『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
「禁欲主義と神秘主義」1
霊知者とは宗教と信仰の魂であり
霊知とは過去の禁欲の結実である2
禁欲主義とは種を蒔く仕事であり
種の芽吹とその収穫が霊知である
霊知者とは、正義を為せとの命令であり
同時に、為されし正義そのものでもある
霊知者とは、神秘の解明者であり
同時に、解明されし神秘でもある
今日も、明日もわれらの王であり
外殻は良き種子の永遠の僕である
1. 『精神的マスナヴィー』6-2090.
2. 「結実」とは、すなわち本質的かつ実質的な要素であり最終目的そのものという意味。
3. 「完全なる人間」は、その意識において実在の有する内的・外的なあらゆる側面と合一している。法であると同時に法の守護者であり、神秘であると同時に解明であると言える。
邦訳者註:「アーリフ(霊知者)」「マアリファ(霊知)」「ズフド(禁欲)」などについて以下、引用:
マアリファ [ma’rifa] イスラーム宗教思想、イスラーム哲学の認識論の鍵概念。神についての認識、直観知。初期イスラームの信仰の定義をめぐる論争において、ムルジア派は信仰は心による神のマアリファ(認識)であるという主張をした。神学論争においてはマアリファは神を知る心の働きをさしていた。これが先験的・直観的知であるのか否かということについては議論を呼んだ。しかし、このような神学的論争を通じて、マアリファという語はおおむね”神の認識”という宗教的意味に限定されていった。これは、同じく認識ないし知という意味のイルムという語が、主として経験的・分析的知の意味に限定されていることと対照的である。
スーフィズムにおいては、神についての直観知をさし、9世紀のズンヌーン・ミスリーがこの説を提唱した最初のスーフィーであるとされている。この意味でのマアリファは分析的理性(アクル)ではなく心(カルブないしフアード)により得られるとされる。この意味のマアリファは一般に愛(マハッバ)と関係づけて理解され、マアリファと愛により神を知るスーフィーをアーリフと呼ぶようになる。アーリフたちによって、マアリファを得る方法が論じられ体系化されたものが、イルファーン(叡智の学)と呼ばれるようになった。イルファーンの基礎となるのが心の浄化の方法である。アーリフの或る者は、このようなマアリファを禁欲や修行によって得ようとしたが、別のアーリフは、そうした実践的修行に加えて世界の現象の真相を認識することが、知の集積の場である心が浄化されることと考えた。この場合、世界の真相の認識には哲学の方法が採用されている。こうしてイルファーンと哲学が融合するようになる。このようにしてイルファーンと哲学の融合したものがヒクマと呼ばれる神秘哲学である。
(松本 耿郎 『岩波イスラーム辞典』 p902-903)
マーリファ|ma’rifa
「知識」の意であるが、スーフィーの間では同じく知識を意味するイルムと区別して、特殊スーフィー的な知識に対して用いられる。イルファーンともいう。イルムとは、通常の理性を備えている者ならだれでも知的学習によって習得できる形式的知識であり、イスラムの中では、イスラム法学・神学・伝承学・コーラン学・文法学などの宗教諸学に関する形式的知識を指す。その専門家たちをウラマーというが、この語は「知識(イルム)ある者」「学者」を意味する。これに対してマーリファは、イスラムの神秘家(スーフィー)に固有の神秘的直観知である。それがいかなる知的過程の結果でもなく、神がそれを受容する能力を与えて創造した人間に、神からの賜物として与えられる直接的体験知である。その意味でこの知識は、神の意志と恩恵に全面的に依存している。それは、自我意識の消滅(ファナー)によって我と汝、我と神という彼我の二元的対立を超克し、すべてが本源たる神に帰一した状態において悟得される、あるいは与えられる知識である。したがって、たとえば、「我は神なり」(ハッラージュ)、「我に栄光あれ!」(ビスターミー)のように、それを日常的言語で表現しようとすると、著しく逆説的となり、門外の者には背信にみえる・「神を知る者は黙して方r図」といわれるのはそのためである。
(中村 廣治郎 『新イスラム事典』 p464)
ズフド [zuhd] 禁欲、禁欲主義。原義は、身を慎むこと、節制。『ズフドの書』が、8-9世紀に書かれ、少なからず遺されているが、その著者は、たとえばアフマド・イブン・ハンバルらであり、後にスーフィズムに発展すると考えられる禁欲主義の担い手とは限らない。しかし、スーフィズムが9世紀に確立して以降、この語は、修行の途上で必要とされる現世蜂起・禁欲を意味するようになった。それにともなって、ズフドを究極目標としていた前代の人びとは、スーフィーと区別して、禁欲主義者(ザーヒド)と呼ばれるようになった。
(東長 靖 『岩波イスラーム辞典』 p535)
禁欲|zuhd
一般に禁欲と訳されるズフドは、イスラムにおける基本的な徳の一つで、ズフドの重要性を強調した多くのハディースが存在する。禁欲とはこの世の快楽から遠ざかることであるが、キリスト教と違って独身生活は勧められていない。テーマ別に編集されたハディース集成書のほとんどには、ズフドの巻がある。また、ズフドに関するハディースだけを集めた書も数多く編纂された。有名なものに、イブン・アルムバーラクの《ズフドとラカーイクの書》、イブン・ハンバルの《ズフドの書》がある。また、アラビア詩のジャンルでは、宗教的で敬虔な感情を謡ったものをズフディヤートと呼ぶ。サービク・アルバルバリーとアブー・アターヒーヤの詩が有名である。7世紀後半のバスラでは、後のスーフィズム(イスラム神秘主義)の先駆けである禁欲主義の運動がハサン・アルバスリーを中心として起こった。彼らの苦行的禁欲生活と現世否定は、当時のウマイヤ朝社会の富裕化・世俗化に対する反動であろう。スーフィズムにおいても、ズフドはスーフィーの修行の初期の階梯として必ず言及される。しかし、神秘的愛を強調する後期のスーフィーは、ズフドを超えられるべき低次元の段階として否定的にとらえることが多い。
(竹下 政孝 『新イスラム事典』 p206-207)