試訳:探求者の心得

「探求者の心得」
イブン・アラビー

 

最も高き神にこそすべての称賛と感謝あれ。かれの使徒の上に祝福と表敬あれ、かれの使徒の一族、同胞たちの上にも。

このささやかな指南の書は、自らが創造された由を全うし完成するために、信仰と希望と愛の道を歩みたいと望む者への返答である。「何を信じるべきか。またその始まりに、何よりも先にすべきことは何か」という問いへの答えとして書かれている。

おお、永遠の美をあこがれる者よ、真の願望へいたる道を旅する者よ。あなたが真実の道を知り、見出だし、歩めるよう、神があなたの成功を助けたまいますように。神があなたや私たちの行ないを、かれの御喜びと目的を果たすために用いたまいますように。始まりと終わりとその間にあるもの、そしてそこにある成功はただかれのみに属する。

真実へと近づくこと、これが永遠の救済と祝福にいたる道であり手段である。神は御自ら、かれが私たちの近くにおられることの意味を私たちに教えたもう。かれは私たちに、かれの預言者たちを遣わすことにより教えたもう。私たちは「信じます」と言った、これが真実である。私たちは受け入れ、確かめた。以来、なすべきこととして私たちの残されているのは唯一、かれの預言者の教えと例に従うことである。

第一に、<一>なるかれの唯一性、無比性を信じねばならない。前よりも以前からあり後よりも以後まであり、私たちとその他すべてを創りたもう御方。何ものをもかれに比肩させてはならない。何故ならかれの本質の純正さに適さないからである。かれご自身が、かれの聖なる書においてこう述べたもう。

もし神以外に天地のあいだに神々があるとすれば、天地は崩壊するであろう。
(預言者の章22節)

多数の創造者どうしの意志は衝突し合い打ち消し合い、何も生まず何も起きない。したがって私たちとその他すべてが存在するならば、それは<一>かつ<唯一の創造者>たるかれの存在ゆえであり、またかれはかれと同等に配される輩を持たない。

おお、美しい本質と純粋な心を持つ者よ、神に配偶があると考える者たちとは議論も討議もするな。言葉を交わすことさえしてはならない。彼らを納得させようとしたところで何の意味もない。否定者でさえ、最終的には以下を認める。

汝が彼らに、「天地を創造したのはだれか」と尋ねれば、彼らは、「神」と答える。
(ルクマーンの章25節)

彼らも最後には、創造における最初の創造者としての未知の力を認めるのである –– しかし彼らは、更なる創造者をかれに加えようとする。彼らと信仰者の違いは、彼らは創造者以外の、被造物どうしの間でも創造が可能であると考えるところにある。あなたが彼らに対し、神の存在を証明する必要はない。彼らに、神に比類する者の存在を証明させればよい、もしも彼らにそれができるならば。

神の唯一性を証言するにあたり、あなたへの助言はこれで十分に足るだろう。時間は貴重である、あなたはその点に不注意であってはならない。意識も疑念から自由になり、心もやすらかに守られた状態に達したならば、その平安を妨げてまで不要な証明をなそうとするのは無意味である。

学ぼうとする者にとって第二に重要なことは、最も高き神は、見えるもの・見えざるものに関わらず、あらゆる被造物といかなる類似点も持たない、という確信である。かれはあらゆる瑕瑾と無縁である。

時として自分たちの創造者の姿を見たいがために、誤ってかれを人間に例える者がいる。かれ自身の御言葉をあなたの導きとしなさい。

神にくらべうるものは何一つない。……
(協議の章11節)

どのような思想も格言も、それがいかなる価値や性質を持とうが、この原則に一致していない限り虚偽であり神にふさわしくない。ゆえに、かれに似たものや彼に類するものは何ひとつないという事実以上の何かを探し求めるのはやめるべきである。これがかれの現実なのである。これについては、かれの預言者の言葉によっても確証されている。「はじめに神がおられた。共にある者はなかった」。彼に従う者のうち誰かが、この言葉にこう加えた。「今もなおそうである、かつてそうであったごとく」。

創造の前もそうであったし、創造の後もそうである。ものごとが不在のヴェイルの下に隠され、姿かたちなるものがなかった時よりこのかた、何ひとつ足されも引かれもしていない。かれは被造物を創りたもうたが、しかしかれに類するものは何もないのである。かれに似るものは何もない。かれであるものは何ひとつないが、しかしすべてがかれによるものである。かれに比べうるものは何ひとつない、という神の御言葉は、それ以外のすべての考えや主張、解釈を打ち消すものである。

不変のものとして私たちに届けられた預言者たちのあらゆる言葉を受け入れるのと同様に、聖コーランの寓意的な句や、神の使徒が一性ならびに超越の原理について語った、複数の意味合いを帯びているともとれる言葉もまた、理解できなくとも受け入れ、信じねばならない。これらの言葉の重要性を神の知識の一部として認め、そうであるがゆえに受け入れる。こう考えるようでなければならない。これらの神聖なる表現の不朽不滅の意味は、神の美しい特質を見られるほど十分にかれと近しい人々に理解されるものである。

自存し、かつその存在が、その他あらゆる存在にとって不可欠である神の完全性を証明するにあたり、聖なる御言葉以上のものはない。

神にくらべうるものは何一つない。……

神はこの句をもってかれの存在、本質、神性、無限の偉大さと栄光を宣言したもう。したがってあなたは、これを心と意識に書きしるさねばならない。これが原則であり、信仰の基礎である。そして神の預言者を信じ、彼が神の真実から、神の命令と正義に従って伝えた啓示を信じよ。さらに加えて、預言者たちすべての真実の言葉を、知ると知らざるとに関わらず信じよ。彼らの同胞を愛せ。彼らが担った義務の真実を受け入れよ。彼らに反駁してはいけない。彼らの間に、優劣をつけてはいけない。彼らについては、真実以外の何ものでもない聖コーランにおいて説かれている通りであり、また他の預言者たちの言葉にもある通りである。彼らについて考える際には、称賛の範疇において考えるように。完全なる人を際立たせるためにも、聖地を聖地たらしめるためにも、敬意を示せ、預言者たちがそうしたように。聖者たちの行為と言葉を受け入れよ、たとえ彼らに帰される階梯や奇跡については、あなたは理解しなくともよいとはしても。

被造物の全体を見渡すこと。その上で、特に人間を観察せよ、それも善良な意図を持った人間を。受け入れる者、賛同する者、寛大な者、奉仕する者、優しい者 –– そうした性質を、世界との関わりにおけるあなた自身の性質とせよ。あなたの良心の声を聞け。あなたの心を清めよ。清められたその心において、絶えずあなたの誠実なる同胞たちのために祈れ。苦労を表に出さない人々、貧困に甘んじる人々、真実へ至る道を旅する人々をできうる限り大いに助け、奉仕せよ。被造物に奉仕したからといって、それがあなた自身の美徳や善良さ、寛大さだとは考えないように。あなたには、他者があなたの援助を謙虚に受け入れてくれたことに感謝する義務があると思うように。あなたには、苦しんでいる者の重荷を軽くするつとめが課されている。苦しんでいるところを助けた者が、お返しとしてあなたに苦しみをもたらしたなら –– 彼らの反応ややり方、習慣があなたの上に暗い影を投げかけたなら –– 忍耐と自制を示せ。神がこう言いたもうのを思い出せ。

神は忍耐強い人々とともにあらせられる。
(雌牛の章153節)

無駄な労力や無駄な会話にあなたの人生や時間を費やすことのないように。代わりに神を念じ、思い、コーランを読み、誤った道にある者を正しい道へ導け。人が悪を去って善をなすのを助け、友情が壊れたならこれを直し、人が誰かを助けようとしているときは手伝え。

正しい友人を見つけよ。あなたを支えてくれる、真実の道を歩む良い旅の仲間を。信仰は種である。それは誠実な友人という名の、恵みゆたかな水と日光によって大木に育つ。信仰の徒と不信仰の徒を区別しない人々とは親しまないよう注意せよ。彼らは信仰または信仰者について知らないし、気にもかけない人々である。彼らは、あなたが信じる真実に対する部外者または敵である。

真正なる道においてあなたを導く完璧な師を探せ。導師を探すにあたっては誠実であれ、何故なら真の探求者とは、誠実さによって見分けられるからである。誠実であること、正直であることにしっかりと縋っていれば、主はかれの完璧なる導き手としての属性をあらわしたまい、あなたを完璧なる師の元へ導くだろうこと確実である。探求者の中にある誠実さは、このような祝福として示される。神は呪われし悪魔自身に加えて、探求者自身の内なる悪魔、すなわち自我さえも探求者に仕える霊感の天使に変化させたもう。かようにも、誠実さとは鉛を金に変え、触れるものすべてを清める触媒のごとくである。

最も重要性が大きく、最も必要性の高い問題のひとつが、あなたが口にするパンの一片が確実に合法なものであるということである。糧が合法であり、現世においてあなたが楽しむすべてが合法であることが、あなたの信仰の基礎となる。この基礎があってこそ、その上にあなたの宗教が建てられるのである。

この道を、預言者(彼に祝福と平安あれ)の足跡を辿って歩みを進めるためには、あなたは軽やかであらねばならない –– 現世の品物に対して軽やかに、現世の不安に対して軽やかに。人々に負担をかけることは、歩みを進めるのを妨げる重たさの見逃しようのないしるしである。たかり屋になるな。あなたの荷を他の誰かに運ばせるな。とりわけ、あなたのためであろうが他の誰かのためであろうが、心も鈍く不注意の眠りに埋没しているような人々から品物や好意を受け取ってはいけない。

神があなたに得ることを許したもう取り分を、あなたの糧とせよ –– あなたの行為、言葉、態度において –– 神を畏れよ。快適さや贅沢を求めるな、特にあなたが、それらを得るために懸命に働いたわけでもないのなら。合法の糧は、要求されるよりも多くを懸命に働くことによって得られる。あなたが吝嗇になるのも浪費するのも許容しない、それが合法な取り分の明らかなしるしである。

用心せよ。この世に対する愛があなたの心にしっかりと根づくと、あなたの心は縮んでしまう。引き抜いて捨てるのが、非常に難しくなる。この世は試しの場である。ゆえに快適さや財産を求めるな。控えめに食べよ。そうすればあなたの心はより広まりを持ち、祈りと従順さへの願望が増すだろう。それはあなたをより活発にし、怠惰を遠ざけるだろう。

あなたの昼と夜を崇拝によって清めよ。寛大なる主は一日に五回、かれの御前にあなたを呼び寄せたもう。かれがあなたを呼びたもう時に礼拝せよ、毎日五回、一回の礼拝ごとに、前回の礼拝以来の自らの行為を量れ。礼拝と礼拝の間には、ムスリムにふさわしい善良な行為や行動のみがなされているのが望ましい。

ほとんどの人は、この世で糧を確保し、世帯のあるじとして家族を養うために働かねばならず、それで崇拝のための時間が取れないのだと不平を言う。他の人々のために、注意深く、適切なふるまいに従い、神の御喜びを求めて成し遂げられた仕事もまた崇拝であると知れ。

神はあなたに知性と知識、職能、体力、健康を授けたもう。あらゆる栄光と御力は神の有である。これらを用いて、可能な限り短い時間で最大限の益を得られるように努めよ。できれば一日で、一週間の糧を得られるようにせよ。アッバース朝カリフであったハールーン・アッラシードの息子、「土曜日」の名で呼ばれた王子アフマドの例にならえ。彼は自らの才能と力量と努力を精一杯にふり絞り、職工として土曜の一日を懸命に働いて過ごした。そして残る六日は神のために働き、かれへの崇拝を捧げて過ごしたのである。

朝の礼拝をなし終えたなら、その後は日が昇るまで主と共に過ごせ。午後の礼拝を成し終えたなら、その後は日暮れまで主の御前に留まれ。これらふたつの時間のあいだは、精神の諸力と天啓が途切れることなくゆたかにあふれ続けている。謙譲と平安の中で、あなたの心を神に結びつけておくように。

午後と夕方の礼拝の合間、また夕方と夜の礼拝の合間に、二十回の礼拝を行なうことでより多くの崇拝を捧げるなら、そこには大いなる美徳と美点がある。昼の礼拝の直前に四回の礼拝を行ないなさい、また午後の礼拝の後と直前に、また夜の礼拝の後にも。定められた夜の礼拝の後には更に十回の礼拝を二度行ない、それから締めくくりに三回の礼拝、すなわちウィトルを行なって、その日の崇拝を終えること。

これ以上は起きていられないというまで眠りにつくな。空腹になるまで食べるな。衣服は体をおおい、寒さや熱さから身を守るに留めよ。

毎日、聖コーランから章句を読むのを習慣にせよ。読むときは、敬意をもって聖なる書物を扱え。書物は左手に持って胸の高さに保ち、読み進めている語に右手を沿わせて動かせ。大きく声に出して読め、ただし自分で自分の声が聞こえる程度の大きさがちょうどよい。

急ぐことなく、ゆっくりと各々の言葉の意味について考えながら読むように。かれの慈悲を告げる章句があれば、神の慈悲と恩恵を求めよ。警告の章句を戒めとせよ。それらの章句を読んだなら、主の命じるところに従って行なう覚悟を決め、そのように誓え。悔悟し、あなたの主の慈悲の許へ逃れ、救いを求めよ。称賛に値する真の信仰者について解き明かす章句を読んだなら、あなた自身の質について考えよ。あなたの長所については神に感謝し、かれを賛美せよ。あなたにはない長所については恥じよ、そうすることであなた自身の中に、信仰者の性質が芽生えてくるだろうから。そして真実を隠し、ねじ曲げる不信仰者や偽善者の過誤についての章句を読んだなら、あなた自身もそのような過誤を犯していないか吟味せよ。もしもそうならばそれを止め、追い払い、取り除く努力をするように。そうでないならばかれの許に逃れ、かれに感謝し、かれを賛美せよ。

あなたにとり必要不可欠なことは、いつでも注意深くあることである。あなたの意識、あなたの心に入り込んでくるすべてに対して注意深くあれ。自分が思っていることや感じていることについて考え、分析せよ。それらを自ら統制できるよう努力せよ。自我の欲求には注意を払い、自制するよう努力せよ。

良心と羞恥心を持ち、神の御前に立て。そうすることが、注意深くあるための動機づけになるだろう。そうするうちにあなたは、自分が何をして、何を言い、何を考えているのか気にかけるようになる。すると神の御目に醜く映る思考や感情は、あなたの心に住み着けなくなる。そうなればあなたの心は、神の御喜びに反する行為への誘惑からも安全になるだろう。

あなたの時間を価値あるものとせよ。今この瞬間を生きよ。想像するにかまけて、時間を捨てる生き方はしないように。神は前もって定めたもう、あなたの義務を、行為を、崇拝を、あなたのあらゆる瞬間を。それが何であるかを知り、そしてただちに行なうこと。まずは神があなたに義務として与えたもう行為を実践せよ。それから、かれの預言者が自らを例として示された行為を実践せよ。その上で神があなたに、自発的なもの・許容できる善行として残されたもう行為を実践せよ。困っている人に貢献できるよう働け。

何であれものごとを行なう際には、崇拝と礼拝によって主に近づくために行なえ。各々の行為が、あなたの最後の行為となるかもしれないと思いなさい。各々の礼拝が、あなたの最後の平伏となるかもしれないと思いなさい、機会は二度と来ないかもしれないと思うようにすること。それはあなたが注意深くあるための、また誠実で正直になるための、もうひとつの動機づけとなるだろう。神は、善良な意図も誠実さも無しになされた行ないを、善良な意図と誠実さをもってなされた行ないと同等には受け入れたまわない。

清潔さは、神の御命令である。いつでもあなたの体とあなたの内側の自己を清潔に保つこと。礼拝が許されていない場合を除いて、沐浴をした際にはいつでもその後に二回の礼拝を行うこと。日の出に、正午に、そして日没に。金曜日は例外であり、正午の礼拝は許されている。

神の聖なる書物にあるかれの御言葉と、イスラムの教えにおける善行をあなたの子どもたちに教えよ。あなたが教えたことを、子どもたちが実践できる環境を確保せよ。いかなる見返りも子どもたちに期待することなくそれを実践すること。ものごころがつくよりもずっと先に、困難に耐えること、忍耐強くあること、考えることを教えよ。子どもたちの心に、この世への執着を植えつけてはいけない。この世の品々を嫌うように教えよ、子どもたちが誇り高くあれるように –– 贅沢、華美な服装、豪華な食事、過剰な野心 –– これらすべては、現世で手に入れてしまえば来世で授かるはずだった報酬から差し引かれてしまうから。上等なものに慣れさせてはいけない。それが当たり前とならないようにすること。用心せよ、これは簡単なことのように思えるかもしれないが、あなたの中の醜い部分である吝嗇さを子どもたちに向けてはならない。あなたは自らの宗教に従い、宗教に沿ってこれを成し遂げるように。

自らの欲望と劣情の奴隷となった人たちはものごとに無頓着である。こうした人々には近寄らないように。彼らは真実の光から自らの心を遠ざけ、不注意の暗い穴に放り込んでしまった人々である。彼らと同じ場所で同じ時間を過ごさねばならないなら、彼らと正面から向き合って忠告すること。彼らがあなたに背を向けるなら、それは彼らが背と正面の違いも知らないからである。彼らを背後から刺してはいけない。彼らが顔を向けようが背を向けようが、彼らに対してはいつでも同じ方を向いているようにすること。そうすれば彼らもあなたを好ましく思うようになるかもしれない。敬意を持つようになるかもしれないし、場合によってはあなたを慕って後を追ってくるかもしれない。

自分の精神の階梯に満足してはならない。前進せよ。絶え間なく、立ち止まることなく前進せよ。堅固な意図をもって超越の真理たる神に祈れ、今のあなたがいる階梯から、更に高い階梯へと連れていってくれるようにと。あらゆる状態、あらゆる動態、何かをしている時もしていない時も、誠実かつ正直であれ。超越の真理と共にあれ。決してかれを忘れるな。常に主の御前にあることを感じ取れ。

与えることを学べ、あなたが富んでいるかいないかに関わらず、幸福か不幸かに関わらず。これはあなたの、神に対する信仰の証明である。貧者の必要を満たすよう努力せよ。これは神がすべての者に等しく糧を割り当てたもうこと、そしてそのことに何の変更もないことを確かめるための行ないである。あなたが神を信じていることの、これが証明となるのである。

吝嗇な者は臆病な者である。呪われし悪魔がその耳にこうささやく。死は来ない、おまえは長生きするだろう。世間は冷酷だ。持てるものを与えてしまえば貧しいまま放っておかれるだろう。そうすれば名は汚され、孤独に陥るだろう。多くを持てる者だからこそ、今のところは見下されずに済んでいるのだ。しかし明日になれば、何が起こるか誰にも分からない。 –– 吝嗇な者がわずかしか持っていない場合は更に悪い。悪魔はこう言うのである。おまえの持っているものはすぐにも無くなる。誰も助けてはくれない。おまえは他人の重荷になる他はなく、そうなれば誰もがおまえを嫌うだろう。自分の面倒は自分で見ろ。こうした邪悪な想像に心が捉えられてしまうと、その人は地獄の火の方へじりじりと引きずられてゆく。その一方で神に自らの耳を明け渡した人ならば、かれの祝福の言葉を聞く。聖コーランにおいて神はこう告げたもう。

……貪欲な心を持たない者こそ繁栄する。
(召集の章9節)

……貪欲な者はおのれに貪欲の責めが加えられる。
(ムハンマドの章38節)

そして最後の警告は以下の通りである。

……おまえたちが背をむけて去るというなら、神はかわりの民を置きたもう。
(ムハンマドの章38節)

すなわち教えられた後に、また信仰の道に導かれた後になってから吝嗇になり始めたり、あるいは吝嗇であり続けたりするならば、あなたは居場所も階梯も、神の御好意も失いかねないのである。神の寛大さを信じて気前よく与える他の誰かが連れて来られ、あなたの居場所だったところに置かれるだろう。

吝嗇な者は、神の御言葉の恐ろしい意味を理解しなかったのである。

「……主よ、彼らの富を抹殺し、その心をかたくなにし、痛烈な懲罰を見るまでは信仰に入れさせたもうな」
(ヨナの章88節)

これが預言者モーセ(彼に平安あれ)による、ファラオに対する呪詛である。神がファラオと宰相たちの破滅を意図したもうとき、預言者モーセ(彼に平安あれ)は絶対の裁きの主である神に、彼らが吝嗇によって苦しむようにと祈った。この呪いのため、エジプトの民は吝嗇と嫉妬に苦しめられることになった。貧しい者、弱い者は飢えて死に、神はファラオとその従者たちの吝嗇を裁きたまい、罰を与えたもう。

吝嗇の呪いにかかっている者は神の使徒(彼に祝福と平安あれ)の言葉を聞かない。いわく、「神の御傍には二人の天使が仕えており、彼らは毎朝『おお、主よ、与える者へのあなたの恩寵を増やしてください。そして貯め込む者からは取り上げてください!』と祈っている」。

聖アブー・バクル(彼に神の御満悦あれ)が、持てるものすべてを喜捨しようと、祝福されし私たちの師である神の預言者の許へ向かったとき、彼は「あなたの家族を世話するためのものは取り分けたか?」と尋ねられた。彼は答えた、「彼らについては神と神の使徒にお任せしております」。聖ウマル(彼に神の御満悦あれ)が彼の財の半分を喜捨しようと持ってきたときも同じ質問をされたが、彼は「私は持っているものの半分を家族の糧として置いてきました」と答えた。神の預言者は彼らにこう仰った。「私の問いに対する答えの違いが、あなたがた二人の違いである」。

自らの糧の中から与える者は、与えたよりも多くを絶対の養い主から授かる。吝嗇な者は吝嗇の罪に加えて、いと高き神を吝嗇だと責め、自らの主の恩恵よりも自らの所有するけちな品物の方を好み、信頼しているのである。これこそは許し難くも神に対偶を配する罪であり、神の慈悲から拒絶される因ともなり、彼の信託を失いかねないしわざである。神よ、私たちをお守りください。

それゆえ、神があなたに与えたもうものの中から与えるように。貧困を恐れるな。神はあなたに約束したもうものを授けてくださる、あなたであれ誰であれ、求めるか求めないかに関わらず。これまでも誰であれ、寛大な者が滅ぼされたためしはない。

真実を探し出し、神の御喜びと御加護を得たいと望むなら、否定的になるのをやめ、気分や怒りの感情を抑制せよ。怒りをおさめられないなら、せめてそれを表に出さないように努めよ。表に出せば神を失望させ、悪魔を喜ばせるだけである。自我を教育すること。そうすれば道はまっすぐになり早く進める。怒りとは鎖と檻から放たれた気の短い野獣のようなもので、それは自我が抑制できていない徴候であり結果である。あなたが気分を抑えて我慢をすれば、それは勒(くつわ)と目隠しをしたかのようになる。それから、調教を始めること。ふるまい方を教え、従うことを覚えさせること。そうすれば他の人や自分自身(そう、それはあなたの一部である)を傷つけないようになる。

この調教があなた全体に行き渡ると、中から、癇癪を起こさず、怒りを抑えることのできる者が出現する。あなたの敵も静まるだろう。あなたは敵の挑発に反応することもなくなる。あなたは敵を罰しない。敵の否定的なあり方に反応もしない。無視するのである。これは罰するよりもいっそう効果的である。おそらく相手は自分の行為を認め、公正さとは何であるかを考え、自らの過ちを認めるようになるだろう。

この助言を熟考し、これを習慣とせよ。そうすればあなたは肯定的な結果と、現世と来世の報奨を見るだろう。行為の重さが量られる日の、あなたは勝利者となるだろう。あなたが授かる、これが最も偉大な報奨でありまた最も偉大な恩寵である。あなたが我慢すれば裁きの主も、神の怒りもて罰することもできただろうあなたの罪を罰したまわない。あなたの許しは、主の許しという報奨によって報われるだろう。信仰上の兄弟姉妹たちに背負わされた重荷を耐える者に対する報奨として、これよりも良いものがあるだろうか?

神はあなたを、神があなたに他の人たちをどのように扱うべきか命じたもう通りの方法で扱いたもう。だからあなたも公正に、平和に、人を助け、穏やかで優しい性質であろうと努めること。その性質をもってものごとを行なうこと。するとその性質があなたから、周囲にいる他の人たちの間にも広まってゆき、調和、お互いへの愛情、敬意が生み出されるのを見るだろう。神に愛されし者、私たちの師である預言者(彼に祝福と平安あれ)は、途切れることのない愛の状態を保つために、お互いに愛し合うよう命じている。彼はこれを繰り返し、あらゆる説教において何度でも述べている。怒りを捨てて代わりに困難を受け入れて許すことは、困難を引き起こす人に情けをかけることであり、それは確かに愛の土台の柱石のひとつである。

 

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神の御慈悲を受け取れるよう、あなたの心を開くこと。慈悲の心は、神の御好意が映し出される鏡になる。神の御好意が現われてあなたの中へと来たるとき、あなたが主の存在を感じるとき、あなたは自らの不正な行ないを恥じるだろう。これがあなたや他の人たちが、良心を持つようになる理由である。このようにあなたの慈悲が、あなたや他の人たちを罪から守るのである。

大天使ガブリエルが私たちの師である預言者(彼に祝福と平安あれ)に尋ねた。「神聖の慈悲とは何であるか?」。預言者たちの封印たる方は答えた。「あたかも神の御前にあって、かれを見ているのように祈りと称賛を捧げること」。まるで神を見ているかのように祈る水準に達した信仰者の心に、それは深い崇敬として反射するのである。

それから、私たちの師である預言者は続けて「たとえあなたにはかれを見られなくとも、かれは確かにあなたを見ている」と仰った。神聖なる慈悲について、このような水準の理解に達した人には良心がある。神の視線が自分に注がれているのを感じて、罪を犯すことをためらうのである。預言者(彼に祝福と平安あれ)は言った。「良心は完璧なる善である」。良心ある信仰者ならば自らの行ないには注意深く、したがって過ちを犯しようがない。良心に満ちた心の持ち主ならば、その心は現世または来世を損ねる害を寄せつけない。

傲慢とうぬぼれの欠如が、良心ある人のしるしである。その人は決して他の人びとを抑圧したり、支配しようとはしない。あなたもまた慈悲の心を高め、良心ある人となりますように。あなたに、それを目指す強さと先見の明がありますように。

 

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日の出の前に起きて、神を想起し悔悟せよ。罪の後を悔悟が追うなら、悔悟が罪を打ち消す。まるで何も起きなかったかのように、罪が消え去る。情け深い行ないや祈りの後を悔悟が追うなら、それは光の上に光を、美の上に美を重ねたようになる。神を想起し賛美するとは、あちらこちらに散らばった心 –– まるで千の破片に砕けてしまった鏡のように –– を、ひとつところにまとめ、つなぎ合わせ、元通りのひとつに直して、それを<一>なる御方へと向かわせることである。すると心からはあらゆる災難が去ってゆき、そして憶えていた<一>なる御方の喜びに満たされてゆく。

あなたの心が想起であふれんばかりになったところで聖コーランを読め。読んだなら、たった今あなたが読んだものの意味を熟考せよ。それが主の一性、主の無比性、あらゆる瑕瑾なき完全性を思い起こさせる章句であったなら、主を賛美せよ。それが主の祝福、恩恵、優しさ、愛、あるいは主のお怒りや罰について解き明かす章句であったなら、主の許から主の許へ避難し、主の御慈悲を乞え。過去の預言者たちとその民の物語であったなら注意深く聞き取れ、そして彼らに起きたことから教訓を得よ。聖コーランの章句には無限の意味が込められている、語のひとつひとつに –– あなたの状態や水準、知識や理解の度合いによっても変化する。したがって、読んでいて疲れたり飽きたり、退屈したりするはずがない。

 

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あなたの、罪を犯そうとする固着の結び目をほどけ。結び目の上から結ぼうとすれば、あなたは縛りつけられてしまう。それでどのようにしてあなた自身を救うのか?結び目を作った本人、すなわちあなた自身の助けが必要なのだ。語りかけよ。説得せよ。こう告げよ、「おお、一時の劣情よ。おまえは理性の声を憤慨して拒む。だが聞きなさい。おまえが吸い込んだその息が、最後の息にならないという確証はあるか?最もよく御存知なのは神である、しかしそれでも、おまえが次に吸い込む息が、おまえが愛してやまない現世における最後の息にならないとも限らない。死はおまえの喉元をつかむだろう。それでもおまえは誤りの上に誤りを、罪の上に罪を重ねることに執着する。終局の裁きの主は、罪を犯すことに固執する者への罰は、運びようもない山ほどもある岩だと警告している。それなのに藁のように軽いおまえが、どうしてそんな恐ろしい厳罰を担えると思えるのか?おまえを作ったこの私に、背を向けないでくれ。主と向き合い、悔悟してくれ。たった今、ただちにそうしてくれ。遅らせるわけにはいかない。何故なら死がいつ訪れて、おまえをふたつに断ち割るか知りようもないのだから」。

悪のかぎりをつくしたあげく死に臨んで、「今はすっかり私も悔い改めました」などと言っても、その悔い改めは容れられない。……
(女人の章18節)

自らにこう告げよ。「本当に、死の前兆があなたをうつ伏せに倒し、命が事切れようという段になってやっと思い直して悔悟しようとも、神はその悔悟を受け入れたまわない。全世界に対する慈悲として主に遣わされた預言者は、神はあなたの悔悟を、あなたが最後の息を引き取る直前まで受け入れたもうけれども、それが死の苦しみの瞬間になされるようならあまりにも遅過ぎる、と仰っている。死は前触れなしに訪れる –– ある者は食べている最中に、またある者は妻と寝ている最中に、またある者は深い眠りについたまま、二度と目覚めない。それよりも前に虚偽から真実に立ち返らず、悔悟もせずに罪に固執し続ける者は誰であれ、死の深い落し穴にはまった者なのだ」。

あなたの自我には、このように語りかけるように。あなたの肉体から生じる欲望を鍛錬し、教育するよう努めること。それらは罪を犯すことに執着している。ゆえに罪を犯さないよう、絶えず説得し続けるように。あなたがあなたの低い自我に対して自ら警告し続けているうちに、あなたの心を縛っていた結び目が神の助けと共にほどかれるだろう。これだけが救いへと至る唯一の方法である。

 

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あなたの行ないと、あなたの心の深いところと思考において神を畏れるように。神の畏れとは、神の懲罰の畏れである。終局の裁きの主による懲罰の警告を本当に畏れている者ならば誰であれ、創造主の御喜びに従ってものごとを行ない、誤りに代えて真実を求める以外にはできないはずである。最後の御言葉の所有者ご自身が、以下のように告げたもう。

しかし神は、神ご自身に用心するよう、おまえたちに警告されている。
(イムラーン家の章28節)

神は、おまえたちの心のうちをすべて知っておられるのだ。それゆえ、神を畏れかしこみ、神が寛容にして慈悲ぶかくあらせられることを知れ。
(雌牛の章235節)

神への畏敬はあなたを害から守る防壁である。どのような甲冑よりも、あらゆる防壁よりも、神の保護は最も強い。どのような危害もそれを通り抜けることはできない。神への畏れがあなたに保証するのはそれである。神の預言者、全世界に対する慈悲として遣わされた者自身が、自らの主をその避難所としていたのである。彼は主に祈り、こう仰っている。「あなたの御怒り、あなたの御力から、あなたの御喜び、あなたの美、あなたの御優しさに避難を求めます。あなたの懲罰から、あなたの神聖なる御慈悲とお情けに避難を求めます。あなたからの避難所は、あなたに他なりません」。

あなたを取り囲むあらゆるところに見出せる、あなたを創りたもう御方の慈しみを探し求め、学び、模倣すること。神の御喜びに沿ったあなたの行為と意図をもって、自らを神のお怒りから守れ。どのような行為でもものごとでも道でも、何であれ、それが不安や恐怖の影の下にあるならば選んではいけない。ただちに去ること。あなたの創造主を知り、かれに従うことのみが平安と幸福への道であると知ること。反抗心や利己心は行き止まりの道である。神の御同意を得ない限り、あなたの主の御怒りからあなた自身を救うことはできない。真正な道に入らない限り、行き止まりの落し穴から抜け出すことはできない。楽園にふさわしい適切な行為のみが、業火を遠ざけるのである。神は告げたもう、

神を畏れかしこめ。……業火を恐れよ。
(イムラーン家の章130-131節)

神への畏れをもって業火を離れ、至福へと昇れ。

 

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罪を犯すことにこだわり、頑なに自らの過ちを認めることを拒否していながら、どうして神があなたを、犯している罪にも関わらず忍耐強く親切に、寛大に扱いたもうことをそんなにも誇れるのだろうか?悪魔があなたの耳に「もしもおまえが罪も犯さず反抗もせずにいたら、神だって無限の慈悲やお情け、お優しさを示す機会がなくなるじゃないか」などとささやいたからだろうか?邪悪なその説がいかに不合理であるか、あなたには分からないのだろうか?無限の知識の所有者が、かれの意志と御喜びにしもべが逆らおうとするのを防ぎたもうからといって、どうしてかれの慈悲や慈愛が足りないことになるだろうか?

すると悪魔は再びあなたの耳にささやくかもしれない、「生まれつき善良な性質の、従順な者たちが得ているのと同等のお慈悲を頂ける望みなんておまえにはない。あいつらはこの世に生まれてきては神の意志への服従を見せびらかし、主の御慈悲とこの世の良いものを自分たちのところにかき集めるだけかき集めて、それからこの世を去っていく。だが神の本当の御慈悲もお情けも、お優しさも、来世でこそ明らかになるというもの。最後の審判の日、反抗的だったしもべを裁くには主の御慈悲が必要だからな」。

このような考えを信じてだまされるのは、分別を失った者くらいのものである。このような誘惑からあなた自身を守れ、そしてあなたの悪魔にこう告げよ。「神からの、かれのしもべに対する無限の忍耐強さと寛大さについては、おまえが語った通りだ。本当に、もしも反抗や不服従、罪が存在しなければ私たちは主の神聖なる属性の働きを目にすることもないだろう。聖なる書物や御言葉にある沢山の例だって、どれも私たちが慣れ親しんだものばかりだ。だがおまえ、邪悪な者よ、真実をおのれの目的のために利用するとは。神の御慈悲を現すためなどと言って私に罪を犯すよう唆すとは!神が忍耐強くお優しいからといって私に反抗させようとするとは。

「おまえは私に、神の御慈悲とお情けを試せと言う。だがおまえ、おお、呪われし者よ、どうして私が許される者たちの一人だなどと知れるのか?本当に、神はかれがそうと望みたもう者たちを誰であれ罰し、またそうと望みたもう者たちを誰であれお許しになる。私がどちらの側の者になるのか、どうして私にわかるだろうか?私がわかっているのはただひとつ、それは私が罪深いということだけだ。そして私が悔悟もせず神の許しを乞わないままにこの世を去れば、私が地獄に入って業火で罰されるよりも先に、かれは私に御慈悲をかけることを拒みたもうだろう。人は生きてきた通りの死を迎えるものであり、罪は不信仰の使者とも言われる。もしも私が運良く信仰者として最後の息をすることができたなら、主は私を地獄の業火で焼き清め、それからようやく、かれの御慈悲もて私に平安を与えて下さるだろう。

「私の罪が量られ吟味される日も無ければ懲罰も無い、と私が確信をもって知れたなら、あるいは神が私に必ずお許しを授けて下さると確信をもって知れたなら、あるいは私はおまえの屁理屈に乗ったかもしれない。だとしても、やはりそれは自分は愚かだと言っているも同然のことだ。しもべが主の忍耐強さを試すことそれ自体が、確実に許されぬふるまいなのだから。

「一方で、たとえ私が神の罰を受けるだろうことを確信していたとしても、私がするべきことはかれが私の懲罰を先送りにして下さっていることに恥じ入り感謝することであり、あたえられた猶予をひたすら私の主の命ずるところに従うよう、能うかぎり努めて過ごすことである。

「すべての罪は許される、などといううまい話はほんの少しも聞いたことがない。それどころか人間は、正しいことと誤ったことのどちらでも選べるようにできている。そして許すも罰するも、これもまた終局の裁きの主の御心次第だ。ところがおまえときたら、おお、邪悪を命ずる自我よ、おまえは<選ぶ>ということをしない。おまえはいつでも決まりきって、過誤や禁じられたものばかりを欲望するのだ!」。

 

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節度を保つように。節度を保つとは用心深くあることであり、あらゆる汚れや罪深いものごとを慎むということである。それは疑わしく不審なものごとすべてから、あなたの身を守る。神の使徒が「疑わしいものを立ち去って、確かなものを手にしなさい」と仰っているが、それは疑わしいものや手に取るのがためらわれるようなもの、あなたの心の中に不確実な思いや緊張、恐怖を生じさせるようなものを捨て去り、安心感や平安をもたらすものに心を向けることの必要性について語られているのである。

行動や言葉、崇拝の際の行為、友人や婚姻の相手といった様々な他の人々との関わり方、それらをひとつひとつ吟味する作業があなたにのしかかってくる。それぞれについての良し悪しを判断しなくてはならない。何が清浄であり何が不浄であるか、あるいは何が正しく何が間違っているのか –– 別の言い方をすれば、何が合法であり何が非合法であるかということになる。時にそれは明白である。その場合、間違いよりも正しい方を選ばねばならない。時にそれは疑わしい。その場合、確かな方を選ぶためにはどちらが間違っているのか調べねばならない。

預言者(彼に祝福と平安あれ)の助言に従え。すなわち、たとえ疑わしい方のものが必要であったとしても、たとえそれ以外の選択肢は皆無であったとしても、それに手を出してはならない。神に委ねよ。これが節度である。節度を保ち、疑わしいものを捨て去ったことについては、神はそれよりもはるかに良いものをもって報いたもうと確信せよ。ただし、今すぐに報いられることを期待してはいけない。

節度を保つことは宗教の基礎であり真実へと至る道である。あなたが節度を保っているならば、あなたの行為はすべて純粋かつ誠実なものになるだろう。あなたが行なう全てが上首尾に終わる。あなたは神の秩序と調和し、神の寛大さを受け取る者となる。皆があなたの方を振り向く。あなたは神の庇護の下にある。もしもあなたが誤ったものや疑わしいものを避け、節度を保ち信仰深くあるならば、あなたが恩恵を授かるだろうことは疑う余地がない。しかし、もしもあなたが節度や信仰に背を向けるならば、終局の裁きの主はあなたを無力かつ恐るべき恥多い状態に置きたもうだろう。主はあなたを、あなた自身の自我の手に取り残したもう。そうなれば、あなたは悪魔のおもちゃでしかない。真実から遠く連れ去られても、抵抗のすべもなければ誘惑に逆らう手立てもない。信仰の道に留まれるよう、あらゆる努力を惜しむことのないように。そうすれば、神があなたを助けたもうだろう。

 

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この世とは、人びとに多くの学びが課され多くの試験を受けさせられる準備の場である。ここでは多くを選ぶよりも、少なめに選べ。たとえ他の誰かが持っているよりも少ないとしても、あなたが持っているもので満足すること。むしろ実際には、持つものが少ないのを好むようであれ。

この世は悪いところではない –– それどころか、ここは来世の畑なのである。あなたがここに植えたものが、あなたが来世で刈り取るものである。この世は永遠の幸福へ至る道であり、ゆえに良いところである –– 大切にし、賞賛するに値する。

では何が悪いのかというと、あなたが真実に対して盲目となり、この世に対する欲求や渇望、野心のおもむくままに何もかもを費やし破滅に陥ることである。私たちの師、水晶のように明晰な知識を持つ預言者(彼に祝福と平安あれ)にある人が尋ねた、「世俗とはどのようなものでしょうか?」。彼はお答えになった、「あなたを無頓着にさせ、あなたの主を忘れさせるもの全てである」。したがってこの世のものごとは、それら自体が有害なのではない。しかしそれらによってあなたが忘却や不服従に陥ったり、それらをあなたに与えた主のお優しさを気にもかけなくなることが問題なのである。あなたのこの世に対する感覚、関わり方の問題なのである。この世をあなたに与えたもう唯一の主よりもこの世を好めば、あなたは鈍感な者ということになる。それはあなたと神の真実との繋がりを断ってしまうだろう。

神の使徒(彼の上に祝福と平安あれ)は、「誰であれ来世よりも現世を好む者は、三つのことに苦しめられる。すなわち、決して軽くはならない耐え難い重荷に、決して満たされることのない貧しさに、そして決して叶うことのない野心の飢えに」。

そうしたわけで、この世のためのみに生きる者は苦痛と困難を抱えることになる –– 自分ひとりで問題を解決しようと試み、物乞いのように完全にこの世に依存し切って、自分の欲望や自我が求めるものを満たそうとする。その欲望、その自我は決して満足することを知らない。野心には終わりがなく、常に何かを欲し、常に飢えており、常に不満ばかりである。これがこの世を自らの主とし、この世とあの世のすべてを統べる主を忘れた者への応報である。

これは何もあなたがこの世を捨てるべきであり、この世にあるあなたの義務を放棄して何ごとにも参加すべきではない、ということではなく、一隅に退き、努力もせず仕事もしないということを意味しているのではない。神の使徒(彼に祝福と平安あれ)は、「神は職能を生かして仕事にはげむ信仰者をご覧になるのを好まれる」「本当に、神はものを作る者を好まれる」「自らの努力を通じて合法の糧を得る者は、神に愛される者である」と仰っている。これらの言葉は、この世においてものを作ったり商売をして懸命に働く者たちの上に神の御慈悲があることを示している。これが、すべての預言者たちが自らの糧のために労働していたことの理由である。

これに関連して、ある日のこと、聖ウマル(彼に神の御満悦あれ)が人々の集団に出会った。彼らは何をするわけでもなく、ただゆったりと座り込んでいた。あなたたちは何者なのか、と彼は尋ねた。すると彼らは答えた。「自分たちのことについては、全てを神の手に委ねた者です。私たちは主を信じているので」。

「絶対に、おまえたちはそのような者ではない!」、彼は怒ってそう答えた。「おまえたちは、他の人々の努力に寄生するたかり屋に過ぎぬ!誰であれ、本当に神を信じる者なら最初にやることは大地の臍に種を植えることだ。すべてがうまく行きますようにと、養いたもう主の御手に委ねるのはその後だ!」。

一部の、真の神学者たちは労働 –– 様々な専門職、技術者、神の法に沿った合法の商売など –– を、信仰の条件とみなしてそう主張する。彼らの意見によれば信仰の確実性とは、宗教の義務を実践することによって決定されるが、労働もそうした義務のひとつだということである。彼らが根拠としているのは次の章句である。

礼拝がすめば、ところどころに散って、神のみ恵みを求めよ。おおいに神を思うがよい。そうすれば、おまえたちは栄えるかもしれないぞ。
(集会の章10節)

以上のように、この世のものごとやこの世そのものから退くということは、その中にあるあなたの義務を果たさないということを意味しない。

おそらく「世俗に染まる」とは、この世の利益を増やすことばかりにかまけることを指している。世俗に染まった人は、自分が持っているものと自分を同一視してそれらを誇る。野心でいっぱいになり、それが合法か非合法かを考慮もせず、それが正しく自分の取り分なのか、あるいは他の人の取り分なのかも構わず蓄財することに自分自身を捧げる。さらに悪いことに、これを間違っているとも思わず、むしろこれが正しい道であり、かつこれのみが唯一正しい道であると思い込む。

この世に対する愛着があなたの心のすべてを満たすとき、そこに神への想起が残される余地はない。あなたは現世の方を好み、来世を忘れる。

飢えを満たすいくばくかの合法な糧、あなたの体を覆う布、そして屋根。これが、あなたがこの世で必要とするものの全てである。この世に求めるものはこれだけにとどめ、それ以上を欲することのないように。束の間のこの世を我がもの顔で跋扈し、楽しんでいるかのように見える人々を妬んだりしないように。また、合法か非合法かも構わずに集められた彼らの富を欲しがるようなこともしないように。一体この世に、どれほど長くいられるものか?

ある者は永遠の来世における真に良いものよりも、束の間の現世の方を選ぶ。そのため現世においても来世においても、真の目的地には決して達することが出来ない。何故ならこの世に対する野心というのは、熱望したとしても決して満たされることがないからである。あなたは見ないのか?この世におけるあなたの取り分を決めるのは運命を定めたもう主であり、あなたはそれ以上もそれ以下も受け取ることはないのである。あなたが気にしようがしまいが、神の決めたもうことに変更はない。私たちがより多くを欲しがろうが欲しがるまいが、私たちが受け取れるのは運命の鏡が映し出すものに限られているのである。神は告げたもう。

……この世の生活の糧を与えてやったのはわれらである。
(装飾の章32節)

しかし現世を神とする人々の欲望には終わりがない。そして彼らが欲しがるものは彼らのために用意されたものではなく、従って彼らがそれを手に入れることは決してない。こうして彼らは一生を不満と不幸のうちに過ごし、それから来世で神のお怒りと向き合わねばならない。現世における欲望はあたかも海水のようである。飲めば飲むほどに喉が渇く。神の預言者はこの世をうずたかく積まれたごみの山に例えたが、それはあなたにこの世との距離を保つよう教えるためである。神があなたの運命の一部として授けたもうもので満足せよ。あなたが好むと好まざるとに関わらず、それがあなたの取り分である。

神は預言者モーセ(彼に平安あれ)に警告したもう。「おお、アダムの子よ。われがおまえに割り当てたもので満足するならば、われはおまえの心に平安を授け、おまえを称賛に値する者とならしめよう。しかしわれがおまえに割り当てたもので満足していないならば、われがおまえに大国を授けよう。おまえは砂漠で野獣どもと争うことになる。しかし威力も威厳もわれの有であり、おまえはその争いからは何ひとつ得られはしない。われが割り当てない限りおまえは何ひとつ受け取れず、おまえは非難されるべき者となるだろう!」。

これは神の取り決めたもうところに従い、与えられたものに満足する者は心の平安を得、神の称賛と栄光に値する者となることを意味している。一方で、運命によって定められている取り分をあなたが受け入れないならば、神はあなたの望み通り、この世をあなたの敵となさしめるだろう。世界は、まるで飢えた獣たちにとっての砂漠のようになる。あなたは走りに走りまわるが、何を見出すこともできずただ疲労するばかりである。神はこの世に境界線を引きたもう。すなわち、人々は定められた以上のものを手にすることはなく、その境界を越えたところで受け取れるものはただ疲労と不満、不名誉のみなのである。

神があなたにこの世のすべてを、あなたが思いつく限りすべての品物や財を授けたとしよう。しかし一体、たとえば食べ物や飲み物など、あなたの胃袋はどれくらいの量を受け入れられるだろうか?ひとつしかない体にまとう衣服や、住居にしてもそうである。持たざる者たちは控えめに慎ましく暮らしているが、しかしより豊かなのは彼らの方である。何故なら彼らはこの世にあって憂いもなく、平安と共にあるからである。そして当然のことながら来世についても、彼らについては説明するまでもないだろう。

あなたの精神の平安、永遠の幸福の可能性を、現世における束の間の、劣悪なものと引き換えにしてはならない。どれほど壮大で安全なように見えても、あなたが死ねばそれらも死ぬのである。あなたが次の一歩を踏み出すと同時に死が訪れないとは限らず、同時にこの世におけるあなたの見た夢もすべて消え去るのである。

現世に行く者たちが現世の子であるのと同様に、来世に行く者たち、来世の子もまた存在する。神の使徒が助言した通りである。「来世の子であれ、永遠を目指して跳躍せよ。現世を目指し、現世に帰りたがる現世の子ではなく」。あなたの主の御言葉を読み、これと共にあれ。

現世の生活とその装いを欲する者には、われらは現世においてその行ないに十分な報いを与えるだろう。けっしてそこでは損害をこうむることはない。だが、こういう人々が来世で得られるのは業火のほかなにもない。そうなれば、現世で施した策はむだとなり、今までしていたこともむなしくなる。
(フードの章15-16節)

来世の畑を求める者は、だれであっても、われらがそれをふやしてやろう。現世の畑を求める者には、それを授けてやろう。しかし、来世においては、このような者はなにごとにも参与がない。
(協議の章20節)

 

終わりに

永遠の真実が、不注意の惰眠からあなたを目覚めさせますように。あなたがどこから来たのかを、主があなたに気づかせたまいますように。私たちは皆そこから来てそこへ帰り、以降は永遠にそこに住まうこととなる。

あらゆるものをご覧になる御方が、あなたの内なる目を開きたまいますように。あなたが束の間の、この世の生における自らの行為、自らの言葉を見、覚えておけるようになりますように。それによりあなたは自らの行為や言葉について、申し開きが求められる最後の審判の日を知り、忘れずにいられるだろう。

審判の日までに、清算し残したもののないように。やり残したことがあるなら、今がその時である。自身を観察せよ。なすべき清算をなせ。救済に至る唯一の道は、負債を支払い清算したのちに来世に入ることである。預言者(彼に祝福と平安あれ)の助言に注意深く耳を傾けよ。「請求される以前に、自ら進んで支払を済ませるように。量られる以前に、自ら進んで罪を熟考せよ」。自らの人生を吟味せよ。あなたの犯した過誤と善行を秤にかけて比べてみよ。あなたにそれができる間に、まだ数えられる程度の息が残されている間に、この世での時間が残されている間に、地面の下の暗い墓穴に放り込まれる前にそうすること。

あなたが生きている間、現世的なあなたの自我は、まるで神の恩恵の利益の収集者のようである。それらはあなたの許に無数の手をもって届けられるが、しかしあなたが受け取るものは実際にはあなたの所有ではない。あなたは品物を受け取り、客に手渡す売り子である。そして会計の責任はあなたにある。

もしもあなたが今日これをなさなければ、明日が燃えさかる審判の日であり、あなたは大声で助けを呼ぶ羽目になることを覚悟せよ。誰もあなたを助けには来ない。あなたはあらゆる命令の中心から響く神の声を聞くだろう。それは罪人を罰して彼らを無に帰す絶対の懲罰者の声である。声は告げる、

「さあ、おまえの記録を読め。今日は、おまえの清算はおまえ自身で十分である」
(夜の旅の章14節)

主はあなたの許へ使徒を遣わさなかったか。主はあなたに正しい道を教えなかったか。主はあなたに、昼も夜もかれを想起し賛美せよと命じなかったか?主はあなたに、そうするだけの十分な昼と十分な夜を授けなかったか?

それでもあなたが何もせず最後の瞬間を待つようなら、あなたが受け取るものは後悔であり、それには良いところなど何もない。ただ待つことに固執し、自らの清算を遅らせるのであれば、知れ、すべての扉と窓はあなたに対して閉ざされ、あなたは外に追い出されることを。どこにも行くところがない。あなたにも、他の誰かにも、あるいは何かにも –– 神の御慈悲を除いては。行ってその敷居に跪け。悔悟の涙を流し、入れてくれるよう乞い願え。窓の覆いの向こう側に何があるかを見よ。

自らの行為を清算せず、内省もせず、あなたの寛大なる主への感謝をせずに過ごすことには三つの危険が伴う。一つめには無意識と不注意である。二つめにはあなたの自我、あなたの低い自己から洪水のように溢れ出す欲望や劣情である。三つめには悪しき習慣である。本当に、悪しき習慣は人を機械にしてしまう。神の助けを借りてこれら三つの危険から身を守る者こそは、現世と来世の両方における救済を見出すであろう。われらが師、ムハンマドに祝福あれ。彼の一族、彼の同胞たちにも –– あらゆる言葉、あらゆる時と場において称賛あれ。

 

*****

 

誰であれ、自らの宗教を理論と化す者は
神の道、平安に背く反逆者である。異端者である!
それは法の逸脱である!ものごとを複雑にしてはならぬ。
それは禁じられている。
学を修めた者たちの会話は無知にまみれている。
位階も階梯も捨て去れ。
これは議論に非ず、わが主、わが師、彼の言葉に非ず
何故なら師たる師、使徒 –– 平安は彼と共に在り –– は
言った、「宗教は言葉に非ず」と!

 



Ibn ‘Arabi: Divine Governance of the Human Kingdom –– 「探求者の心得」、Kitab Kunh ma la budda minhu lil-mulidの名で知られるこの小論は、1204年、探求者は「何を信じるべきか。またその始まりに、何よりも先にすべきことは何か」という質問に対する解答として1204年、モスルにて執筆された。この小論はトルコ語(Mahmud Mukhtar Bey, 1898)、スペイン語(M. Asin Palaciosによる部分訳, 1931)、英語(A. Jeffrey, 1962)といった複数の語に翻訳・刊行されている。

 


コーラン  (中公クラシックス)