試訳:イスラム概略

「イスラム概略」
執筆者不詳

 

イスラム教とは「セム系一神教」に分類される宗教の名称であり、宗教学的にはユダヤ教・キリスト教に続いて発生した第三の宗教とされる。

ユダヤ人はアブラハムの子イサクを祖とし、アラブ人は同じアブラハムの子イシマエルを祖とする。このような若干の違いはあるものの、彼らは共に「アブラハムの子孫」を自称した。この「アブラハムの子孫」の宗教が「セム系一神教」であり、それは「アーリア系多神教」と呼ばれる仏教・ヒンドゥー教と区別される。

西暦7世紀、アラブ半島の商業都市メッカに定住するクライシュと呼ばれる部族があった。この部族の出身でムハンマドという人物が、大天使ガブリエル(ジブリール)を通して神の啓示を授けられた。この啓示を授かったとき、ムハンマドは年齢的には人生の半ばにあった。彼は残された半生のすべてを、親しい友人たちを含む多くの人々にこの啓示を知らしめ伝えることに捧げた。これがイスラム教の始まりである。

ムハンマドに授けられた啓示は一回のみで終わることはなく、その後23年間の歳月をかけて断続的に送り届けられた。あるものは短く、またあるものは長いそれらの啓示は、後に文書として記録された。それらを収集し、一冊の書物に纏め上げられたものがコーランである。これがイスラム教における聖典である。コーランはいうなれば神のコトバそのものとされ、ムハンマドは神のコトバを啓示された人物という意味で「預言者」と呼ばれる。

 

コーランの使用言語はアラビア語である。そのため、アラビア語はイスラム教において重要な位置を占める。ただしキリスト教におけるラテン語・ギリシア語のように典礼的な色合いはない。その役割はむしろヒンドゥー教や仏教におけるサンスクリット語に相当すると言えるかもしれない。現代まで生き残ったセム系言語のうち、最も古い言語がアラビア語であることは特筆するべきだろう。その形態は、アブラハムの時代とほぼ同時期の産物であるハンムラビ法典のころからほとんど変化していない。別の見方をすれば、コーランがあってこそアラビア語もまた風化することもなく生き延びてこられたとも言える。

神のコトバとして、コーランは忠実に記録され、保存され、イスラム教徒たちによって不断に読み継がれてきた。その結果、コーランをアラビア語で「読む」という行為それ自体が、宗教儀礼の形式を決定付けることとなった。すなわちあらゆる典礼や儀式が、アラビア語によるコーラン朗読によって進行されるのである(「コーラン」という言葉自体が、そもそも「朗読」を意味する)。

「他言語に翻訳されたコーランはコーランとはみなされない」といった議論がしばしば持ち出されるのも、おそらくこうした事実を背景にしているものと考えられる。技術上の制約を除けば、しかしコーランの他言語への翻訳は決して規制されるものではない。

それがそのまま神のコトバである以上、イスラム教という宗教の中心となるのはコーランでありムハンマドではない。キリスト教徒たちが自らを「クリスチャン」と呼ぶのに対し、イスラム教徒たちが自らを「ムハンマディアン」とは呼ばない理由をここに見出すことができる。このことは、一見すると新約聖書ではなくキリストをその中心に位置付けているキリスト教とは対照的に感じられるだろう。だがこれはあくまでも表面上そのように見えるというだけのことである。実際、キリスト教における神のコトバ、すなわち神のロゴスとは、そもそもイエス・キリスト自身を指す。

さて、イスラム教徒は自らを「ムスリム」と呼ぶが、これは「服従する者」という意味であり、またイスラムとは「(神に対する)服従」を意味する。

キリスト教におけるキリストとは、「ヒト」であると同時に「神」でもある。この観点から、イスラム教におけるムハンマドは「ヒト」であり、それ以上でも以下でもない、と言うことができるだろう。すでに述べたとおり、神聖視されるのはあくまでもコーランでありムハンマドではないからである。

とは言え、イスラム教徒たちがムハンマドを軽視しているというのではない。イスラム教徒たちは、ムハンマドを「石に混じる宝石」になぞらえる。それはキリスト教徒たちが聖母マリアを「benedicta tu in mulieribus…(最も恩寵に満ちた方)」と形容し賛美するのにも似た敬愛の感情の発露である。F・シュオンの指摘にもあるように、イスラム教におけるムハンマドの役割は、キリスト教におけるマリアのそれに非常に近しいものがある。マリアへの受胎告知もムハンマドへの啓示も、どちらもが大天使ガブリエル(イスラム教におけるジブリール)によってなされている。マリアは処女の身でありながら息子を授かり、ムハンマドもまた文盲の身でありながら書物を授かるのである。こうした寓意を仔細に観察すると、その内奥・その精神性に多くの共通点が見出せるだろう。

同時に別の次元において、ムハンマドとキリストの間に類似点があるのもまたあきらかである。それぞれが人類に多大な影響を与えた宗教の創始者であり、伝道者であることを考えれば当然のことと言えよう。特徴的なのは、伝道者としてのムハンマドに見られる強烈な男性性である。宗教家としての彼とは対照的に、政治家としての彼は非常に能動的であり、また意志的・主体的である。

 

イスラム教における預言(risala:リサーラ)のすべては、信仰の告白(shahada:シャハーダ)をその中核としている。「神は唯一であり、ムハンマドは神の預言者である(La ilaha illa ‘Llah: Muhammadur Rasulu ‘Llah:ラー・イラーハ・イッラッラーフ・ムハンマドゥ・ラスール・ッラー)」。イスラム教における教義の全てが、このシャハーダに由来する。イスラム神秘主義・スーフィズムにおいては特にそれが顕著となる。

シャリーアと呼ばれるイスラム法については、「五行」と呼ばれる宗教実践にその特徴を見出すことができる。「五行」とは上記で述べた信仰の告白に始まり、礼拝、斎戒、喜捨、そして巡礼を指す。ここで言う「信仰(iman:イーマーン)」とは、シャハーダ(の文言)を理解・同意することにある。

同様に「礼拝(salat:サラート)」は、日ごとに5回(日の出、正午、午後、日没と夜)、所定の方法で行われる規則的な祈りを意味し、また「斎戒(sawm:サウム)」は、イスラム暦の第9月であるラマダン月、日の出から日没まで飲食を断つ行為を指している。「喜捨(zakat:ザカート)」は慈善を目的とし、その人の所有する財産の一部を差し出すことである。「巡礼(hajj:ハッジ)」においては、(可能であれば一生涯に一度という条件付で)イスラム教徒はメッカのカアバ神殿を訪れる。

以上が「イスラムの五行」の概略になる。これを基礎に、さらに字義的解釈を発展させ体系化したものが、すなわちシャリーアと呼ばれるイスラム法に相当する。同時に、シャリーアにおいて字義的に解釈された「イスラムの五行」の各々に対し、形而上学的・精神的解釈を加え精神的な意味を見出す営みをスーフィズムと呼んでも差し支えはないであろう。

ところで、ぶどう酒(「酒類」と拡大解釈されることもしばしばであるが)と豚肉についても言及する必要があるだろう。これらは「五行」に含まれるものではないにも関わらず、イスラム教の禁忌として一般に「五行」よりもよく知られている。

ぶどう酒は多くの場合肯定的なイメージで語られる。誠実な信者たちにとって、ぶどう酒は楽園において振舞われることが約束された天の飲み物である。多くのスーフィーたちが信仰の喜びや神秘的境地について、ぶどう酒とそれがもたらす酩酊になぞらえている。同時に否定的側面として、あきらかに酩酊が原因となって引き起こされた混乱や過失などが挙げられるだろう。ただしその場合においても否定されるのはぶどう酒そのものではない。上記に述べたとおり、ぶどう酒それ自体は本来「良きもの」とその象徴であり、それは他のセム一神教とも共通している。また豚肉(厳密には野生の猪肉だが)についても、これがイスラム法によって全面的に禁じられるものではないことに注意すべきであろう。

その他にイスラム法が禁ずるものとして、賭け事・高利貸しなどがある。

こうした禁忌を通して、イスラム教の全体を知ることができるというわけではない。とはいえ、たとえ部分であってもそれに触れることに意義がないとは言えないだろう。例えば、男性に金製品・絹製品の着用を禁ずる場合がある。金製品・絹製品についての優先権はまず女性に与えられている、というのがその理由である。これはイスラム教の個性的な側面を伝える興味深い一例である。

これ以外にイスラム教独特の概念として名高いのが「聖戦(jhad:ジハード)」である。イスラム教徒によって形成されたコミュニティが、防衛を目的として外敵と戦うことを指すとされる。だがこれはあくまでもジハードの外面的な意味に過ぎない。イスラム教徒にとって最大の敵とは、外部ではなく内部にある。内面的・精神的には、ジハードとは目に見えない自分自身のエゴと戦うことを意味する。「私たちは卑小なジハード(=外敵との戦い)から立ち去ろう。より偉大なジハード(=自我との戦い)を戦うために」。戦場を共にしてきた友人たちを前にムハンマドはそう語っている。彼の残したこの言葉は、ジハードの持つ両側面のうち、どちらがより重要であるかを示唆している。

イスラム教は、過去に存在した預言者たちと自らの宗教に矛盾はないとし、彼らの多くを自らの宗教に積極的に取り込んでいる。人類の始祖アダムに始まり、アブラハムと彼の系譜に連なる預言者たち、またイエス・キリストとその母マリアについても同様である。特に聖母マリア(Sayyidat-na Maryam:サイーダ・マルヤム)についての記述は、新約聖書よりもコーランのほうがはるかに多い。ある一章などは彼女の名前そのままに「マルヤムの章」と名づけられている。

 

さて、ここまでイスラム教の概要について述べた。これに付け加えるべき重要事項があるとするなら、それはイスラム教内部に唯一存在する「見解の相違」、すなわち「スンニー」と「シーア」についてであろう。

預言者ムハンマドの死後、預言者の近しい友人でもあったアブー・バクルを筆頭にオマル、オスマン、アリーといった後継者たちが信者たちの指導者となった。彼ら4人を、預言者亡き後のイスラム教徒たちの「正統な代理人(ハリーファ)」として認める信者たちの一群は、のちに「スンニー」すなわち多数派と呼ばれるようになった。これに対し、最初の3人を除くアリーのみを唯一正統かつ合法的な代理人として認める信者の一群がある。アリーのみがムハンマドの血縁にあたるというのがその理由である。彼らは最初「アリーの党派(shi’atu Ali:シーア・アリー)」と呼ばれ、その後単に「シーア」と呼ばれるようになった。

多数の信者を有する一大宗教としては、イスラム教には驚くほど分派が少ない。目立ったところでは上述したスンニーとシーアだが、これについても経緯を見れば理解できる通り指導者選出に関する政治的見解の相違であり、宗教的教義に関する見解の相違とは言えない。スンニーもしくはシーアを自称するイスラム教徒たちも、この点についてはほぼ意見が一致している。唯一の違いはシーアがアリーただ一人をハリーファとして認めているという点のみであり、それ以外の基本的な宗教実践についてはほとんど違いがない。あるとすればスーフィズム的要素を多分に含んだコーラン解釈などが挙げられるが、これはシーアが誕生したペルシア(現代のイラン)という土地が伝統的に育んできた神秘主義的・文学的土壌の影響によるものであると考えられるだろう。

シーアはペルシアに限らずその他多くの地域に分散しスンニーと混在する。同時に、ペルシアに住むすべてのイスラム教徒がシーアであるわけではない。哲学者でありスーフィズムの偉大な指導者であったジャラールッディーン・ルーミーや、ペルシアを代表する文学者オマル・ハイヤームもスンニーであった。ルーミーはシーアに批判的であったと伝えられるが、それはシーアそのものというよりも党派性に対する批判であり、彼の批判はそのまま排他的なスンニーに対しても向けられている。