『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス
九. ファラオの信仰
「ファラオ」とは、エジプトの王を指す称号である。古代、エジプトの支配者はすべてファラオと呼ばれていた。モーセ(われらの預言者と彼の上に神の祝福あれ)の時代に統治していた暴君については、特に「モーセのファラオ」と呼ばれて他とは区別されている。ムスリムの歴史家たちは彼をワリードの名で呼んでいる。
ファラオたちのうち三人、また別の説によれば七人が暴君と圧政者であったとされており、そのうち最後の、そして最大の暴君がモーセのファラオである。彼の物語は今なお流布している名高いものであり、また歴史に刻まれた記録である。イスラエルの子らに対する不当な仕打ちと弾圧のため、ユダヤ人の間では悪名高い。イスラムの共同体においても、彼の名は罵倒の際の決め台詞となった。暴虐と専制によって悪名を轟かす者が非難や告発にさらされ、諸悪の根源として指弾されるとき、人々は「彼はまるでファラオのようだ」と言う。あらゆるコーラン解釈の書や歴史書は、道を踏み外した不信仰者として彼を描いており、多くの人がこの見解を受け入れている。
シェイフ・ムフイッディーン・イブン・アラビーは、その著書 Fusus al-hikam1 において、彼自身の精神的な見地と洞察に基づくモーセの物語を展開しているが、そこではファラオは信仰者であり、救済は保証されている。この保証とファラオの信仰については、コーランの章句「ファラオは言った、『私は信じます。イスラエルの子らが信じたお方の他に神はない。私は帰依者となります』(10章90節)」において明白に確証がなされている。溺れている状態というのは即死の状態を意味するものではなく、これは完全に絶望しきった者による信仰告白と解されるべきであろう。その後に続く章句「はじめは逆らって悪いことばかりしておいて、今になって(10章91節)」は、間際になるまで自らの信仰をぐずぐずと認めずにいたことへの一種の非難ではあるものの、しかし彼が信仰を拒否していたという確証にはならない。これ以外にも、「復活の日に、彼はその民の先頭にたって、彼らを業火に導くだろう(11章100節)」の章句についても、必ずしも彼の不信仰を示すものではない。
啓典における彼の救済の証拠となるのが、以下の章句である。「おまえのあとに来る者へのしるしとなるように、われらは今日、おまえをからだごと救ってやろう。まことにわれらのしるしに無頓着な者が多い(10章92節)」。これをイブン・アラビーは、「今日、われは汝を浜に打ち上げることにより現世の救済を授け、また汝の魂にも来世の救済を授けよう。それにより汝は、汝の後から来たる者たちに対するわが威力のしるしとなり、誰もわれの慈悲に絶望することもないだろう」という意味であると説明する。続けて彼は、ファラオの事例は神への召喚であると述べる。何故なら啓示の典拠がないにも関わらず、人々が彼は邪悪であると確信するのは、それが人類の普遍の魂に根ざしているからであるという。
Fusus の解説者は、以下の通り述べている。すなわち、シェイフはムハンマドの聖なる末裔である。聖なる末裔は啓典の章句を熟知しており、それをもって演繹的な形でものごとの真相にあたる。こうした啓示の典拠の内転などは、表面的には演繹的な解析の手順に類似しており、人々は聖なる末裔を、系統立って論理的な手法をとるムジュタヒドとみなす。そうしたわけである解説者の一人は、イブン・アラビーのファラオ観を「神の命じるところによって行なったがゆえに、それは許されている」と釈明する。その一方であるウレマーなどは、全部にせものだ、ユダヤ人の改ざんだ、などという作り話をでっちあげている。
一般の大衆はシェイフの粗さがしという罠に落ち、アリかスズメバチのように彼の頭のあちこちに群がった。それでいて彼らは、シェイフによる引用ほどに決定的かつ明白な章句を見出せずじまいであった。ファラオは邪悪であるという世評を恃みに、非常にぞんざいな書き散らしをしたのみである。
かのシェイフは、自らの抑えがたい洞察につき動かされるがままに Fusus を執筆した。しかし思弁と類推を用いる学者の一人、博識のジャラール・ダッワーニーはこの主題について独自に小論を書いており、その文中では啓示の章句から、正規の手順を踏んだ類推によってシェイフの主張を証明している。
論争はわれわれの時代に至るまで続いており、ある者は否定し、またある者は受け入れている。討議の結論は以下の通りである。第一に、思弁の体系と浄化の体系の間に区別がなされねばならない。思弁の体系は、知性と伝承の証拠を土台とする類推に基づいている。浄化の体系は、精神的な鍛錬と禁欲的な生活を土台とする洞察と眼識に基づいている。それぞれ、用いる語彙も異なる。一方の体系において、その規則とその用語に基づく問いがなされた際には、その議論中は別の一方の体系における規則と用語にも配慮しなくてはならない。そうすれば論点が混乱したり、証明が覆されたりということを防げるだろう。こうした検証すべてにおける、これこそが口論と論争の根源であり、論戦の発端なのである。
思弁と類推の唱道者たちは、彼ら自身の規則に従い、浄化の唱道者たちを批判し、難癖をつける。後者の体系は思弁と類推ではなく、洞察と眼識に基づいているのである。照明学者の哲学から取り入れられた、彼らの専門用語は非常に独特である。洞察は法的には証拠とはみなされておらず、思弁の実践者の目には何の証明にもならないと映る。しかしそれでも、当の(浄化の)実践者たちにとってはそれは証明なのである。神の聖者たちの洞察と直観(彼らの行為の源泉である)が、彼らの神聖性の証明であることについては、思弁の実践者の唱道者たちでさえ認めるところである。
したがって、浄化の原則に沿って繰り出される主張と議論を論破するのに、思弁の体系の規則を用いるのは不可能である。どのような反証であれ、同一の体系に属する同一の規則と用語を使わねばならない。この件でイブン・アラビーを論破しようと試みる者たちは、揃いも揃って思弁と類推を用いようとする。そのせいで、全て説得力がなく受け入れられないのである。他方では、思弁の体系の規則を用いたジャラールの類推が示す通り、この件についてのシェイフの主張には啓示の章句の確証がある。
こうして水準を異にする二つの探求があると知れた今、この問題についてこれ以上の口論に及ぶ者があるなら、それは馬鹿ものではなかろうか?神の造りたまいしものへの、神の慈悲を押しとどめようとでもいうのか?ファラオが信仰者だったとして、それで何の害があろうか?ファラオが不信仰者だったとして、それで何の得があろうか?もしもユダヤ人が後者の論を固持するというのなら、なるほど確かに彼らにはそうする権利がある。復讐だ、祖先がファラオの手による大いなる過ちに苦しめられたのだから。しかしその他の信仰を持つ人々が、どんな理由あってその尻馬に乗る必要があるだろうか?
さて、学生たちに教育を授ける責任を持つ者たちにとり、最上の道は以下の通りである。もしも彼らがファラオを信仰者と呼ばないにしても、信仰者と呼ぶ者たちを非難させてはならない、特にかのシェイフを非難させてはならない。彼らに、中庸の道を放棄させてはならない。
1. アーベリー著 Sufism pp. 97-104, ならびに第10章も参照。
2. Kashf al-zunun (Istanbul, 1941), Vol. I, column 413に収録されている、スーフィズムについての著者の記述とも比較。「それは〈真理についての知識〉とも呼ばれている。それは〈道〉、すなわち魂から悪しき性質を一掃し、心を卑しい欲望から浄化することについての知識である。〈真理についての知識〉なくしては、〈聖法についての知識〉は何の働きもなさない。また〈聖法についての知識〉なくしては、〈真理についての知識〉は虚飾に終わる」。