書道について – I

書道について、周辺の拾い読み


新イスラム事典
アラビア語(新イスラム事典 p71-72)
アラブが用いてきた言語。セム系言語の一つで、従来エチオピア語と共に南セム語群に属すると言われてきた。近年動詞組織などの比較研究をふまえて、北西セム語群に近いとする学説も有力になっている。アラブが北アラブと南アラブに大別されるように、アラビア語も南アラビア語と北アラビア語に分けられる。

南アラビア語はすでに死語となっているが、古代において、アラビア半島南部のサバ、ミナ、ヒムヤルなどの王国の言語であった。多くの碑文がヒムヤルペンで書かれた粘度板(ムスナド文書)として残されているが、大部分は祈願文で紀元前から6世紀ころのものである。これらの文書は南アラビアが古くから高度の文化を持ち、経済的にも栄え、インドなどとの通商をしていたことをうかがわせる。その文字文化は紀元前1500年には完全に発達し、文法学者が現れ、また歴史記録さえ行われていたようである。しかし7世紀のイスラムの出現と、これに伴う北アラビア語の拡大によって姿を消してしまった。

今日一般にアラビア語といわれるものは、古典北アラビア語である。北アラブ地域はイエメンからシリアにわかって広がり、そこでは古くから商業が栄え、都市文明が発達していた。中でもヒジャーズ地方のメッカは特別の地位を占めてきた。ヒジャーズ北部のヤスリブ(後のメディナ)は南アラブ系部族の移住で文化水準が高められた。またイラクのアラブはイラン文明の影響を受けていた。しかし大多数のアラブはテント生活を営む遊牧民(ベドウィン)で、彼らこそ外部の影響を受けない純粋のアラビア語を話す者であると認められてきた。

北アラビア語の最も古い碑文は4世紀にさかのぼる。6世紀のものとみられるシリア語・ギリシア語・アラビア語文書(アレッポ南東部ザバト出土、512年または513年)、ヒーラーのヒンド教会文書(560年)、ギリシア語・アラビア語文書(ダマスクス南部ハッラーン出土、568年)などは、いずれもキリスト教徒の教会生活に関するものであり、それらはアラビア文字が、おそらくイラクのキリスト教宣教師によってナバタイ文字を参考にして考案されたものであることをうかがわせる。それまでアラブ各部族にはそれぞれの方言が発達したようであるが、文字が考案され、伝播するにつれて、部族を超えた統一的文学語形成への道が開かれたと推定される。ジャーヒリーヤのアラブ古詩には、口語的な方言とは明白に異なる文学語が用いられているが、おそらくその発生源はナジュド地方であったであろう。コーランがこの文学語で書かれたことにより、アラビア語はその後、イスラム世界の行政・宗教・学術語としての地位を担うことになった。コーランのアラビア語は8世紀後半から文法学者により徹底的に純化され、規範化された。

7世紀前半以来、イスラムの広がりとともに、北アラビア語の使用範囲は大幅に拡大された。前述のように南アラビア語は消滅し、今日わずかに古サバ語の系統を保つソコトラ島の方言が生き延びているにすぎない。北に向かったアラビア語はシリア語をほとんど死語に近いものと化し、シリア語はわずかに残る方言のほかは、シリア正教(ヤコブ派)の教会語として生き延び、昔日の面影を失った。またエジプトでは、コプト語はコプト教会の教会語として余命を保つ状態に追いやられた。ウマイヤ朝からアッバース朝にかけて、アラビア語はササン朝ペルシアの宮廷文学や古代ギリシア諸学の翻訳導入を経て、語彙をいっそう豊かにし、散文を発達させた結果、イスラム世界の文学・学術語としての地位を不動のものとした。

13世紀から19世紀にかけての政治的変還の中で、イスラム地域内ではペルシア語やトルコ語の地位が高まり、アラビア語の地位は相対的に低められたものの、現代になってアラビア語は再び勢いを盛り返し、アラブ近・現代文学を開花させている。

今日のアラビア語圏はアラビア半島全体、シリア・パレスティナ、イラク、タウルス山地とクルディスタンの一部、エジプト、スーダン、北アフリカを包含する。アラビア語はコーランの言語であるために文法を固定し、歴史を通じてその変化は許されないという運命をたどってきた。しかもアラビア語はこれを母語とするアラブの言語という地位にのみとどまるものではない。コーランがアラビア語で書かれており、イスラムの信者はアラビア語で礼拝するよう義務づけられている。したがってアラビア語は全世界のムスリムの宗教語であり、イスラム世界の学術語としての地位を占めた。イスラム文化がアラビア語文化だとさえ言われるのは、非アラブのムスリム学者もその研究成果をアラビア語で発表してきたからである。アラビア語は、全ムスリムに対し、精神的一体感を植えつける機能をもった。

19世紀以来のアラブ民族主義の高揚は、複雑な要素から成り立つアラブの自己確認の柱にアラビア語を据えるようになった。宗教・学術の面のみならず、商業用語としても、アラビア語は歴史的に多大の影響を他の諸言語に与えてきた。ペルシア語、トルコ語、インド諸言語、インドネシア語、スワヒリ語等、アジア・アフリカ言語にはあまたのアラビア語の語彙が含まれており、またヨーロッパの諸言語にも多数のアラビア語起源の借用語があることが知られている。

アラビア語にはコーランの言語としての共通語のほかに多くの方言がある。イラク、サウディ・アラビア、シリア・レバノン・パレスティナ、エジプト、マグリブなどの方言が主要なものであるが、このほか、ラテン文字で書かれ、イタリア語の借用が多いマルタ方言もその一つに数えられている。しかし、アラブの主知主義や民族主義は共通語の保存を目的としており、古典北アラビア語(フスハー)の地位は圧倒的に方言(アーンミーヤ)のそれをしのいでいる。

アラビア文字(新イスラム事典 p73-76)
アラビア文字はラテン文字と共通の祖先を持っている。両者とも歴史的には紀元前1000年ころ用いられていた古フェニキア文字につながる。アラビア文字は4世紀に古北西セム語に属するアラム方言のナバタイ文字から生まれたものと推定されている。これで書かれた最古の文書は512(または513)年のものである。

古北西セム語は22の子音文字をもっていたが、アラビア文字ではth、dh、d,z、kh、ghの6子音を表す文字が加えられ、合計28文字(ハムザを独立して数えると29文字)となり、すべて子音文字である。母音符号は8世紀初めにシリア語から取り入れたものと推定される。アラビア文字は右から左に書かれ、1語を単位として文字間をひげ線で連続するのが原則であるため、語内の文字の位置によって同一文字が形を変える。

この文字はトルコ語、ペルシア語、ウルドゥー語、スワヒリ語、マレー語などの諸語の表記にも取り入れられた。

アラビア文字の書体には次のようなものがある。

1. クーフィー体 最も古い書体で、古文書、貨幣、建造物の刻文などに用いられる。角張った書体で、アッバース朝になって装飾書体になった。

2. ナスヒー体 10世紀に能書家ムハンマド・ブン・ムクラにより、クーフィー体から考案された。丸味を帯びた書体で、著作・印刷用書体として広く用いられる。

3. スルシー体 ナスヒー体を多少装飾化した書体で、本の表題、記事の見出しなどに用いられる。

4. ライハーニー体 ナスヒー体とスルシー体の中間に位置づけられ、記事の見出しなどに用いられる。

5. ルクア体 オスマン帝国時代に考案された書体で、今日アラブ世界の筆記書体の主流を占めている。

6. ディーワーニー体 単純なものから極度に複雑なものまであるが、オスマン帝国のスルタン布告などの公文書に用いられた。

7. ファーリシー体 イラン以東で用いられる筆記書体で、アラブ世界のルクア体とは対照的に流線的な形状を有する。

8. マグリビー体 アンダルスや北アフリカで用いられたもので、クーフィー体に近い。

書道(新イスラム事典 p289)
コーランを書写するという敬虔なる行いの産物として発達したアラビア文字の書道(アラビア語でハット)は、イスラムにおいて最も尊重される芸術分野である。書は建築、調度品、容器、布地などさまざまな事物にさまざまな技法で施され、ある情報を伝達したり、持主や見る者の幸福を祈願したりするのにも使用された。

ペンによる書においては、初期には記録文書などはパピルスに、コーランは羊皮紙に書かれていたが、しだいに紙が普及して最終的にはこれらを駆逐した。

ペンは斜めに切って先を尖らせたアシが使われ、インクは明礬(ミョウバン)と没食子(もつしょくし・虫こぶ)の溶液、アラビアゴムや水で溶かした煤(すす)など地域や時代によって異なった処方が存在した。

使用された書体には、初期のコーランや建築装飾に多用された、角張ったクーフィー体、「六体」と呼ばれる6種類の基本的な丸みを帯びた書体(スルシー体、ナスヒー体、ムハッカク体、ライハーニー体、タウキー体、ルクア体)、イランを中心に発達した優美なターリーク体とナスターリーク体、もっぱらマグリブだけで使用される、クーフィー体などがある。

イスラムにおける書道の尊重により、数多くの伝説的な書家の名前とその作品が伝わっている。中でも、それぞれのアラビア文字の長さの比率を一画点の数で規定し、「六体」を完成させたと言われるアッバース朝宰相イブン・ムクラ(940没、現存作品なし)、コーランを暗記して64回書写したと言われるブワイフ朝書家イブン・アルバッワーブ(1022没)、アッバース朝最後のカリフに仕えた書家ヤークート・アルムスターシミー(1298没)が有名である。

コーランのほか、韻文・散文の文学書、科学書などが見事な書体で書写されて写本に綴られたが、イラン、トルコ、インドでは16世紀以降になると一枚ものの書道作品が独立した書道手本として鑑賞されるようになり、画帳にも収められるようになった。


 


イスラーム美術 (岩波 世界の美術)
(岩波 世界の美術 イスラーム美術 p193-194)
製紙法は8世紀に中国からイスラーム地域に紹介された。751年のサマルカンド近郊での中国・ムスリム間の戦争で捕虜となった中国人のなかに製紙職人がいたと言われる。いくつかの植物から抽出されたセルロース・パルプがまず水の中で浮遊させられ、目の細かい簀にとらえられ、それから乾かされて柔らかい1枚の紙に作られるという製紙技術は、徐々に西進した。50年たたないうちにバグダードの官庁は記録文書に紙を使うようになった。羊皮紙とは違って、紙にインクで書くと容易には消すことができないので、筆記されたことを変更することが難しいという利点を紙は持っていた。

製紙法は素早くエジプトへ、最終的にはシチリアやスペインに伝えられたが、紙が羊皮紙に代わってコーラン書写に用いられるようになるまでには数世紀を要した。というのも、書の芸術は保守的な性質をもち、それを行う人々も保守的な傾向を持っていたためであろう。イスラーム地域西部ではこの時代を通じてコーラン写本に羊皮紙が使用されつづけた。

紙の導入は1つの概念革命に拍車をかけたが、その経過についてはほとんど調査されていない。紙は今日ほど安くはなかったが、羊皮紙と比べるとずっと安価であったため、より多くの人が本を購入することができるようになった。紙は羊皮紙よりも薄いので、1冊の本のなかにもっと多くの頁を収めることができた。

初めは紙は比較的小さな形に作られ、貼り合わせて使用されたが、14世紀初頭までには1mに達するひじょうに大きな紙が作られるようになった。このように大きな紙ができるということは、書家や芸術家が作業を行うスペースが増えたということを意味する。絵画はもっと複雑になり、芸術家に空間や感情を表現するもっと大きな機会を与えた。とくに1250年以降には紙がだんだんと手に入りやすくなり、建築設計図や下絵などの表現システムが発達していった。

これによって、今度はある芸術的着想や図像が、長距離を、また、ある素材から異なった素材へと、不可能ではないにしても前の時代にはひじょうに難しかった規模で移行できるようになったのである。


 


イスラム技術の歴史
(イスラム技術の歴史 p246-)
近東及び西地中海地域への製紙産業の導入・普及は、イスラム文明の主要な技術的功績の一つであった。それは人類史上、画期的な出来事でもあった。紙の初期の歴史は今や明らかになりつつある。前三世紀には数種類の紙がアジアで作られていた可能性があるが、より確かな年代のものとしては、一〇五年の中国における桑皮からの紙の製造がある。だが当時の中国人は、アジアにおいて中国以外の製紙場をすべてつぶして製紙産業を独占した、とも言われている。それが事実かどうかはともかく、アラビア語史料によれば、七五一年のタラス川の戦の後、中国人捕虜が連れてこられたサマルカンドで、八世紀後半に製紙業が始まったという。カズウィーニーは別の史料を引用し、こう述べている。「戦争捕虜が中国から連れてこられた。その中に製紙法を知る者があり、製紙を行った。やがて製紙が普及し、紙はサマルカンドの特産品となって、あらゆる国に輸出された」。

八、九世紀に製紙がイスラム世界に導入され普及したために、同産業に革命が起きた。筆写材料は独占から解放され、紙は非常に廉価な製品となったのである。

アラビア語が記された現存する最古のエジプト紙は、七九六〜八一五年の間のものであるが、日付のついた最初の紙は八七四年にさかのぼるにすぎない。だが、八世紀末にバグダードに製紙工場が設けられたことも知られており、科学史家ロバート・フォーブスによれば、十世紀、ティグリス川に製紙用の浮き水車(船水車)があった。その後、製紙工場はシリアに普及し、ダマスクス、ティベリアス、トリポリなどに設立された。エジプトがそれに続き、カイロに工場ができ、やがて北アフリカに伝播して、フェスが有名な製紙の中心地となった。製紙は結局、イスラム勢力下のシチリアおよびスペインに達し、バレンシア地方のハティバが紙製品で有名になった。ヨーロッパに製紙が伝わったのはもっと後で、むしろゆっくり広まった。最初の製紙工場は一二七六年にイタリアのファブリアノに建設され、それから一〇〇年以上経た一三九〇年にドイツのニュルンベルクに工場が設けられた。

製紙は文化革命を引き起こした。それは空前の規模で本の生産を促し、一〇〇年も経たないうちに数十万冊の写本がイスラム諸国中にいきわたった。本はどこでも入手できるようになり、本屋(warraq)は繁盛した。九世紀末にはバグダードだけでも一〇〇か所以上で本が制作された。民間の図書館がたくさんあり、公共図書館も到るところに設立されて、一二五八年のモンゴルによる攻略のときには、少なくとも三六の公共図書館があった。近東の歴史で初めて、科学、文学、哲学ほか、あらゆる分野の知識が全イスラム諸国の識字者全員に利用できるようになった。

歴史家ジョージ・サートンは、アラブ人が西洋に紙をもたらしたにもかかわらず、紙を意味するアラビア語がヨーロッパ諸語に入ってないことに驚きを表明している。彼によれば、その理由はおそらく、紙が間違ってパピルスに似ていると思われたため、またアラビア語で紙を表す言葉が一つだけではないために、「paper」という言葉が使用されるようになったのである。しかしながら、紙の発明をヨーロッパにもたらしたアラブ人の役割を想起させる言葉が製紙産業にはある。それは英語の「ream」、スペイン語の「resma」、イタリア語の「risma」で、他のヨーロッパ諸語でも似た言い方をする。これらは全てアラビア語の「rizma」に由来し、紙の「一連」を意味するが、現在では特定の量、四八〇枚か、しばしば五〇〇枚あるいは五一六枚を指す。

(中略)

イスラム世界では、紙はあらゆる種類の文書、書簡、本、そして包装にまで広く使われた。紙は東西のムスリム製紙工場の重要な輸出品でもあり、アラビア語史料は紙の等級、入手可能な規格寸法、および使用法に関する情報を記載している。

カルカシャンディーは、バグダード紙(Baghdadi)が最上で、カリフの文書や条約の記載に使われたと述べている。シリア紙(Shami)にはいろいろな等級のものがあった。その一つ、ハマー紙(Hamawi)は官庁で使用された。他の等級のものでは「鳥紙」と呼ばれた軽量のものがあり、伝書鳩が運べる薄さであったのでそう呼ばれたのであるが、これは要するにわれわれの航空便箋に相当する。エジプト紙の多様性はシリア紙に近かった。

紙はあらゆる色合いに作られた。赤や青、バラ色、黄色、薄茶、紫色などの紙の作り方が複数の写本に載っており、また紙を古く見せる方法を説明している手引書もある。