書道の歴史における最も重要な出来事は、東方のイスラム地域において起こった。多様な書体の中から特に選び抜かれた六種類が、いわば「列聖化」されたのである。この六種類の書体を、正しくは「六筆」と呼ぶ(アラビア語でal-aqlam al-sitta, ペルシャ語でshash qalam)。
「六筆」は、マジャスキュールに相当する書体一つに対して、それに対応するミナスキュールの書体一つ、計三組からなっている。マジャスキュールとミナスキュールの組み合わせは以下の通り。
(1) Thuluth – Naskh (スルス – ナスフ)
(2) Muhaqqaq – Rayhani (ムハッカク – ライハーン、ライハーニー)
(3) Tawqi’ – Riqa’ (タウキーウ – リカーウ)
「六筆」は、いずれも丸みを帯びた曲線的な書体である。「六筆」が成立したのちは、「書」と言えばこの曲線的な書体が、それまでの直線的な書体に代わってその地位を占めるようになる。そしてそれまでの主流であった直線的な書体は、表紙絵や、章の冒頭を飾る口絵といったオーナメント的な役割に退くことになった。
「六筆」は、書体としてのそれぞれの差異はごくわずかである。タウキーウ – リカーウの一組は、文字と文字のつなぎ方について、若干その他の書体とは区別して考える必要があると思われる。しかし全体としては、お互いを個別の書体として完全に切り離されるほどの、特徴的な違いはほとんど存在しない。
最も曲線的な線形を有するのは、スルス – ナスフ群に属する書体である。
nun( ن )の文字の下垂部に相当する部分のまるみや深さ、sin( س )やsad( ص )の曲線の連続性(これは大きくも、また小さくも書いてよいことになっている)などが特徴的である。alif( ا )の文字はベースラインに向かってまっすぐに引かれ、同時に、下へゆくごとに徐々に細くなってゆく。
ムハッカクは、ベースライン以下に生じる空間の幅を狭く取るところに特徴がある。
lam( ل )、nun( ن )といった下垂部を持つ文字の、ベースライン以下に書かれるカーブは非常に浅い。
ra( ر )、waw( و )などの文字は、おおむね下へ向かう直線的な「はらい」をもって書かれる。他の書体のような、再び上へ向かって筆を運ぶことによって生じるカーブは持たない。語頭のalif( ا )、 lam( ل )の書き始めには、棘または鉤のような飾りが添えられる(アラビア語でirsalと呼ばれる)。ムハッカクは、例えばイルハン朝のスルタン・オルジェイトゥが遺贈したような、三十等分に分割(ジュズウと呼ばれる)した大判のコーラン写本を製作するのに用いられるほぼ唯一の書体となった(後述)。
タウキーは、語尾のnun( ن )が特徴的である。これはしばしば、ra( ر )との見分けがつきにくい。
alif-lam( ال )の続き文字におけるalif( ا )は、lam( ل )へと連なる小さな水平状のストロークとして書かれる。語頭のha-a( ها )は波状線に変形される。その他にもalif( ا )からdal( ر ), ra( ر )からJim( ج )などの文字間に、オーソドックスな方法から外れた接続線のヴァリエーションが無数に存在する。
ナスフは、一般書から小ぶりなサイズのコーランにいたるまで、およそ写本という写本の基本書体となった。ナスフのマジャスキュールに相当するスルスは、主にコーランの章見出しなどに用いられる。
スルスはそれ以前の直線的な書体に代って、建築におけるカリグラフィー装飾の中でも特にタイルなど、曲線的な書体でも簡単に施せる素材を通して頻繁に使用されるようになった。
ナスフとスルスは、現代タイポグラフィの原型にもなっている。一般の読者には最もなじみの深い、そして読みやすい書体である。
「コーラン」写本の一葉。上から順に:黒字のムハッカクで書かれた見出し、ナスフで書かれた本文、中央の装飾的な金文字のスルス。下部のイルミネーション内には、クーフィーがあしらわれている。
これよりもさらに流線的なタウキーウ – リカーウは、公的な文書を作成するために開発された書体である。一般には写本の奥付であったり、石膏を刻んだ装飾的カリグラフィなどに用いられる場合が多い。
伝統的には、最初に登場した曲線的な書体はムハッカクであったとされている。
十世紀初頭、アッバース朝カリフの高官をつとめていたイブン・ムクラが、菱形の「点」および円形を用いて計測し、書法を定義した最初の書体はムハッカクだった。彼の定義の仕方は、ローマ文字における幾何学的な定義ほどには厳格なものではない。しかし彼の提唱する、筆先ひとつ分のストロークによって書かれる菱形の「点(nuqta)」を用いての文字の計測は、文字のプロポーションを確立するのに大いに役立った。
例えばムハッカクにおけるalif( ا )の高さは、ヌクタにして8個分に相当する。同じalif( ا )でも、スルスでは7個、タウキーウでは6個である。文字の下垂部を水平に引き伸ばす場合、その曲線は、ムハッカクでは最長で7個、スルスでは6個が望ましい。こうしたプロポーションを与えられることによりムハッカクは、スルスよりもすらりとした細身の印象を与える書体となった。
イブン・ムクラはこれ以外にも、スルスとナスフの書法を定義したとして知られているが、彼自身のカリグラフィー作品は現存していない。彼の書を知るには、彼に師事したその後の書家たちの書を見る他はない。
イブン・ムクラによって最初に確立された書法の諸規則は、イブン・アル=バゥワーブによって更に洗練されてゆく。いわゆる「al-khatt al-mansub(均整のとれた書)」製作の追求である。しかしal-khatt al-mansubと言ったとき、一般にそれは単に「きれいな文字」という意味であったため、その解釈は幅広く変化していった。
イブン・アル=バゥワーブは生涯に多くのコーラン写本を作成したが、現存するのはチェスター・ビーティ図書館が所蔵する、バグダード版と呼ばれる小型の写本のみである。
この写本はごく標準的な、線を太めに保ったナスフで書かれている。文字と文字、単語と単語の間や行間は互いに密接し合っているが、しかし読みやすさは損なわれていない。また行は均等な幅のまま、上下にずれることなく平行しており、細心の注意を払われているのが伺える。それでいて、ガイドラインを使用した下書の形跡はまったく残されていない。章ごとの見出しや節ごとの目印、また余白部分や表紙、背表紙に、金と黒、または青と白といった抑制的な色使いの幾何学柄と草花文様があしらわれており、これも書そのものと同様、注目に値する。
書法は、十三世紀の書の巨匠ヤークート・アル=ムスタアスィミーによって完成する。彼はそれまでの、筆に対して垂直に切られたたいらかな筆先に代えて、斜めに切り落とした筆先を開発して使用した。
筆先が変化することにより、以前よりもさらに流麗な線が書かれるようになった。この一件をもって彼は「スルタン」、「注視の的」、あるいは書家の「キブラ」といった称号を得ることになる。
彼は一カ月に二冊のコーランを書写したと伝えられているが、実際に彼の手による本物の写本はごくわずかしか現存していない。
のちの書家や蒐集家たちは、彼の書を貴重品として扱うようになった。彼の筆とされる書のいくつかは、オスマン朝やサファヴィー朝下においてイルミネーションと呼ばれる見事な装飾枠を加えられ、新たな付加価値を持つ芸術品として生まれ変わっていった。
さて、こうした小型のコーラン写本の特色に、サイズに比してレイアウトが広く感じられるという点がある。要因のひとつとして、ライハーニーのもつ繊細さが挙げられるだろう。文字の下垂部のカーブの、浅いながらもその幅の広さが、隣接した文字と文字との一体感を生じさせている。
以上のような書家たちは、それまでの匿名の伝統からすれば全くの例外であった。イスラムの発祥以来、初期の時代における書家の名はほとんど知られていない。彼らが作品に署名するなど、ほぼあり得ないことだったのである。しかしながら十四世紀には、書家たちはこぞって自らの書に署名するようになる。書家たちとその作品は、曖昧模糊とした無名の「職人芸」から抜け出し、文学や史学の資料の中に記録されてゆくようになった。
十四世紀の書道界を支配したのは、ヤクートを師として学んだ弟子たちである。中でもナスルッラー・アッ=タビーブ(ムタタッビブ)、「シェイフザーデ」と呼ばれたアフマド・アル=スフラワルディー、アルギュン・イブン・アブドゥッラー・アル=カーミル、ムバーラクシャー・イブン・クトゥブ・タブリーズィー、ハイダル、そしてユースフ・マシュハディの六人は、「六書家」と呼ばれて大いに尊敬を集めた。
「六書家」は、彼らの手による見事なコーラン写本によってその名を知られている。例えばアフマド・アル=スフラワルディーの名を最もよく知らしめたのは、バグダードで製作された全三十巻揃いの大型のコーラン写本である(現在、チェスター・ビーティ図書館、トプカプ宮殿博物館、メトロポリタン美術館、テヘラン国立考古博物館に分散・所蔵されている)。
思わず息をのむようなこの写本は、おそらく王侯の後援によって製作されたものと考えられている。本文はページあたり五行の、堂々たるムハッカク体で書かれており、紙の色染みも最小限に食いとどめられた良好な状態である。一行づつが、それぞれに完結した美的な視覚バランスを主張し、なおかつあくまでも部分としてページ全体を成立させている。イルハン朝への献上品として製作されたコーランの中でも、最も優れた作品でありながら署名はない。しかし書に見られる特徴的な性質からアフマドの作と考えられており、スルタン領のオルジェイトゥ廟に納められた逸品である。これ以外にも彼の奥ゆかしさを知る一例として、ナスフで書かれた無署名のコーラン写本が残されている。
ムバーラクシャー・イブン・クトゥブは、ナスフで書かれた一冊の小型のコーラン写本によってその名が知られるようになった。コーラン本文は黒字で書かれ、そのペルシャ語注解が赤字で添えられている。
アルギュン・アル=カーミルはライハーニーの最も優れた書家として知られており、中型サイズのコーラン写本二冊にその署名が残されている(一冊は、トプカプ宮殿博物館に所蔵されている)。
こうした書家たちは、紙に書くばかりではなく、石碑その他の銘刻の下書きをすることもあった。例えばkanda-navis(巨大に書く者/文字を刻む者)と呼ばれたハイダルは、イランのナタンズ、イスファハーンなどに今も残されているスタッコ装飾を手がけたことでも有名である。
「六書家」による書の手本は、熱心な蒐集の対象となった。とりわけティムールの王子であり愛書家でもあったバイスングルは、彼らの作品を一冊にまとめた、知られる限り最古のカリグラフィ・アルバムを作成している。
「六書家」は、彼らの築いた伝統をイランの弟子たちに託した。その一人、ヤフヤ・アル=スーフィーはナスフのコーラン写本や、それよりも大型のライハーニーで書かれた写本などで知られる。
アブドゥッラー・サイラーフィーはハイダルの弟子であったが、師と同じく建築装飾を手がけ、エナメルでつや出しされたタイルのデザインなどを行なった。彼は「ヤークートの再来」とも呼ばれ、書法に関する小論を残している。
ウマル・アクタ(直訳すると「片腕」の意)は、珍しく左利きの書家である。彼はグバル(ghubar, 「塵」の意)と呼ばれる、非常に小さな書体で書いたコーランをティムールに献上したと伝えられている。
ティムールはこれを見てあまりにも小さ過ぎると考え、受け取るのを拒んだ。するとウマルは、更に別の写本を書いた。今度は一行が少なくとも一キュビットにはなろうかという巨大さで、これを書き終えると彼は彩色を施し、製本した上で手押し車に積み、再びティムールの宮殿を訪れ、めでたくスルタンのお抱えとなった。
十三世紀、モンゴルによるイラク侵攻ののち、アラブ=イスラム文化の中心地となったシリアとエジプトでは、ヤークートの弟子たちがマムルーク朝のスルタンの後援を得て全盛期を迎えていた。マムルーク朝のスルタンたちは、彼らのワクフ(慈善目的の一種の基金)のために、ムハッカクで書かれた大判のコーラン写本を何冊でも注文したのである。
一方のイランでも、非常に高い品質の書が次々と製作されていた。しかしその書家たちの名は、ほとんど知られていない。そうした中でシャラーフッディーン・ムハンマド・イブン・シャラーフ・イブン・ユースフ、通称イブン・アル=ワーヒドは、数少ない例外であると言える。彼はバグダードでヤークートに師事し、全ての書体を会得した。それから彼はカイロに赴き、バイバルス・アル=ジャシャーンキルに仕えるようになる。彼は全七巻の、金文字のスルスを黒で縁取りした、ユニークなコーラン写本を作成した。
その後ヤークートの伝統は、ライハーニーの素晴らしい書き手として知られるムバーラクシャー・イブン・アフマド・アル=ディマシュキー・アル=スユーティーに受け継がれてゆく。
マムルーク朝下のコーラン写本のうち、最も優れているのはシャアバーン二世とその母の後援によって製作されたものであろう。ムハッカク体で書かれた巨大な写本は、書も装飾も極めて質の高いものである。しかし何よりも驚くべきは、これを書いた人物が署名を入れず、無名の一職人であることを選んだ点であろう。
出典と参考
Grove Encyclopedia of Islamic Art and Architecture
The Splendor of Islamic Calligraphy
Calligraphy and Islamic Culture
……ヤークートはイブン・ムクラやイブン・バウワーブを模範にし、「六書体」をさらに改良した。それまで平らであったペン先を斜めに削って文字を書く手法を始めた人物でもある。またライハーン体に優れ、毎月二冊の写本を書写したという。彼の署名のある写本は数多くあるが、大半は贋作だと考えられている。