『鳩の頸飾り 愛と愛する人々に関する論攷』
イスラーム古典叢書 黒田 壽郎 訳・解説
愛とは、魂を完成させる形態への相互接近にほかならない。もっとも洗練された文化の花をさかせたイスラーム支配下のスペインで活躍した詩人が、彼自身の人生経験と秘められた悲恋の記録を書きつづった。(岩波書店ウェブサイトより)
以下は『鳩の頸飾り』からの抜粋。一部、仮名などを変えてあります。
愛の本質について
愛 ー アッラーよあなたに栄誉を授け給え ー の初めは単なる戯れであるが、その行き着くところは真剣さそのものである。愛が内に含む種々相はきわめて崇高であり、筆舌に尽くし難いほど繊細である。したがってその真実は、自ら体験する以外には理解されない。また愛は宗教により否定されもせず、法によって禁じられているわけでもない。なぜならば心は至大至高のアッラーの御手のうちにあるのだから。・・・
愛の本質については人々が意見を異にし、これまでにも縦横に議論がなされている。私自身の見解によれば、愛とは現世において切り離された魂の諸部分の、魂本来の高貴な要素における結合である。・・・魂の本来の棲処である上部の世界において魂の力がたがいに類似し、その組成が酷似しているという考えに依拠している。
・・・もしも愛の原因が肉体的な形姿の美しさにあるとすれば、器量の悪い者は讃美の対象とならないことになる。だがわれわれは、他に美しい人間がいることを認めながらも心の絆を断ち切れず、醜い者を選り好みする例に事欠かない。また愛の原因が性格の一致にあるとするならば、ひとは同じ意志をもたず、意見を異にする者を愛したりはしないであろう。したがって愛は魂そのものの中にあるということができる。時には愛情が特定の原因により芽生えることがある。ただしこのような愛は、原因がなくなれば消え失せてしまう。
・・・愛 ー アッラーよあなたに栄誉を授け給え ー とは、厄介な病いで、治療法をわきまえる者にとっては、それを癒す薬は愛そのものの中にだけある。ただしこれは悦ばしき病い、望ましき病気で、これに罹っていない者は免疫となることを望まず、これに悩む者も回復を願わない。愛はひとがそれまで蔑んできたものを美化し、困難であったことを容易にし、その結果彼がかつてもっていた特定の気質、もって生れた性質をも変えてしまうのである。
ある種の人々の愛は、長らく親しい会話を交し、回を重ねて相まみえ、友誼を深めてからでないと実現されない。このような愛はどちらかというと永続し、時の経過にも影響されない。よろず成就するのに困難だったものは、容易に色褪せないというのは、私の信条でもある。聖なる伝承によれば至大至高のアッラーは、いまだ粘土の状態にあるアダムの身中に入るよう魂に命じた折、怖れ、尻込みする魂に向って仰せられている。「無理をして中に入り、無理をして外に出でよ。」この種の人々に属する私の友人の一人は、心に愛情の芽生えを感じ、ある人の美しさに特別の感情を覚えると、自ら遠ざかり、席を共にしないように努めている。これはそれ以上感情を昂ぶらせ、抑制の手段を失い、本能の赴くままに任せないためである。この事実は、愛がこの種の人々といかに密着しているかを示すものであろう。とまれ一たび彼等のうちに宿った愛は、決して消え去ることがない。
・・・実のところ私は、一目惚れすることを望む人々すべてに対し驚きを禁じえない。私にとってこれは容易に認めがたいことであり、この種の愛は一種の快楽とみなされるべきものなのである。このような愛が心の蔽いをつき抜けて、その奥処に宿るなどとは到底信ずることができない。少なくとも私にとって愛が胸中に宿るのは、長い間相手の人物と交際し、重大な用件について相談したり、意味のない冗談などを交しながら時を過してからのことであり、愛から癒され、遠ざかるにしても、同様である。私事に関する限り、かつて覚えた愛情を忘れさったことがなく、昔の愛着を想い起すにつけ、食事も喉につまり、水も容易に飲み干せぬ有様だが、われわれの部類に属さぬ人々は、いとも簡単に昔のことを忘れ去ってしまう。
真実の愛はひとときに生れるものではない
燧石もひとうちでは火がつかぬように
愛の火はゆるやかに生れて焰をあげ
深く知りあったのちに静かに燃える
そのときにはもはや別れも衰えもなく
愛の炎はゆるぎなく燃えさかるばかり
これを確かめるのはなべて成長するものが
一気に育つと衰えも早いという普遍の真理
ただし私は岩のように固くあらゆる草木の
繁茂をこばむ荒れ果てた大地のようなもの
一たびそこにしっかりと根が下されると
もはや慈雨のあるなしは問題ではない
・・・周知のように魂は低俗な現実世界においておおくの蔽いに包まれ、さまざまな属性につき従われ、世俗的な性質に取り囲まれている。したがってその良き性質の多くは蔽い隠され、完全に変質してはいないが多くの障害物をまとっているため、魂に十分な準備がない限り真の結合は期待されない。魂はまず他の魂との類似点、一致点を知るとともに、自らの本性を愛人の中に認められる類似の隠れた本性と対比させる必要がある。これがなされたあとで、初めて真の結合が何の障害もなく成就されることになる。
二人の女を同時に愛すなどと言う手合いは大法螺吹き
光と闇の二元論を唱える マニが法螺吹きのように
心には二人の恋人への愛を 貯えておく場所などはないし
新しい愛が古い愛と同じだ などといえようはずがない
これは二つとない知性が 恵みあまねき唯一の神
より他に誰一人 創造者を認めないようなものである
心もまたただ一つで 遠近を問わずただ一人の女を愛す
二人の女を一度に愛すことは 愛の定めからすれば
確信からはほど遠い 疑いにみちた愛にほかならない
ちょうど真実の正しい信仰が 唯一無二のものであり
同時に二つの信仰を持つ者が 背信者と呼ばれるように
愛の使者
その昔預言者ヌーフ(ノア)の使いの鳩は
期待にたがわず 吉報をもって帰りました
ですから貴女にも 鳩をさしむけましょう
翼にむすんだ 恋の文をお読み下さい
愛の秘匿
愛の何たるかを知りもせず 人々は私を非難する
むろん他人が非難しようがすまいが 問題ではないのだが
彼等は言う 君の慎みのなさは何たることか
人前では法の教えを きちんと守るような顔をして
そこで私は抗弁する 君たちの非難こそ偽善そのもの
私が一番憎むのは 見た目には美しい偽善者の装い
一体われらの預言者ムハンマドは いつ愛を禁じたか
もしくは啓典コーランが 愛を確かに禁じたか
神の目にはばかることを 私は何一つ犯してはいない
審判の日に呼び出されて 苦りきった顔をするような
とまれ私は他人の非難など気にかけない ひそひそと
物かげで言おうが 公然と人前で大声で言おうが
人はこれからしようとすることで 審かれるものだろうか
物言わぬ者が 口にされぬ言葉で審かれるだろうか
愛の成就
ひとは私に尋ねる 貴方は一体おいくつでしょうか
ところで私のこめかみも顎髭も すでに雪のように白い
そこで私は答える よくよく考えてみると私が
生きてきたのは たったひとときのことでしょうか
するとそのひとは 驚きあきれてぜひにと説明を求める
貴方のおっしゃることは まったく理解に苦しみます
私は話してやる 私は心から愛するひとの唇を
ある日不意うちして 一度だけ盗みとりました
これからどれほど長生きしても 私はあの短い
幸福な一瞬をしか 自分の年に数えないでしょう
満足
無理がなく恋人から簡単にえられるもので満ち足りよ
何もかも力ずくで奪い取ろうと考えてはならぬ
お前は何ひとつ彼女に要求できる権利もないしまた
彼女にしてもお前の両親のように寛大である必要もない
ひとは恋人が遠くに去ったと嘆くが 私にとっては二人が
逃れるすべもない同じ時間の中に いると思うだけで十分
私のところ恋人のところ別け隔てなく 太陽はともに巡り
日々あらたに二人を明るい陽光で 照らさずにはおかない
私と恋人とを隔てる遠さが 太陽の一日の旅程だとすれば
考えようによってはこの隔たりは 少しも遠いといえない
被造物についての神の叡智は 二人をともにつつみ込むが
私はこの近みで充分であり それ以上期待することはない
別離
貴女と二度と会うこともないのに恋の想いだけは紛れもなく明らか
恋人の姿もないのに恋のしるしだけ残るとは何と皮肉な巡り合せ
夜空をめぐる惑星は星をおおう指輪の環のようなものでしょうか
しかしとりわけ貴重な台座の宝石である貴女の姿はありません
忘却
・・・忘却する者が許されるか非難されるかは、その原因、それから生ずる結果の程度によっている。
第一の原因は倦怠であるが、これについてはすでに述べた。倦怠により愛を忘却する者の愛は真実のものではなく、このような性質の持ち主の求愛は偽りである。彼が求めているのは快楽であり、肉体的な欲望の充足にすぎない。この種の忘却に関わる者は当然非難の対象となる。
次には愛人を替えたがる願望があげられる。これは倦怠と類似しているが、それにはない他の動機が介入しており、この動機ゆえに倦怠よりも一層悪質であり、この種の忘却と関わる人物は上述の者より一層強い非難の対象となる。
第三には、恋人が愛人にたいして意中を打ち明けるのを妨げる生来の慎み深さがある。恋人のこの内気さのために情事の進行には長い時間がかかり、事態が遅々としてはかどらないため、新鮮な愛情は古びてしまい結局忘却に身を委ねることになる。この場合恋人が自然に忘れてしまえば、彼の態度は正しいものとはいえない。彼は自ら愛の喪失の原因を作り出しているのだから。
だが彼がいわゆる意識的な忘却に努めているとすれば、それは何ら非難に値いしない。彼は自分の快楽よりも慎み深さを選んだのだから。アッラーの使者 ー アッラーよ彼に祝福と平安を与え給え ー は次のように述べたと伝えられる。「慎み深さは信仰に属し、厚顔無恥は背信に属するもの。」
貞節の美徳
かのあでびとは仁慈の神が光で創られた真珠のよう
その美しさはこの世の思議をはるかに超えたもの
私の行いがその花のかんばせほどに美しければ
嚠喨と鳴る喇叭の音で死者が集められる審判の日に
私は最も幸運な信者となろう 二つの楽園に住まい
真珠のようにあでやかな天国の乙女たちにかしずかれて
鳩の頸飾り―愛と愛する人々に関する論攷 (1978年) (イスラーム古典叢書)