクマーンが食べなかったものは、主人もまた投げ捨ててしまうという有り様であった。ほんの時たま、口にすることがあったとしても、実際には食欲があったわけでもなく、無理矢理食べていただけのこともあったかも知れない。いずれにせよこうした日々が、果てしなく続いていたのである。贈り物として、瓜が届けられたある日のこと。「行け」、と主人は命じた。「行って、我が息子ルクマーンをここへ呼べ」。

1515. 主人が瓜を切り、一切れルクマーンに与えると、(ルクマーンは)まるで砂糖か、蜜かのようにそれを食べた。ルクマーンが喜んでそれを食べるので、二切れ、三切れと与えるうちに、とうとう十七切れを数えた。そして最後の一切れが残り、主人は言った。「さて、どれほど甘い瓜であったか。私も一切れ、食べてみるとしよう」。ルクマーンがこれほど喜んで食べた瓜ならば、さぞかし甘いに違いない。そのように、彼もやはり食指と心を動かされたのだった。ところが主人が一口食べると、激しい酸味に下はひりひりと焦げんばかり、まるで火が燃え盛るように喉まで焼けつくほどだった。

1520. あまりの酸っぱさに、主人はしばらくの間われを忘れて呆然としていたが、やがて気を取り戻すとルクマーンに言った。「わが魂、わが世界の全てよ。おまえは、いったいどうしてこのような毒を食べたのか、いったいどうしてこのような拷問を、親切として受け入れたのか?これはなんという忍耐か、このような忍耐はいったい何処から生じるのか。それともおまえは、おまえ自身の命すら敵と看做しているのではあるまいか?おまえは命さえも惜しまず投げ出そうというのか?何故おまえは、このような下されものは欲しくない、と、偽ってでも、言い訳をしてでも断ろうとしなかったのか」。ルクマーンは言った。「あなたが気前良く下さるので、こんなにも沢山食べてしまい、私は二重に恥ずかしく思っています。

1525. 英知あるご主人様、あなたの手から下されるもので、私は苦いものなど何ひとつ食べたことがなく、それもまた恥ずかしいことでございます。私という者のあらゆる部分は、全てあなたの下された恵みによって生じたもの。それ故に、私は罠にかけられたも同然に、あなたの下さるもの全てに飛びついてしまったというわけなのです。たった一切れが苦いと不平を言い、騒ぎ立てでもしようものなら、百の道に貯まった塵が、私めがけて吹きつけられることでしょう。あなたが下さった瓜の一切れづつに、甘いものを恵もうというあなたの愛の味、あなたのやさしい手の味がありました。そのようにして与えられた瓜に、何で苦みなど残りましょうか」。愛によって苦みも甘くなる。愛によって銅は金にもなる。

1530. 愛によって澱も清い雫となる。愛によって痛みは癒しとなる。愛は死者をも生き返らせ、愛は王さえも奴隷にする。 - ここで私が「愛」と読んでいるのは、知識探求の結実としての「愛」であることを付け加えておかねばなるまい。考えてもみよ。愚かさの上に寝そべる者と、知識の玉座に坐す者が、果たして同じと言えるだろうか?不完全な知識が、「愛」なるものを未だかつて一度でもあっただろうか。未熟な知識が、死にゆくものへの執着ではなしに、生き生きと躍動する「愛」を生み出し得るだろうか。答えは全て「否」である。生なきものの裡にかつて欲されしものの色彩を見るとき、その耳は真に愛するものの口笛を捉えているのである -

1535. 未熟な知識は判断を損ねる。物事の分別もつかず混乱を招く。稲妻と太陽を見誤るようでは、どうして「愛」を知ることなど出来ようか。かつて預言者が「不完全」なものを呪われたものと呼んだが、その解釈とは「未熟な精神」という意味である。身体における完全・不完全とは相対的なものに過ぎない。不完全な身体とは神の慈悲の対象であり、神の慈悲の対象を、呪詛や中傷と解するのは正しくない。未熟な精神、理解の欠如こそは悪しき病である。これこそが(神の)呪詛の根源である。これこそが(神の)御前からの追放を招く罪である。精神の完成は遠いとは言えないが(不可能ではないが)、しかし身体の完成は私達の力の及ばぬところだからだ。

1540. 不浄と、ファラオのごとき高慢を併せ持つ全ての不信の輩がこれほどまでに(神から)遠く離れているのも、全てはこの未熟な精神が引き起している。身体における不完全については、コーランに慰めの言葉がある、「目の見えぬ者に罪はない(コーラン48章17節)」、と。稲妻などほんの一瞬で過ぎ去るもの、決して頼りにはならぬもの。(精神の)清浄無くしては、あなたは決して知り得ないだろう、一瞬の裡にも永遠が在ることを - 稲妻は笑うが、言え、何について笑っていると思うのか  - 稲妻の光を心の拠り所とする者を笑っているのだ。空から送り届けられる光はあちらからこちらへとせわしなく、それは弱くあまりにも不完全だ。どうしてこれを、「東のものでもなく、西のものでもない(コーラン24章35節)」光だなどと呼べるだろうか?

1545. 知れ、稲妻の光とは「視力を奪う(コーラン2章20節)」ものであることを。そして、知れ、永遠不変の光こそ、ものごとを見る(知る)ための助けとなることを。海面に浮かぶ泡の上を、(自己という名の)馬を走らせて何になろうか?ほんの一瞬、光っては消える稲妻を頼りに、手紙を読んで何になろうか?それらは全て過ちである。何故なら決して結末を見届けることは出来ないのだから - それこそ自らの精神、理性、知性を、自ら愚弄するに等しい振る舞いではないか!知性の本質とは、ものごとの摂理を始めから終わりまで見通すその透徹さにある。その反対に、手綱を放たれたナフス(我欲)は物事の終わりを予測出来ない。ナフスを制御出来なかった知性は、ナフスに取り込まれてしまう、木星が土星に打ち勝てず、凶兆のしるしとなるように。

1550. あなた方の視線をこの凶兆に転じよ。この凶兆から目を逸らすな、そして知れ、この凶兆をもたらすものの正体を。潮の満干を凝視するうち、見えてくる、凶兆と吉兆とが絶え間なく入れ替わり立ち替わる相が。御方が、あなた方をある状態から別の状態へと、絶え間なく引き入れ、引き出し、転じ続けている相が。変転から変転へ、対極にあるものを見せることにより、その対極を知らしめようとの思し召しが - 「左側」に対する恐怖が、「右側」に対する歓喜をあなた方の裡に生じさせるだろうとの思し召しが(コーラン56章27-48節)。「祝福されたる者とは、右側へ導かれることを望む者」。わが優れた友よ、あなたが恐怖と希望の二つの翼を持ちますように - 何故なら片方ひとつの翼だけでは、決して飛ぶことは出来ないのだから。

1555.  - 神よ!いっそ私に、一言も語らぬよう命じたまえ!でなければ私に、最後まで何もかもを語り尽くすことを許したまえ!御方よ、全てはあなたが何を欲し何を欲さぬかに依る、けれど私達はあなたの欲するところを、一体どのようにして知ればよいものか!ヒトはアブラハムの精神を持たねばならぬ。炎の裡に自ら飛び込み、炎の裡に楽園を、光(知)の宮殿を見出さねばならぬ。そして月を、太陽を目指して一歩、また一歩と歩み続けねばならぬ。扉に取付けられた輪のようになって一つ処に留まり、立ち去る旅人の背を見送り続けることのないように!そして我らが「友(アブラハムの呼び名)」のように、「私は沈むものは好まない(コーラン6章76節)」と口にしながら、超えてゆけ、七層の天のその先へ!

1560. かたち有るものはいつかは失せる。かたち有るこの世もまた例外ではない - この世はあてにはならぬもの、ただ我欲を制する者を除いては。


- 王とアミール達と、王の寵愛を受けた奴隷、知恵の主にアミール達が嫉妬する話をしていたのだった。しかし「語る」ということの強烈な誘惑にすっかり惹き付けられてしまい、随分と遠くに離れてしまった。引き返して、元の話を終わらせなくてはなるまい - 神聖なる王国にある庭園の庭師の、なんと幸福なことか、なんと幸運なことか。庭師は一本の木を見れば、別の一本の木についても知ることができる。憎悪と悪意に満ちた木もあれば、たった一本でその他七百の木に優る木もある。

1565. 物事の終末を見通す目、すなわち思考を働かせることを通して見る者にとり、それらがそびえ立っているのを見た時に、どうしていずれもを同じものだなどと考えるだろうか?外見こそ今のところは似ているだろう、しかしいずれ実るであろう果実は、どれほど異なっていることか。神の光もて理解するシャイフは、ものごとの終わりと始まりを知っている。そして終わりを見てしまうその目を、神に向けることにより「閉じる」のである。羨む者達とはすなわち悪意の木である。病んだ株を抱え込み、それゆえに苦い運命を抱え込んだ者。

1570. 嫉妬のために彼らは煮え、泡立ち、秘密裡に企てを始めた。寵愛を受けた奴隷の首を刎ね、その根を断って世界から引き裂こうと目論んだのである。だが一体、どうして彼を死なしめることなど出来ただろうか?彼にとり王こそは彼の魂であり、彼の根は神の庇護の下にあったというのに。王はすでに彼らの秘密の企てに気付いていた。しかし王は沈黙した、あたかもブー・バクル・ラバービー(註:架空の人物とも看做される伝説的なスーフィー。神への奉仕のひとつとして無言の行を自らに課したことで有名)のように。

1575. 王には、彼らの胸に悪きものが宿るのがありありと見えていたが、彼らは彼らで一流の陶芸家気取りだった。彼らの目には、練り上げた企みの壺に、王がすっかり騙されて、拍手喝采を贈っているかのように見えていた。狡猾な者達は王を酒壺 - あるいは亀裂 - に陥れようと策略した。だが王はあらゆることに長けていた。知れ、愚か者よ!限界というものを持たぬ者が、どうして亀裂に飲み込まれることなど起こり得るだろうか?彼らは王を捕えようと網を編んだ。しかし最後には、彼らこそがこの小細工から何ごとかを学ぶ時が訪れるのである。学ぶ動機が、師と争い、師に戦いを挑むことであったとしたら、その弟子はあまりにも不幸である。師とは何ものか?師とは世界を熟知する者である。その者の前には、見えるものも見えざるものも何ひとつ変わるところがない - それが師というもの。

1580. その者の目は神の光を通して物事を見ている。無知のヴェイルは、その者の前に引き裂かれる。かたや弟子の心は、古い毛布のように穴だらけだ。彼はそれを身にまとい、賢者の前に歩み出ようというのである。ヴェイルは百の口で彼を笑うだろう。あらゆる口という口が、師に向かって開かれるだろう。師は弟子に言う、「おお、犬にも劣る者よ。おまえは、私に対する忠誠心を持たぬとみえる。私を師とすら思っておらず、私には鉄を貫く力(精神力)も無いと思っている。私をおまえ自身と同じ程度の弟子と考え、私には心を見抜く目も無いと考えている。

1585. おまえは、その心も頭も、私を糧として養ってきたのではなかったか?私抜きには、水もおまえのために流れることは無かろうに。私の心は、おまえの財を作り出す工房なのだよ。それなのに、おまえはこの工房をたたき壊そうというのか、おお、不正を働く者よ」。あなたは言うかもしれない、彼に対する対抗心の炎をあらわにすること無く、隠れた処で燃やすのだ、と。しかし忘れるな、心と心の間には、窓というものがあることを。やがて彼は、窓越しにあなたの思案を読み取るだろう。あなた自身の心が、あなたが何を目論んでいるかについて証言するだろう。優しさゆえに、彼は面と向かってあなたを非難することはしないだろう、そしてあなたが何を言おうと、微笑んで「そうとも。そうとも」と言うだろう -

1590. 彼はあなたの(隠された)思案について微笑んでいるのではない。かくして、偽りには偽りが支払われることとなる。杯を投げつければ、水差しを投げつけられることになろう - 自分自身を正しく扱うことだ!彼があなたに向かって承認の微笑みを投げかけるとき、幾千、幾万もの花があなたに向けて咲きほころぶだろう。彼の心があなたを受け入れたとき、それは太陽が牡羊座の宮に入るとき、全ての幕が開かれるとき。それは春の日が訪れ、花と緑とが二つながらに混じり合って大地を満たすとき。

1595. 数え切れぬほどのナイチンゲールと山鳩が、共に彼らの歌を歌い、終わり無き世界に響かせるとき - あなたの思考の葉が、黄色く、あるいは黒く枯れているとき、どうして王の怒りを見抜くことが出来るだろうか?王の太陽が非難の星座宮に入るとき、顔は黒く煤けるだろう、炎に焙られた一切れの肉のように。私達の魂は一葉の紙、それは水星2のためにある。書き付けられた文字の黒と、残された空白との均衡が、私達の道しるべとなる。そしてまた、彼は赤と緑のしるしを描く  - 私達の心を、憂鬱と絶望から解放するために。

 


*1 『Law laakの主』 預言者ムハンマドの言葉や行為等の記録はハディース(伝承)と呼ばれ、ハディースのうち、特にムハンマドが「神の言葉」として語ったものをハディース・クドゥスィー(聖なる伝承)と呼ばれる。「Law laak」は聖なる伝承の引用。全文は:”Law laaka law laaka maa khalaqtal aflaak.”(汝無くして創造は無し)あなたがいなければ創造もない、「あなたのためにこそ私(神)は創造したのだ」というほどの意味。

*2 宇宙論上、水星は書記の象徴とされている。ここでは、スーフィーの師と弟子の関係を書記と紙に譬えている。