『直観』
著 アフマド・ガッザーリー
訳と解説 ナスロッラー・プールジャヴァディ
其の四. 非難について
(1) 愛を完成させるのは非難 malamat であり、それには三つの側面がある、ひとつは創造された世界に向けられ、またひとつは愛する者に向けられ、そして残るひとつは最愛の者に向けられる。創造された世界に向けられる一面とは、最愛の者による嫉妬 ghayrat の剣である。これは、愛する者が最愛の者以外に注意を払わないように仕向ける。愛する者に向けられる一面とは、時による嫉妬の剣である。これは、彼が自分自身に注意を払わないように仕向ける。最後に、最愛の者に向けられる一面とは、愛による嫉妬の剣である。これは、彼が愛以外の何にも滋養を求めないよう、また彼が欲望に囚われないよう、何かしらを(愛の本質の)外殻に探し求めないように仕向ける。
この世に求めるものはない、あなたの愛を除けば
あなたとの和合も別離も、私にとっては同じこと
あなたの愛がなければ、私はそもそも存在しない
お好きな方を選んで下さい –– 和合か、別離か!
(2) これら三つ(の側面)は、(愛する者の)注意を「その他(愛以外、時には最愛の者すらここに含まれる)」から断ち切る嫉妬の剣である。この過程は、時として愛する者のみならず最愛の者をも「その他 ghayr 」として機能させるところまで行き着く場合がある。これこそが愛の輝きの威力である。何故ならこの完全なる状態においては、愛の滋養は和合 ittihad から来ており、また和合においては、愛する者と最愛の者の別離が入り込む余地がないからである。
(3) 融和 wisal を「一緒になる」ことと理解し、この状態をもって自らを養う者は、愛の本当の真実性を知らない。
もしも私が、あなたの助けを求めて泣いたりしたなら
私は不誠実のそしりを受けるだろう、
あなたに恋しているなどという資格もないだろう
和合か、あるいは別離か
あなたはどちらかを選べと強いるかもしれない
そのどちらも、私には触れることも出来ない ––
私には、あなたの愛さえあれば十分なのだから1
愛は別離と和合のいずれをも撃滅するものでなければならない。和合の真実性が愛の収獲にある限り、別離の可能性は取り除かれる。2そしてこれは、誰しもが理解することではない。(愛との)和合が(自我との)別離である限り、(この意味における)別離とは和合に他ならないのである。従って、ある者が自我と別離したならば、それは和合と同じことである。この段階においては、食物とは「食物の欠乏」であり、存在は非存在であり、達成は非達成であり、分け前に預かることは分け前を持たないことである。3
(4) さて、誰もが皆この階梯へと至る道を(知識によって)見つけだせるというわけではない。何故なら、その出発点はあらゆる終着点を超越したところに位置するからである。その終着点が、どうして知識の領域に収まりきるだろうか?どうして想像力 wahm の荒野に見いだせるだろうか?この真実性は、貝に隠された真珠である。そして貝は海の底深くに隠されているのだ。知識がたどり着けるのはせいぜい海岸止まりである。どうして、海の底にたどり着けようか?
(5) とは言うものの、知識が一たび溺れきってしまえば、確信は信念 guman に変化する。知識と確信から、隠されていた信念が立ちあらわれる。「私は信じます」6という欺瞞の外衣を身にまとい、この真理5へと至る高潔な門扉をくぐり抜けようというのである。こうした振舞いについて、(以下のコーランの章句に)暗示されている –– 「『何故か。汝は信じていないのか』。『はい』と、彼(アブラハム)は答えた。『しかし……』。」7また、これについては(預言者の)言葉によっても示されている。「われ(神)はわがしもべの信仰と共に在る。それゆえ彼らは、彼らが望むとおりのわれへの信仰を持つだろう」。(また、このようにも言われている。)「こうしてしもべが信仰と結びつき、信仰は主と結びつく。」その信仰とは、海の潜り手である。潜り手は、真珠を掌中におさめるかも知れない。あるいは、真珠が潜り手を掌中におさめる –– そう言うべきなのかも知れない。
(6) 創造された世界に対する非難の目的とは、何かを観察したり、何かを欲したり、あるいは何かに繋がったり、それがどのような方法であっても、外界へと意識を向けることは –– たとえそれが髪の毛一筋ほどの微細さであったとしても –– 全て恋人の内面的現実から切り捨てられねばならないからである。彼の戦利品が彼の内面に生じるのと同じように、彼の避難場所もまた彼の内面に生じるべきである。(この階梯について、恋人は最愛の者に対し以下のように語るだろう。)「私は汝の裡に汝からの避難を乞う。」8彼の満腹、彼の飢餓は、いずれもそこからやってくるのである。(預言者が言った通り、)「ある日の私は満ち足りている。また別の日には飢えている。」(いずれの場合においても、この非難によって)恋人は外界とは無縁たりえる。
ここは非難の地、忘却の戦場
全てを失った賭博師の歩む道
あれは勇者か、カランダルか9
この地を越えんと欲するなら
引き裂かれた衣を身にまとい
恐れ知らずのアイヤールたれ10
熱情を傾けて自らの仕事に打ち込むには、最愛の者以外の全てに背を向けなくてはならない。そして達成までの間、課された仕事は恐れることなく引き受けなくてはならない。
構うものか、好きなように私に中傷するがいい
美しく賢いひと、あなたさえいれば私は満足だ
愛の裡に孤高を保て、世間など気にも留めるな
世間よ、塵に埋もれてしまえ
愛する者さえいればそれで十分だ11
(7) それから、(恋人が創造された世界と離別した後で)再び最愛の者12による嫉妬の威力が姿を現す。非難が、潔白 salamat に向かって叫び声をあげる。そして恋人に、自分自身から遠ざかるよう説き伏せる。彼は自分自身を非難し咎めるようになる。これが、かつて強く訴えられたかの階梯である。「われらが主よ、私たちは(自分自身に対して)過ちを犯しました。」13
(8) それから、(恋人が利己心をすっかり放棄した後で)再び愛の嫉妬が輝きを放つ。そして恋人の顔を、最愛の者から逸らさせる。何故なら、彼が自分自身との再会を求めた動機とは、最愛の者に対する彼の欲望だったからである。今や彼の欲望は燃え尽きた –– (欲するのは)創造された世界でもなく、自我でもなく、最愛の者でもない。完全なる別離 tajrid が、愛の特異性 tafrid の上にきらめく。(絶対の)統一 tawhid はこれ14にのみ属し、またそれは合一に属している。(愛を除いて)他には何もここに入り込む余地はない。それがそれとある限り、それはその上に存続し、そこから食べるのである。15この視点からは、愛する者も愛される者も「他者」であり、等しく異邦人である。
(9) この階梯は知識の限界と暗喩による表現 ‘ibarat を超越している。しかしながら、直観知 ma’rifat による暗喩であれば指し示すことができるだろう。境界を巧妙に構築する知識と異なり、直観知は境界を破滅に導く。ここでは、愛の海から押し寄せる波が自らの上で砕け散り、また自らへと帰ってゆく。
おお、月よ 昇りて輝く汝よ、
自らの天空の中を巡りめぐる者よ
ある時、自らが魂と共に朔の中にいると知り
たちまち降り来たりて 姿を隠せし者よ
(10) それは太陽であると同時に天であり、空であると同時に大地である。それは愛する者であり、愛される者であり、また同時に愛でもある。愛する者も愛される者も、共に愛より生じている。導き出され、たまたま存在し、そして消滅してゆく –– 全ては、真実在の一性に帰るのである。
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