試訳:音楽について

「音楽について」
イナーヤト・ハーン

さまざまな芸術の様式があるなかで、なぜ音楽だけが「至上の芸術」と呼ばれるのでしょう。私たちはその他全ての芸術や科学の裡に神を見ることがしばしばあります。しかし音楽だけが、あらゆる形式や思考に縛られず、自由に神を見せるのです。音楽以外の全ての芸術には偶像が潜んでいます。全ての思考、全 ての言葉は形態を伴います。音のみが、何らかの形態を伴うことなく私たちの目の前に立ち現れるのです。

音楽について

私たちが日常「音楽」とことばで呼んでいるのは、私たちの「最も愛する者」を具現化したものに他なりません。私たちが音楽を愛するのは、まさしくそれが 「最も愛する者」を表現しているからなのです。では、私たちが言う「最も愛する者」とは一体何のことでしょうか。そして、それはどこに存在するのでしょう か。

私たちの「最も愛する者」とは、私たちの根源であり、同時に私たちの目的地でもあります。私たちの肉眼は「最も愛する者」の美を捉えますが、それは私たちの存在する以前からそこに存在していた美でもあります。時としてその美は、肉眼ではない別の感覚へ語りかけてくることもあります。視覚で捉えられる形態を持たないその美とは、「最も愛する者」の、私たちの内側へと直接語りかける内なる声です。私たちを心を惹き付けるあらゆる美の、その内なる声に耳 を傾けさえすれば、全てがこのように語るのを聞くことができるでしょう……あらゆる顕現は全能の神、全智の神の存在を告げているのだ、と。

私たちの眼にうつる美の中に見い出すことができる、生命の、最も最初の表現とは何でしょうか。それは運動(movement)です。線、色彩、四季 の変化、寄せては返す波、風、嵐、こうした全ての自然の美の裡には、必ず絶え間ない運動が存在しています。この運動こそが、昼と夜を交替させ、季節を巡らせているのです。この運動こそが私たちに、私たちが時と呼んでいるそれを認識させるのです。この運動がなくては、そこにあるのは不変の永遠のみで、時の存在する余地はなくなってしまいます。このことから私たちが学ぶのは、私たちが愛し、憧れ、観察し理解し、美と名付けたそれの背後には生命が流れており、 それは私たちの生命でもあるのだということです。

私たちという存在は有限であり、それゆえに私たちは神の全てを知ることはできません。しかし私たちが愛してやまない色彩、線と形、あるいは個性、それらはみな真の美の領域に属すものであり、それは「最も愛する者」に属しているのです。

ありとあらゆる形態を伴う美の、一体何が私たちの心を惹き付けるのかを辿れば、それは美の運動、つまり音楽であることを知るでしょう。全ての自然、 たとえば完璧な形と色によって構成された花々、惑星や星雲、そして地球……全てがハーモニーを奏でながら、音楽について私たちに知らせているのです。存在の全てが呼吸しているのです。何も生物に限らず、全ての存在が、です。生命体と非生命体のふたつに、世界を二分化してしまう私たちの傾向が、世界はひとつであり、そこに存在する全てがひとつの生命を生きているのだということを、しばしば忘れさせてしまうのです。この生命体が発する美しい生の証明、それが音楽なのです。

詩人の魂を踊らせるのは何でしょう。音楽です。

画家に美しい絵を描かせ、音楽家に美しい歌を謳わせるのは何でしょう。美が彼らに与えるインスピレーションです。

スーフィはそれを美のサーキー、生命の美酒をあらゆる者に振る舞う聖なる酌人と呼びました。

スーフィの酒とは何を指すのでしょう。全ての美がそれに該当します、フォルム、線、色彩、想像上のものも、感情に潜むものも、仕草として顕われるものも、それら全ての中に彼は美を発見します。それら全ての異なる形態の中に、ひとつの大いなる美の精神の働きがあり、全ての生命の背後にあって常に祝福を与え続けているのです。

日常において私たちが音楽と呼ぶものについてはどうでしょうか。私にとっては建築も、庭園も、農作業も、絵画も、詩作も音楽です。生活のありとあらゆる場面において、それが美によってインスパイアされ、神の美酒が注がれるところには、必ず音楽が流れているものです。

しかし全ての異なる芸術の上にあって、音楽は何よりも神聖であると考えられています。なぜなら音楽こそが、あまねく宇宙に偏在する法則の精密な縮図であるからに他なりません。

身近なところで私たち自身を観察してみましょう。脈拍、心臓の鼓動、呼吸、いずれもがリズムの作用であることが理解できるでしょう。私たちの命、 生命体としてのメカニズム自体が、リズム運動に依拠しているのです。呼吸は声、言葉、音として表出されます。音は外側から届くものであると同時に、私たちの内側には、未だ表されていない音がすでに準備されているのです。それこそが音楽であり、音楽は私たちの外にも、内にも存在していることが分かります。

音楽は何も偉大な音楽家の魂のみに働きかけ作用をもたらすというわけではありません。この世に生まれてきたばかりの赤ちゃんですら、その小さな手足を動かして、音楽のリズムに合わせて反応します。音楽とは、美を言語化したものであると言ってもよいでしょう。音楽とは、生きるもの全ての魂が最も愛してやまない、「一なる者」の言語であるということ。

あらゆる美の究極とは神であり、私たちが、かれを最も愛する者としていることを理解し認識することさえできれば、宇宙に存在する全ての芸術様式のうち、音楽こそが最も神聖であるとされる理由も、自然と理解することができるようになるでしょう。

音楽家たちについて

一般的には、音楽は娯楽のひとつであり一時のなぐさめに過ぎないと思われています。音楽とは芸であり、音楽家は芸人であると思われています。しかしそれにも関わらず、この世に生きる人々のうち、全ての芸術のうちとりわけ音楽に関しては、そこに聖なるものを感じずに生きている人など実は誰一人としていないの です。絵画が明らかにし得ないものを詩人は言葉によって説明しますが、さらに言葉によっても表現し切れない何かを、音楽がやすやすと表現することは明らかな事実なのです。

私はただ単に、音楽が絵画や詩作よりも優れているのだ、と言いたいのではありません。音楽は、うわべだけの宗教よりも、人間の魂をはるかに向上させる力を持っています。そのことから実は音楽が、見せかけのいわゆる宗教と呼ばれるものよりも、はるかに優れているではないか、と、申し上げたいのです。

とは言っても何も音楽が、今すぐにも宗教の代替になり得るなどと言っているのではありません。なぜなら全ての人の魂が、音楽の真の恩恵を感じ取れるほどの成長段階にあるとは限りませんし、また全ての音楽が、真の宗教が引きあげる高みにまで聴く者を導けるという保証もないからです。

いずれにせよ音楽は内なる礼拝の道を行く者にとり、その精神的成長のために必要不可欠なエッセンスであることは確かです。なぜなら真実を求めて発展する魂は、常に姿を持たない神を探し求めるものだからです。絵画も彫刻も精神的発展に寄与することは疑いありませんが、しかしそれらはフォルムに閉じ込められています。詩は、そこに散りばめられた言葉が特定の名や形態を連想させます。音楽のみが美と力と、魅力をたずさえながらも形態にとらわれることなく、形態を超えて魂に作用し、向上させることが可能なのです。

ですから古い時代の偉大なる預言者たちは、偉大な音楽家でもあったのです。

例えばヒンドゥーの偉大な預言者の一人であるナーラダという人物は、生前は偉大な預言者であると同時に偉大な音楽家でもありましたし、また神のごとくとされている預言者シヴァは、聖なるヴィーナーの発案者でもありました。クリシュナはいつでも横笛と共に描かれます。

さらにモーゼ(ムーサー)の生涯も、偉大な伝説として良く知られているところですが、彼はシナイの山で神の命令のことば「museke」(ヘブ ライ語で「音」を意味する)を傾聴したとされています。啓示はトーンとリズムとしてモーゼに届けられ、彼はそれを聞き従いました。そしてそれ 「museke」はまさに「music」もしくは「musik」と名付けられたのでした。

ダヴィデ(ダーウード)の詩編と雅歌はあまねく人々に知られていますが、その預言にも音楽のフォルムが選ばれています。

ギリシアの物語にあるオルフェウスも、音調とリズムとに関する知識の力を以て、自然界に秘められた力を制圧しました。ヒンドゥーにおける知識と修練を司る女神サラスヴァティは、いつでもその手にヴィーナーを持った姿で描かれますが、これが意図するものはいったい何なのでしょうか。

これは全ての学問の本質が、音楽の内に存在するということを意味しているのです。

音楽はそれ自体に備わっている自然の魅力以上の力を秘めており、それは現代においても十分に体験し得るものです。近代において人類は、古くから知られていた偉大な科学の知識の多くを失ってしまったかのように見えますが、音楽にはわずかながらもそれが残っています。

力もさることながら、音楽は法悦を与えるものでもあります。それを聴くだけでさえ酔わせるのですから、演奏する者の陶酔はいかに深いことでしょう。 ましてや長い年月をかけて、音楽の完成に心を砕いて研鑽し続けてきた者であればその喜びは、玉座へと登る王のそれよりもはるかに大きなものです。

東洋の思想家たちによれば、陶酔には四つの段階があります。まずは美、若さ、強さへの陶酔。次に富への陶酔。三段階めのそれは、権力、統治、支配への陶酔であり、四段階めは、知識と、それを学ぶことへの陶酔とされています。

しかしこれら四段階の陶酔ですら音楽の前には、あたかも太陽の前の星のごとくはかなく消え去ってしまいます。なぜなら音楽は人間の、最も奥深い部分に触れてくるものだからです。音楽は外界から届けられるおよそどのような感動よりも、更に深い部分に届けられる感動なのです。音楽の美とは、創造のまさに根源から響いてくるものであり、それを吸収する方法でもあるのです。言い換えるならば世界は音楽によって創造され、また音楽によって創造の根源へと還りゆくものなのです。

これを理解するのに聖書を参照すると、まず始めに言葉があり、言葉は神である、とあります。言葉とは音であり、音によって私たちは音楽について知り得るのです。何世紀にも渡って語られている東洋の言い伝えでは、神は泥土によって人間を形作り、魂にそこに宿るように促しましたが、魂は泥土で作られたこの牢獄に入ることを拒否したと言われています。そこで神は天使たちに歌うよう命じられ、天使たちの歌によって陶然となった魂は、歌の命ずるままに肉体の 中へと入っていったと言われます。

これと同じようなことが、科学や物質の領域についても言えるでしょう。機械や装置などが作動を開始するときには、必ず騒音がそれに伴います。私たちはまず耳にそれを聴き、それで初めて生命はその姿を表すのです。船、飛行機、自動車、そういった類いのものにも見られる現象です。

こうした考え方は音の神秘に属するものですが、例えば赤ちゃんは色や形を見分けるようになる以前に、まず音に親しみ、音楽を楽しみます。若い人々に活力と熱情を注ぎ、感動と情熱とを沸き立たせる芸術があるとすれば、それは音楽に他なりません。あるひとがその感情や心の動きを表現したいと思ったとき、それを十分に表現し切る芸術とは音楽に他なりません。それと同時に、鳴り響くトランペットの音やドラムの鼓動は、兵士達の活力と行動の源ともなり得ま す。

伝統に従って言うならば、最後の審判の日に鳴り響くのもまた、トランペットの音色です。このことから世界の創造と持続、さらにはその終末にも、音楽が密接に関わっているのが理解できることでしょう。

いつの時代であっても、神を瞑想する人々は何よりも音楽を愛しました。およそ世界中のどのような場所においても、内なる礼拝の道を行く者たちはいつでもその中心に、あるいは儀礼に、あるいはその祈りに音楽を必ず添えています。あるいはニルヴァーナ、あるいはサマディー、そのようにも呼ばれるこの 「完璧なる平安」を達成しようとするとき、音楽の力を借りることでそれは非常に容易なこととなるのです。昔、チシュティ教団と呼ばれるスーフィの学校では、音楽こそが瞑想の源と考えられ教えられていました。そして音楽の助けなしに瞑想する者たちよりも、もっと多くの恩恵の果実を得ていたのです。その経験から彼らが得る効果とは、すなわち魂の開放と感受性の開眼です。今や彼らの心は大きく開かれ、内外のあらゆる美を感じ取ることになります。そのことによって彼らは、それが誰であれ憧れずにはおれぬ魂の完成への道を辿るのです。

調和について

音楽における調和(ハーモニー)についてお話し申し上げるのであれば、音楽における真の調和とは精神の調和によってもたらされるのだということをお知らせしなくてはなりません。その音楽が、それが本来の源である魂から生まれ、精神の調和によってもたらされる場合にのみ本当の音楽と呼べるのです。それが魂から生まれたものであれば、全ての魂にとってそれは糧となります。

全ての魂は、人生における異なる選択とその積み重ねによってそれぞれに違う道を歩んでいるかに見えますが、この違いとは心と思考のレベルによるもので、魂それ自体は、その本質においては全て共通しています。従って既に為されてきた選択が、どのような差異を人々の間にもたらしていようとも、異なる思考を持った人々の間に調和をもたらすのに音楽は最上の方法であると言えましょう。

現代においては、民族や国家によって分け隔たれてしまった人々の魂と魂を再び結び付け合うために、音楽だけが唯一有効な手段である、と言っても言い過ぎではないと私は考えています。

ですから音楽家がその人生において研鑽を積むことは、すばらしいことになり得るのです。音楽は言葉によって表現されるものではありません。リズムとトーンの美によって、言葉よりもはるかに遠くまで達することができるのです。音楽家がその使命を意識すればするほど、人類に対してより大きな貢献が可能となることでしょう。

音楽をその演奏法から観察すれば、民族の差異によって音楽のメソッドに差異が現れたりするのはごく自然なことです。しかし美の概念から観察すれば、 そこに違いは全くありません。違いは、それが人の手によるものである場合に現れます。それが魂による音楽であれば、全く違いは見出せません。その人が遠い東の出身であれ、あるいは北極、南極、もしくは西の出身であっても、たとえどこにいようともそこに自然の美がある限り、それに憧れ,称賛し、愛さずにはお れないでしょう。音楽を愛する者についても同じことが言えます。今初めて鑑賞した音楽が魂によって生まれたものであり、そこに魂を見出すことが出来れば、どの国の出身で、どのような音楽を聴いて育った人でも、それを同じように愛し感謝することでしょう。

また音楽は、多くの人々に対してと同じぐらいに個人に対しても責任を負っているのです。そしてたった一人の聴衆に対する責任は、多くの聴衆に対するそれと同じぐらいに重要です。なぜならこの世界における全ての問題と、それに対する悲惨な結末とは、全て調和の欠落から産み出されたものだからです。 今日の世界では、いままでにも増して調和が必要とされているのです。音楽家がこのことを理解し得たのなら、全世界が彼の聴衆となることでしょう。

もしもあるひとが音楽を学ぼうというときに、そのひとは必ず音楽家を目指さなくてはならないのでしょうか。彼の仲間が喜ぶ音楽を演奏し、彼の仲間の慰めになればそれで良いのでしょうか。

いいえ!そんなことは決してありません。

音楽を演奏し、愛し、聴くことによって、彼は彼の人格の内に音楽なるものを形成して行く必要があります。音楽の本当の目的とは、その人の思考や発する言葉、行動そのものが音楽的になることです。精神が切望してやまない調和の完成を目指し、またそれを人々に分け与えられるようになることです。世界の、個々人の、また多くの人々の、全ての悲劇は調和の不足から起こりますが、自身の人生からそれを産み出し不足を補おうとする人々が与える調和こそが、 最もすばらしい結果を招くのです。

音楽にはさまざまな種類があり、魂の発展の段階によって好まれる音楽も違ってきます。

例えば通りで遊んでいる子供たちは、時を刻むかのような音を喜びます。一定のリズムといったものが、彼らにある種の効果を与えるからです。ですが人は進化する生物であり、より優れたハーモニーを憧れるようになります。人がお互いを好ましく思ったり、あるいは避け合ったりするのは、お互いが各自の発展において異なる段階にいるからです。例えばある人がある段階においてある種の音楽を好むとき、更に高い段階にいる別のひとは、その段階にふさわしい音楽を好むことでしょう。

同じような現象が宗教においても起こり得ます。ある者はある信念に執着し、その向こう側へと更に成長することを願うことすらしません。ですから音楽の場合においても、ある種の音楽に執着し、それ以上のレベルへと成長しない場合ももちろんあります。

音楽を通じて進歩する真の方法とは自由になることであり、他の誰かが言うことに心を悩ませることなくひたすらにこの道を進むことで、魂と、取り巻く環境と、起きる出来事とをその人生において調和させつつ、音楽と共に成長して行くことです。

世界中を旅行しながら、私は多くの異なった場所でさまざまな音楽を聴く機会に恵まれましたが、その中に、いつでも親しみ深い友情と兄弟愛との存在を感じたものでした。私は常に音楽と、音楽を愛する人々への敬意を持ち続けています。私はあるひとつのことを信じているのですが、私は私が生まれ育ったインドで音楽に何らかの完全性を見出した人々に出会うたびに、その確信を深め続けてきたのです。それは、音楽の中に何らかの完全性を見出す人々は、音楽のみならず人生の試練の中にもまた、完全な調和を見出すであろうということです。

音楽におけるこの原則が尊重されていれば、外見だけの宗教など全く必要もなくなることでしょう。いつの日にか、音楽こそが普遍の宗教を表現する手段となることでしょう。これには長い歳月を待たねばならないでしょうが、それでも音楽とそこに含まれる知恵とが、全人類の宗教となる日がいつか訪れること でしょう。

 

The Supplementary Papers – ART AND MUSIC I
The Supplementary Papers – ART AND MUSIC II