2リットル入る水差しがあって、今まではこれに紅茶パックを入れて熱湯を注いで1日のお茶としていたのですが最近おみやげにほうじ茶のおっきい袋を立て続けにいただく機会があって。それで紅茶からほうじ茶にしてみたんです。ほうじ茶おいしいのな。
朝起きたら水飲んだりほうじ茶飲んだりコーヒー飲んだりするんですけど、これに何かちょっと足して遊んでいます。水にはレモン垂らします。業スーで買ってきた1リットル入りのレモン果汁を使っています。ほうじ茶にもレモン垂らします。紅茶にレモン垂らすよりおいしい気がします。コーヒーにレモンは垂らさないが、スパイスを振ったりします。カルダモンあたりは定番だが、このごろのお気に入りはターメリックです。コーヒーを注ぐ前に、カップの底に振っておくのがコツです。ここにさらにマシュマロを浮かべると、布団との別離に嘆き悲しむ心がなぐさまります。
先週は『真理の天秤』でご一緒した山本直輝氏のお話会にお邪魔してきました。コンパクトな会議室に若い衆が行儀よくおさまってました。会が終わって興奮冷めやらぬといったていでぞろぞろと建物の下まで来たところで「えっこんなにたくさん詰まってたの」ってちょっとびっくりしました。
今週は東京外国語大学のTUFSCinemaアラブ映画特集『フェミニスト・インシャッラー:アラブ・フェミニズムの歴史を語る』にお出かけしました。
この『Feminists Insha’Allah!』、一言で言えばアラブ世界におけるフェミニズムの歴史的展開を掘り起こす一作、ということになるんでしょうか。宗教、国家、ジェンダー、そして植民地主義の交錯点を、女性たちの声で綴っているのですが、これでもかというくらいに具沢山でありつつコンパクトによくまとまっています。とはいえ補助線として配布された年表等の資料に助けられたところ大です。
印象に残っているのは主に2点で、ドキュメンタリーの冒頭で取り上げられたカースィム・アミーン(1863-1908)の著書がこのイベントのパネラーの一人でもある岡崎 弘樹氏と司会の後藤 絵美氏により昨年末に『アラブの女性解放論』という邦題で出版されていたんですね。これは本当にすばらしいことで、ちょっとでもなく偏りがちなイスラーム理解に古くて新しい「イスラーム知」を注ぐ訳業だと思いましたよ。カースィム・アミーンさんという人は、オスマン帝国後期〜エジプト知識人層の中でももっとも「近代」や「改革」に大胆に接近した人物のひとりとされると思うんですが、彼のそれは西洋の模倣ではなくてイスラーム内部からの再解釈・再構築であって、かつそれまでの「伝統」に依拠・接続した人物による試みである、ということがたいへんに重要だと思うんです。読もうではないか。
にしてもウニベルシタス叢書がなんかずいぶんおしゃれになってますね。やってんな。
もう1点はアミナさん(Amina Sboui, 現Amina Tyler)ですね。興味のある方は各々検索するなりすればいいと思うんですが、いややっぱ検索しないでほしいかな、10年ちょっと前にトップレスになって肌に「私の体は私のもの」と書いてFBに投稿したチュニジア人女性です。それが大々的に報道されてるのをリアルタイムで見ていた古老としては、あれは非常にこう、衝撃的というより悲しいきもちになったのをよくおぼえています。当時彼女はまだ18歳だったんですよね。わたしからすれば子どもですよ。なんというか彼女には彼女の主張したいことを主張したり表現したいことを表現する権利があるとわたしは信じてますが、それにしてもほとんど児童ポルノのようなもの(それを取り巻く報道等を含めて)を見せられたきもちでした。彼女は無責任な大人たちの犠牲者だとわたしは思っているんですが、しかしそのように言えば言ったで、彼女の主体性を無視するのかとか言いだす人が世の中にはたくさんいるでしょう。でも言いますけど。18歳ですよ。〈権利〉と〈脆弱性〉のあいだの痛ましさというものがあるんだよ。当時のFEMENやメディアが彼女に与えた〈自由〉は、彼女の「主体性」を尊重するふりをしつつ、実は「象徴」として消費するものであったと思う。繰り広げられる言論は結局「誰が女性を支配する権利を持っているか」というものでしかなく、アミナさんという個人の人格は置き去りにされるという。
上映後、短い時間ではあったけれどもパネリスト4名の質疑応答含めたちょっとしたディスカッションがあったんですが、わたしなりにまとめると、
まず鷹木恵子氏がご自身のフィールドであるチュニジアの現状を語り、次いでカラム・アッバース氏が不機嫌を隠すこともなく西洋フェミニズムとアラブのフェミニズムは違うものだ、というか西洋的価値観がなんぼのもんだ、「肌をさらすこと=解放か?」という問いを発し、そこで司会の後藤絵美氏が「ここは日本であり、アラブでも西洋でもない(要約)」とのコメントを発され(勝手な解釈ですがこれはもちろん単なる地理の話ではなく、日本という〈周縁でありながら観察者でもありうる〉立ち位置を指し示しつつ対話の「第三空間」を提示するという、高度に場を中和するすばらしい司会で、本当にお見事であったと思います)、続いて岡崎弘樹氏からは本ドキュメンタリーが手法的にはいわゆる「告発」スタイルであり西洋の観客を意識したものであるという、ナラティブの枠を指摘する知的なコメントがあり、
その後の質疑応答タイムでは「質問です、という枕詞のあとに続く限りなくご意見に近い質問」を発するオトーサンが登場ですよ。もう風物詩だよねこういうの、ていうかこの上映会の趣旨をもっかい見て? なおさら「男の語り」が試される瞬間じゃん? いやもう、じつに場が高度にメタ化しておる。どうなっちゃうの~というところを鷹木氏がきれいに〆てくださっておひらきとなった。
これぞフェミニズムを語るときの複雑と困難と混沌よ。密な時間を堪能しました。ご満悦である。