『ルーミー語録』解説(抜粋)
井筒俊彦
追記:2015年に岩波のオンデマンドで復刊したようです。
イスラーム古典叢書 ルーミー語録 (岩波オンデマンドブックス)
・・・ルーミーから約二世紀後、西暦十五世紀に世に出た詩人ジャーミーは、この『精神的マスナウィー』を評して「ペルシャ語のコーラン」と言った。ジャーミーは自ら天才的な神秘主義的詩人であっただけでなく、第一級の学者・思想家であり、イブン・アラビー系の形而上学者でもあった。「ペルシャ語のコーラン」というのは、コーランを天啓の書、神の言葉として熱狂的に尊信するイスラーム世界においては、実に容易ならざる表現だ。彼がこのような大胆不敵な、というよりむしろ不遜で瀆神的でさえある表現を敢えて使ったことは、『精神的マスナウィー』に接した彼の感激のただならぬものであったことを物語る。そしてまた、この作品がペルシャ文学史においていかに高い位置を占めるかということも。事実、『精神的マスナウィー』は爾後七百年にわたって無数のペルシャ人に愛誦され、感嘆され、無数の人々にスーフィズムの醍醐味を味わわせつつ、『ハーフィズ詩集』と共にペルシャ詩歌の最高峰として現在に至った。
『精神的マスナウィー』は、今言ったように、純然たる神秘主義的作品である。標題の「精神的(マアナウィー)」という形容詞が、釈義的に表現しなおせば「神秘主義的直観に基く」とか「神秘主義的体験において開示される実在の真相に淵源する」というほどの意味であることによってもそれは分る。事実、全篇約二万六千行に及ぶ六巻のこの作品の中軸をなす根本思想、それを具象化するための詩的形象、それを読者の心にじかに伝えるための無数の物語等はすべて神秘家としてのルーミーの生々しい実在体験の反映である。『精神的マスナウィー』は、この意味において、正しく神秘主義的あるいはスーフィー的実存の自己提示であり告白の書である。この点では『シャムス・タブリーズィー詩集』と少しも違わない。ただ一つだけ根本的に違うところがある。それは『精神的マスナウィー』が陶酔の詩ではなくて反省の詩であるということだ。
『シャムス・タブリーズィー詩集』には意識の陶酔があった。陶酔した意識が陶酔した言葉を語っていた。これに反して『精神的マスナウィー』の意識は醒めた意識である。神秘主義的瞑想の実在体験がそのままじかに語り出すのではなくて、そういう実在体験の深淵を、ここでは醒めた心、醒めた意識が反省し、反省的意識によって捉えられたものが言語の次元に移される。必然的結果として、この作品は内容的に著しく哲学的である。ここでは神秘家は形而上学者に変貌している。という意味は、神秘主義的実在体験の内実が、一応、反省的思惟の操作によって形而上学的世界像に作り変えられているということだ。しかし、時代を同じくした偉大な神秘哲学者イブン・アラビーやその高弟で、またルーミー自身の親友でもあったサドル・ッ・ディーン・コニヤウィーとは違って、彼はこの形而上学的世界像を哲学として提示することはせず、美しい詩的形象の長い断続的な連鎖、あるいは厖大な累積としてのみ表現した。それが『精神的マスナウィー』である。だからこの作品は根本的に哲学的性格のものでありばがら、その哲学性は、我々が一見哲学的思惟とはなんの関係もなさそうに見える詩的形象を一度哲学的に解釈し直さなくては露出しないような哲学性である。
以上のような意味において、『精神的マスナウィー』は『シャムス・タブリーズィー詩集』に比べて、同じく神秘主義的詩とはいっても、はるかに複雑な内的構造を持っている。しかも面白いことに、と言うよりはその複雑な構造をさらに複雑にするものとして、『精神的マスナウィー』における言語の陶酔的性格という事実がある。
『精神的マスナウィー』が神秘主義的実在体験の生の声ではなくて、そこに反省的思惟が介入しており、醒めた意識によって再構成された神秘主義的陶酔の詩的表現であることはすでに説明した通りであるが、不思議なことにこの詩的言語には依然として陶酔がある。言葉のリズムの流れは依然として陶酔しており、またこれを朗誦する人の意識を言い知れぬ誘い込む。所詮ルーミーは生まれついての陶酔的詩人だったと言ってしまえば簡単かも知れない。が、それでは余りに簡単すぎる。後で説明するように、表面にこそ出さないが、ルーミーはスコラ哲学の教養を完全に身につけた学者でもあったのである。そのルーミーが、一たん原初の神秘主義的陶酔から醒めて、反省的に分析したものが『精神的マスナウィー』の主題であり内容であるからには、そこに見られる言語的陶酔が原始の実在体験の陶酔そのままの反映であろうとは到底考えられない。
私はこれを形象的体験の次元における新たな形象的と薄いの言語的反映として理解したい。そしてこのことはルーミーという人の内的実存的構造を理解するための重要な鍵であると思う。ルーミーは根本的に形象(イマージュ)の人であった。一切が彼にあっては形象となる。いや、形象にならざるを得ない。いかなる体験も、哲学的反省的思惟でさえも、必ず形象として、形象の次元で展開する。ルーミーの思惟形態は、本質的に形象的思惟である。そしてこれは、彼は実在体験の全てが形象的体験であることの一部である。元来言詮不及、一切の形象を超え、形象化を拒絶する「無」の体験 - これを術語的にファナー(fana’)「自我消融」という - ですら、ルーミーにあってはたちまち形象の生起として甦る。この意味で、彼の実在体験は形象体験である。
何を考え、何を感じ、何を経験しても、それは必ず直ちに意識の形象的次元を刺激し、形象的次元に反映して鮮明な映像を生む。形象を超えた無象の観念をも、形象以下の質料的事物をも共に形象化し、一切を形象として構成し直し形象として体験し直す、この意識の次元をスーフィズムは一つの独立した存在領域として措定し、これを術語的に「根源的形象の世界」(’alam al-mithal)と呼ぶ。それはあらゆる形象の住む特殊な国である。本来形象を超えて形象を持たぬ純粋観念はこの世界に降りてきて形象に受肉し、粗大な物質の塊(マス)としての形を持つ経験的世界の事物もまたこの世界に昇ってきて精緻で幽微な形象と化す。ルーミーは、少くとも詩人としてのルーミーは、正にこの「根源的形象の世界」の住人である。
『井筒俊彦著作集11 ルーミー語録』解説 井筒俊彦 中央公論社