『聖地の民間伝承:ムスリム、クリスチャン、ユダヤ』
著 J. E. ハナウアー
I-I. 知識あるムスリムが語る天地創造のあらまし
アッラーが最初にお造りになったものというのが、摩訶不思議な運命の碑板であったことを、まずは知っておかねばならぬ。この碑板には、過去に起きた出来事や、現在や未来に起きる出来事について書かれている。それだけではない、生まれてくるすべての人間についても書かれている。その人が幸せになるのか、あるいは不幸に見舞われるのか。現世では金持ちになるのか、それとも貧乏になるのか。それから、その人がほんとうの信仰者になって来世では楽園を受け継ぐことになるのか、はたまたカーフィルとなってジェヘンヌムに行くことになるのか等々。運命の碑板は限りなく大きな真珠でできており、ちょうど両開きと同じような二枚の扉がついている。ある学者たちが言うにはこの扉、並ぶものなき大きさと美しさのルビーでできているという話だが、しかし彼らが真実を語っているのかどうか、それはアッラーのみがご存じのこと。
アッラーはその次に、ひと塊の宝石から大きな筆をお造りになった。筆はたいそう長く、一方の端からもう一方まで旅をすればゆうに五百年はかかる。一方の端はいわゆる筆らしく、割れ目があってとがっている。そしてふつうの筆からインクが流れ出るように、あるいは泉から水があふれ出すように、この筆の筆先からは光があふれ出る。それからアッラーの一言、「書け」のお声がとどろくと、それを聞いた筆にはすっかり命と知性が宿り、震え上がって大急ぎで碑版に向かい、右から左へ筆先を走らせ、かつての出来事、そののちの出来事、そしてこれから復活の日までの出来事を書き記しはじめた。碑版がすっかり文字でいっぱいになり、筆も乾くと、碑版と筆は片づけられ、アッラーの宝物蔵に保管された。何が書かれているのか、それはアッラーのみがご存じのこと。
その次にアッラーがお造りになったのは水で、それから天界と地球と同じ寸法の、並はずれて大きな白い真珠をお造りになった。真珠が形づくられるや否や、アッラーがそれに話しかけると、雷鳴のようなそのお声に真珠は震えて溶け、先に造ってあった水と出会って太洋となり、深いくぼみは更に深く、高い波はさらに高くなった。それからアッラーが再び命令すると、すべてはたちまち鎮まった –– 純粋そのままの水が、大波も、さざ波も、泡ひとつ浮かべることなく静かに大きく広がっていた。
それからアッラーは、ご自分の玉座をお造りになった。座りどころは二つの大きな宝石でできており、アッラーはこれを水面の上に浮かべた。
しかしこれには異論もあって、玉座が造られたのは水と天界と地球よりも先のことだ、と主張する者たちもいる。彼らは、人間の大工なら先に建物の土台を用意して、それから屋根をその上に載せるところだが、アッラーの場合はご自分の全能の威力を示すため、最初に屋根、つまりご自分の玉座をお造りになったのだと言う。
その次に造られたのは風で、アッラーはこれに翼をお与えになった。いったいいくつの風があるのか、また大気がどれくらい遠くまで広がっているのか、それはアッラーのみがご存じのこと。アッラーは風に、水が玉座を支えるのと同じ方法で、水を運ぶようにとお命じになった。
その後でアッラーは、玉座のまわりを輪になってとぐろを巻く大きな蛇をお造りになった。この蛇、頭は大きな白い真珠、体は黄金、両目は二つのサファイヤでできている。この蛇がどれほど大きいものか、それはアッラーのみが知りたもう。
さてこれで、玉座は威力と偉大さを示す玉座となり、栄光と威厳の座すところとなった。アッラーは、これを必要としておられたわけではない。ただ大いなる永遠からそこにおられたご自分の、偉大さと栄光を示すのにふさわしかろうとお造りになったのである。
それからアッラーは、海を打ちたたくよう風にお命じになった。すると大きな泡の波が巻き起こり、霧としぶきが上がった。アッラーのご命令により、泡は水上の表面に浮かぶ堅い大地となり、霧としぶきは雲になった。これらすべてを行うのに、アッラーは二日の時間をかけたもう。そののちに、波はめくれ上がって固まり山々になった。大地がふわふわと浮いて流れてしまわぬよう、しっかりと守るためである。山々の土台はすべて大いなるカーフ1とつながっている。それはかまどの天板のような、縁を高くした円い盆の形をしており、中身が宇宙に落ちてしまわないよう世界を取り囲んでいる。
その次にアッラーは、大地の表面に残っていた水が中心を同じくする七つの大海になるよう多くの大陸で区切りながら、それでも岬や湾、海峡でつながるようにし、それから数えきれないほど沢山のさまざまな種類の生きもので満たし、彼らが生きていくための滋養もたっぷりとお与えになった。
同様に、それぞれ気候や環境の異なる七つの大陸も、その場に見合った植物や動物でいっぱいに満ちた。アッラーは更に二日の時間をかけて、これらをきちんと整えたもう。
さて、大地がまるで海の上の船のように揺れに揺れたものだから、生きものたちはみなとても具合が悪くなってしまった。そこでアッラーは力持ちの天使に、行って大地を下から支えるようにとお命じになった。天使は言われた通りにし、一方の腕を東に、もう一方は西に伸ばして世界を守った。それから、何か天使が立っていられる台があるのがよかろうと、アッラーは緑色をしたエメラルドの巨大な岩をお造りになり、天使の足許にもぐり込んで支えるようお命じになった。それから今度は、岩の土台が何もないというので大きな雄牛が造られ、行って岩を下から支えるようにと命じられた。ある者は、岩は雄牛の角の上だと言うし、またある者は背中の上だと言う。角の上だと言う者は、地震というのは雄牛が頭を動かして、岩を一方の角からもう一方の角の上に移すときに起こるものなのだ、と説明する。雄牛の目は燃えるような赤い色をしており、覗き込んだ者は目がつぶれて見えなくなってしまうほどだという。雄牛はベヘモスの名で呼ばれており、巨大な鯨の背中の上に乗っている。そして鯨は、アッラーがそのためにお造りになった大海を悠々と泳いでいる。
大海の底とその周囲、それに世界を取り巻いているのは大気である。これは定められた季節に従って動く太陽、月、星々の光を大地に届けるためにのみ造られており、それ以外のときは暗闇で休んでいる。
ときどき、日食や月食が起こることがあるが、どちらの場合も理由はしごく単純である。月が満月になると、その光が鯨の泳いでいる大海に降り注ぐ。するとそれを見て、あの海獣ときたら口を開けて月をくわえこんでしまうのだ。アッラーのお許しさえあれば、あやつはそのまま月を丸のみにしてしまうに違いない。しかし<ひとつ>なる神をあがめ奉ずる者たちが、盛大に声高く哀悼して祈りをささげるならば、たちまちにしてあやつは餌食にしかけた月を逃がす他はなすすべもない。日食の理由はこれとは異なる。それはアッラーの厳粛なる御しるしであり、罪に対する警告である。神の友イブラーヒーム –– 彼の上に祈りと平安あれ –– の教えに耳傾けるよう、人々に知らしめるために起きたのが、これまでで最初の日蝕である。二度めは、マルヤムの子イーサー –– 彼の上に平安あれ ––の教えを広めるために起きた。その後のわれわれの時代には、この驚異は立て続けに起こるようになり、それはすべての人々が、アッラーのみ使い –– 彼の上に祈りと平安あれ –– の教えを心に刻むようになるまで続く。2
そうしたわけで、すでに説明した通り世界は天使の肩の上に、天使は巨大なエメラルドの岩の上に、岩は雄牛の角か、あるいは背中の上に、雄牛は大鯨の上に、大鯨、または竜は宙に高く掲げられた大海を泳ぎ、その周りを闇が取り囲んでいる。そして天体は、定められた季節になると闇を通して光り輝いてみえる。闇の向こう側に何があるのか、それを知るはアッラーのみ!
「こうした数々の驚くべき不思議は、いったいどのようにして人々の知るところとなり、また受け入れられるようになったのか」とお尋ねなさるか。では答えよう。こうして世界をお造りになったのちに、アッラーは生きものの中に理性と知性を呼び覚ましたもうた。それから知性に「知識を得よ」と命じたもうた。すると心はそれに従った。それから「物事をとりしきる力を受け取れ」とお命じになり、心はこれにも従った。それからアッラーは告げたもう、「われがわが栄光と威力により造ったものの中で、われが愛しているのは汝の他に何ひとつない。汝がためにわれは奪い、汝がためにわれは授ける。汝がためにわれは確かめ、汝がためにわれは罰する」。そうしたわけでアッラーは、その預言者 –– 彼の上に祈りと平安あれ –– の口を通じてこうも告げておられる。「賢い者とは、正直で、感情に流されず忍耐づよい者のことである。そして人間を悪から救うのは、その知性である」。それゆえ知性に対しては、アッラーは楽園の入り口を開き、あらゆる不思議を解明するのを許しておられる。そして復活の日、アッラーは賢き者を罰することはないが、同様に、口先だけでものを言い、その舌をもって嘘をつき、自分たちには関わりのない物事にくちばしを挟みたがり、自分たちにはとうてい理解が及ばぬ問題について問いを発したがる無知な者には罰を与えたもう –– たとえ彼らが、読み書きを身につけていようとも。
原注1. カフカス、コーカサス。
原注2. これ以外にも、太陽と月は婚姻をかわした夫婦で、月に一度の新月のとき、つまり月が見えなくなるときは夫婦で過ごしているのだという話も伝えられている。
附記:この章にはアラブのハーティブ(金曜礼拝などで説教を行なう地位にある者)の口から直接に語られた言葉を記したが、実際のところ、これは “Mejr-ed-din” 第1巻1章の内容と一致している。
「玉座のまわりを輪になってとぐろを巻く大きな蛇」
この大きな蛇というイデアは、スカンジナビア神話に登場するミズガルズの大蛇にも類似するものがある。
「雄牛」「巨大な鯨」
これの源泉は明らかにタルムードにある。以下、ラビ・ユダによるババ・バトラ(Bava Bathra fol.74, col.2)参照:「神は世界のすべてを男と女に造った。同様に神は、さし貫く蛇レヴィアタンを造った。そしてこの邪悪な蛇レヴィアタンをも、主は男と女に造った。しかし彼らが交われば、世界のすべてを滅ぼしてしまうだろう。では聖なる主はどうしたか?主は男のレヴィアタンから力を奪い、女のレヴィアタンを殺して正しき者のために塩漬けにしておいた。(「正しき者」とは、のちに来たるべき者を指す。イザヤ書27章1節「その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される」参照。)千の山の巨獣ベヘモスについても同様に、主は男と女に造った。しかし彼らが交われば、世界のすべてを滅ぼしてしまうだろう。では聖なる主はどうしたか?主は男のベヘモスから力を奪い、女のベヘモスは仔を産めなくした。そして女のベヘモスは、正しき者のために封印しておいた」。正しき者たちが楽園に入る際の祝宴の席では、巨大な牛や巨大な魚の肉がふるまわれるという話は、ムスリムたちにも同じように信ぜられている。
ラビたちによる著作には、これと似たような巨大な牛や巨大な魚、もしくは海竜の登場する記述が数多く登場する。
「月食」
1903年10月6日、われわれ一行は、有名なモアブのメシェッタ宮殿で露営して一夜を明かす幸運にめぐまれた。これ以上はないというほどに美しく、また孤絶した環境の中で太陽が沈み、月食が始まった。これを上回るものはとうてい想像もつかないほどのすばらしい光景だった。ヨーロッパ生活も長く、ふだんは冷静沈着なアラブの使用人たちさえもがこれには感動をおぼえたようで、驚きと感嘆、そしておそらくは恐怖のために、彼らどうしで一カ所に集まっていた。私たちと同行していた婦人の一人が、彼らが雄鶏を鶏かごから出して鞭で打っているのを見て抗議しに行った……彼らが言うには、「(雄鶏が)騒ぐからだ」とのことだった。雄鶏もこの現象に驚いて鳴いていたのだ。
その時の様子について、以下の記述がある。「よく知らない者たちであれば、家屋に閉じこもって雄鶏をしめ、太鼓を打ち鳴らす。……彼らはこれ(太陽と月が拮抗するパジェント)を恐れているのである」。するとユティング教授が、「黎明のスーラ(コーラン113章)」を暗唱したが、これはこの場をおさめるのにふさわしいふるまいであったらしい。男たちは満足感を示し、雄鶏は無事に、鶏かごの中で彼を待つ家族のもとへ返された。(Dr Spoer’s “Notes on Bloody Sacrifices in Palestine,” vol. xxv. pp. 312 ff. of Journal of the American Oriental Society, 1906, and page 104 of vol. xxvii. 1906)