さらに書道について、思うところを
アラビア書道の発展と偶像崇拝については以前にも思うところを書きましたが、最近になって某所にて似たような話題がありました。やはりイスラムと言えば偶像崇拝禁止、と捉えられることが多いようです。偶像崇拝を禁止しているのは何もイスラムに限ったことではなく、ユダヤ教、キリスト教、仏教なども同じなのに何故だ。
そこでのご質問が、「キリスト教や仏教は十字架やマリア像、仏像などを崇拝しているから偶像崇拝しているのではないか」ということだったのですが、私はキリスト教徒でもなく、今となっては仏教徒でもありませんし、宗教を専門に勉強しているわけでもないので、
「ではそもそも偶像崇拝とは何ですか?」
ということを考え、それに対して明確な解答を出すのには、個人的には「まあこういうことかなあ」というある程度の解釈はありますけれども、やはりまだまだ長い修行というか勉強が必要なようです。
ただし十字架であるとか仏像であるとか、そうしたものについては人間がやっている造形活動というか表現活動ですから、ある程度までは読解が可能かと思います。一応「表現」とかそういうものを扱う者のはしくれとして、水尾 比呂志氏の日本造形史にある、
現実生活の「用」に即するものとして「生活の造形」が営まれ、精神的信仰的な生活の「用」に応じて「宗教の造形」が形成され、これらの「用」から離れた性格を具える作品として、美術という新たな分野の「作家の造形」が創造された、という解釈
を援用させて頂きつつ、ここでももう一度説明してみたいと思います。
キリスト教の教義は神に救いを求めるのに仲介者の存在を認めています。あくまでも原則論と、それプラス牧師さんやクリスチャンの友人のはなしをもとに私が理解していることですが、クリスチャンの方々は十字架そのものを崇拝したり聖人像やマリア像そのものを崇拝しているのではなくて、それらは神の救いを得るための仲介に過ぎません。
イスラムが特に人物像などを残していないのは、神の救いを求めるのに仲介者の存在を必要としないので、そういったものを作る必要がなかったわけです。
イスラムでは神と信者の絆がコーランであり、コーランが文字によって表現されているため、宗教美術として書道が発展しました。同時にコーランは音として表現されたものでもあるので、視覚デザインと同じくらい聴覚デザイン(つまり声楽とか楽器演奏とか)も発展しました。
キリスト教ではイエス・キリストが神のロゴス(言葉)であり、神と信者との絆ですから、宗教美術として十字架とそれにかけられたイエスの像を中心に、彼の母親であるマリアの像や彼の弟子の像などが宗教美術として発展したのは、ごく自然な成り行きです。
出来上がってきた作品だけを別々に鑑賞すれば確かに相当違って見えますし、偶像崇拝を行っているように見えてしまうかも知れませんが、同じ人間がそれぞれに「救い」「祈り」あるいは「聖なるもの」を別々の表現方法で追求してきたということに過ぎません。
それにイスラム教徒も、コーランそのものを崇拝したり幾何学模様を崇拝しているわけではありません。イスラムの場合、「神の働き」あるいは「神の徴」は眼に見えても「神」そのものは人間の視覚では捉え切れないので、視覚化したりすることは許されない、というかだってそもそも無理。という考え方です。
「神の働き」というのは、要するに物理学とかで言う「法則」というものであり、「神の働き」を視覚化しようという試みを代表するのが幾何学模様、というわけです。
時代別・地域別にイスラム美術を追って行くと、偶像崇拝禁止が特に厳しくやかましく言われる時代というのも確かにあるにはありましたが、実際にはミニアチュール(細密画)であるとか人物像も沢山描かれているし、鳥や獅子などをかたどったカリグラフィもあります。そのあたりは前回に引用した岩波の「イスラーム美術」にも詳しく説明があります。
仏教も偶像崇拝を厳禁する教えであり、仏像そのものを崇拝しているのではないことはキリスト教と同じです。仏教の場合は「崇拝するな、知恵を使え」という宗教ですし、ブッダ自身はそもそも何ひとつ残していません。今ある経典も、彼の弟子が「ブッダがこう言っていた、ああ言っていた」というかたちで残したものです。
ただ、全ての人が識字者であったわけでもないし、字の読めない人々のためにも何かしらヴィジュアルで「救い」を表現する必要があったのでしょう。日本でも仏像は盛んに制作されていますが、それと同時に独特の書道文化も発達しています。