試訳:あるいは、恋人達の慰みに

「あるいは、恋人達の慰みに」
スフラワルディー

 

愛あまねく慈しみ深い神の御名において。

(1) 「われらは汝にこのコーランを啓示することによって、もっとも美しい物語を語って聞かせよう。そもそも汝は、以前は無頓着な人間であった」(コーラン12章3節)

あなたがいなければ、欲するということもなかっただろう
欲するということがなければ、あなたを知ることもなかっただろう
愛と、愛の悲しみがなければ、あなたが語る美しい物語に
耳を傾けることもなかっただろう
風があのひとの髪をなびかせたりしなければ
欲することもなかっただろう、再びあのひとの頬を見たい、などと

 

第1章
(2) はじめに、神は光り輝く鮮烈な真珠を創造し、これを『’aql(知性)』と名付けた。人はこれを知らねばならぬ。

はじめに、神が創造したのは知性であった。

知性という名のこの真珠に、神は三つの資質を付与した。すなわち神を知る資質、自己を知る資質、それから、未だ存在せぬもの(未来)とかつて存在したもの(過去)を知る資質である。 神を知る資質から『husn(美)』が出現した。ついで自己を知る資質から『’ishq(愛)』が出現した。未だ存在せぬもの(未来)と、かつて存在したもの(過去)を知る資質から『huzn(悲哀)』が出現した。これら三つは根源を共にする兄弟同士である。長兄にあたる美は、自分をじっと見続けていた。そして自分が、非の打ちどころなく極めて優れているのを知った。彼の内部から光輝が生じ、彼はにっこりと微笑んだ。彼の微笑みから、幾千もの天使達が出現した。

次兄にあたる愛は、美を慕うことこの上なく、彼から目を離すことも出来なかった。愛は美に親しく寄り添い、絶えず美の傍にいた。美が微笑んだとき、愛は驚愕し、動揺して思わず身じろいだ。末弟にあたる悲哀が、震える愛にしがみついた。悲哀が愛に抱きつくと、天と地が出現した。

 

第2章
(3) アダムが泥土から創造された際の、天界の諸侯による会議は凄まじく紛糾した。異なる四つの元素を司る代理者達が招集された。まず宿命の設計者が、手にしていた『はからい』の羅針盤を大地の見取り図の上に置いた。するとたちまち、見取り図の様相は美しく整えられた。四つの元素達は互いに反目し合う仲であったが、精鋭中の精鋭である七人の『漂泊者』達によって捉えられ、異なる六つの『方位』の牢獄に監禁された。

それから太陽の王ジャムシードが、『方位』の軸の周囲を四十回巡り、『四十の朝』を完成させたところで、『親愛』の衣が四つの元素達の肩の上に覆いかけられ、彼らはようやくひとつになった。

このようにしてアダムが誕生し、その知らせは天界の王国に響き渡った。王国の住人達は、王である美に、一目アダムを見たいとせがんだ。美は言った。「まずは私が、ひとりで会いに行こう。喜ばしいものであれば、私は数日をあちらで過ごすだろう。あなた方が来るのは、それからでも遅くはない。私の帰りが遅ければ、あなた方とはあちらで会おう」。

美は『権能』の馬に乗り、アダムと名付けられた存在の領域へ向けて旅立って行った。美は、その領域が心地よく楽しく、喜ばしいところであることを見出した。彼は『権能』の馬から降りた。彼はアダムを抱擁した。余すところなく彼を取り囲み、わがものとした。

美が王国から去ったことを知り、愛は悲哀の肩にその腕をまわした。そして美を探して彼の後を追った。天界の王国の住人達も、これを知ってすぐさま彼らの後に続いた。

やがてアダムの領域に辿り着いた愛は、美が絶対無比の『荘厳』の王冠を授けられ、アダムという存在の王座に座っているのを見た。彼は息をのんだ。彼は自分の居場所を探そうとしたが、『驚愕』の壁に額をしたたかに打ちつけてしまい、よろめいて足許もおぼつかなかった。悲哀が、彼の腕をつかんで支えた。

気を取り直した愛が目を開くと、そこには天界の王国の住人達がひしめいていた。彼は彼ら群衆と共に、全員で美の座す広間へと赴いた。愛は住人達の指揮者であったが、彼らが広間に近づくと、愛は自分に替わって住人達を導くよう悲哀に命じ、それから住人達に、広間には入らずに、遠くから床に額ずいて接吻するように命じた。天界の住人達は、それ以上彼の側へ近寄ることには耐えられなかった。天界の住人達の視線が美を捉えたとき、彼らは自然と跪いて床に接吻した。

「そのとき天使たちはみないっせいに跪拝した」(コーラン15章30節)

(4) アダムという存在の領域から美が立ち去り、自分自身の領域に帰ってから長い年月が過ぎた。それ以降、彼は彼にふさわしい王国が出来上がるのを、随分と長い間待たねばならなかった。やがてヨセフが出現した時、美にも知らせが届いた。すぐさま、美はヨセフの許へと旅立った。

愛は悲哀の袖をつかんで、共に美の後を追いかけた。愛が美を見つけたとき、美はヨセフとすっかり混ざってひとつに溶け合っており、彼らの違いなど見分けもつかなかった。愛は悲哀に、『謙譲』の鎖を引くように命じた。美のいる方角から、声が響いた。「私を呼ぶのは誰?」。愛は恍惚の舌をもって答えた。「あなたのしもべです。傷ついて、あなたの胸に抱かれようと会いに来ました。哀れなことに、今では歩くこともままなりません」。美は何も言わずに『哀願』の胸元を『無関心』の手で押し返した。愛は嘆きの声をもって歌った。

私にはあなたしかいないのです、どうか冷たくしないで下さい
あなたに冷たくされることには耐えられません

これらの言葉を聞いて、美は軽蔑したように答えた。「愛よ、おまえといても私は楽しくも嬉しくもないのだよ。今の私は、おまえのことなど構っていられないのだ」。愛は絶望した。彼は悲哀の手を取り、『当惑』の荒野へと向った。彼はひとりごとを呟いた。

誰かが、あなたの手を取ることなどありませんように
あなたの友情を勝ち得ることなどありませんように
何もかも全て滅びますように
悲しみと共に、あなたを想って焼け焦げる私の魂の他には
怖れていたことが起きてしまった、私は消えてしまおう
こんな日を、私以外の誰も迎えることのありませんように!

 

第3章
(5) さて、このようにして美と離ればなれになったとき、悲哀が愛に言った。

「私達は常に一緒でした。私とあなたは、共に美に奉仕して過ごしました。美は私達の師も同然で、私達は二人ながら彼の弟子という名の衣をまとっていたものです。ですがこうして、私達が二人ながら美に追放されてしまったからには、今までと同じというわけにも行かないでしょう。これからは、私達はそれぞれ異なる道を歩むことになりましょう。あなたはあなたの道を、私は私の道を、自分自身の力で切り開かねばなりません。

これもまた宿命の定めた試練なら、変節などせずにこれを甘受しましょう。逆らわずに、受け入れましょう。これも神の定めたことならば、神の定めの虹色の絨毯の上で、私達は礼拝を捧げましょう。世界の始まりと終わりを司る『漂泊者』達の昔話を憶えていますか。彼ら年老いて孤独な導師達が、世界のそこかしこから私達に導きを与えて下さるかも知れません。いずれは、私達の師である美の許へ、戻って再び奉仕出来るかも知れません」。

こうして、悲哀と愛とは別々の道を辿ることになった。悲哀はカナーンの地を目指し、愛はエジプトの地へと去って行った。

 

第4章
(6) 悲哀の旅は長くはかからなかった。彼はすぐにカナーンの地に辿り着いた。市街に至る門を通り抜けると、悲哀は年老いた人々の中から、幾日かを共に過ごせる仲間を捜した。

たまたま行き当たった路地裏で、偶然にも彼はカナーンのヤコブに出会った。ヤコブの目が彼を捉えた。この見知らぬ旅人の浮かべる表情は、ヤコブにはなつかしく親しみ深いものであったし、そこには明らかに愛の痕跡が感じられた。「こちらへおいで」、彼は言った。「良く来てくれたね、会えてとても嬉しいよ。一体、どこからやって来たんだね?」。悲哀は答えた、「ナクジャーバードのパーカーンから来ました」。

ヤコブは慎み深く両手で寛容と忍耐の絨毯を広げ、その上に悲哀を座らせた。そして彼自身も、悲哀の隣りに腰を下ろした。二、三日も過ぎると、ヤコブはすっかり悲哀と打ち解け、片時も離れてはいられないほどに親密になった。彼は持っている全てを悲哀に与えた。最初に彼が与えたのは彼の視覚だった。

「そして彼はみなから顔をそむけて言った、『ああ、悲しいかな、ヨセフのことが』。彼は憤懣やるかたなく、その目は悲しみのために白そこひになった」(コーラン12章84節)

それから、悲哀の住まう部屋を『悲哀の住処』と名付け、住まいに関わる一切を彼に譲った。

何を怖れることがあるだろうか
別離の悲しみをきみが慰めてくれるなら、
きみが友として傍にいてくれるなら
誰が来てもこう伝えておくれ、
『自分の心臓でも食らうが良い』と
きみが抱きしめていてくれさえすれば
何を怖れることがあるだろうか

 

第5章
(7) 一方、愛は取り乱したままでエジプトへ向った。惑乱は彼の旅路を二倍長引かせた。値からも尽き果てる頃にようやく市街に辿り着き、砂埃が舞い上がる市場に辿り着いた。古ぼけた市場に、愛がその姿を見せた。人々は目を奪われた。その美しさ、麗しさへの賞讃の呟きで市場はさざめいた。

エジプトの地に、激しい喧噪がわき起こった。人々は混沌に陥った。愛は放浪のダルヴィーシュのごとく振る舞った、ただしその顔を隠そうともしなかった。彼はありとあらゆる場所にその身を運び、美しいと評判の青年達の間を往来した。至るところに、彼の愛すべき者を捜した。だが誰一人として、彼の気に入る者ではなかった。

彼は貴人の住まう館の場所を訪れ、ズライハの私室を覗き込んだ。これを見たズライハは立ち上がり、愛の方を見て言った、「一体どれほど多くの愛すべき魂達が、貴方のために犠牲になったことでしょう!どこから来たの?どこへ行くの?貴方を、何と呼べば良いのかしら?」。

愛は答えた、「神聖にして不可侵の住処から。ルーフバードの彼方、フスンの村から来ました。悲哀の住まいとはお隣り同士なのです。旅が私の生業、無我夢中でここに辿り着いた私は何ひとつ持たぬ物乞いの身。一時たりとも、同じところに留まりません。その日、その時毎に異なるところへと向います。

アラブの者と共にあるとき、彼らは私をイシュクと呼びます。ペルシアの者と共にあるとき、彼らは私をメヘルと呼びます。天においては『移ろう者』と呼ばれ、地においては『揺るがぬ者』と呼ばれています。もう随分と歳月を経てはおりますが、それでも私は今もなお若く、何ひとつ持たぬ破産者でありながら、私の血筋は高貴の家系に連なっています − 私についての物語はとても長い、長いものです!

かつて我らは三人の兄弟でありました。何不自由なく贅を尽くして育て上げられ、おもしろおかしく過ごしておりました。私の生まれ故郷や、そこを満たす奇跡と驚異について、たとえ私が聞かせたところで、あなたは決して知ることも無ければ分かることも無いでしょう。

とは言うものの、この地とかの地との間には繋がりがあり、この地はかの地の果てでもあるのです。あなたの住まう領域から、かつての私の領域の間には九つの階梯がありますが、この道を辿ろうという人があるならば、きっと私の話を理解出来ることでしょう。順序立ててお話して差し上げましょう、そうすればあなたにもかの地のことが分かるでしょう」。

 

第6章 − 愛の語る
(8) さて、ここに九層からなる宮殿がある。宮殿の最上部には『魂の都』と呼ばれる天蓋がある。宮殿は『権能』の壁と『威力』の掘を備えている。宮殿へと至る門には門番がいる。その名もジャーウィド・ヒラドといい、彼は若く、それでいて同時に老いてもいる。彼は絶えず旅をしており、それでいて彼は彼の居場所から一瞬も離れることがない。彼はそのような旅の方法を心得ているのである。彼は優れた門番だ。神の書から物語を紡ぎ出す方法を知悉しており、非常に雄弁だが、同時に無言でもある。彼は沈黙を通して語る方法を身につけているのだ。彼は年老いており、だが時の経過とも無縁である。彼はもう随分と昔からそこにいる。とても、とても古くからそこにいる。誰も彼の年齢を知らない。この先も、彼が老いて朽ちることはないだろう。

誰であれ、この都にたどりついた探求者に最初に課されるのは、四つのアーチから切り取った六本の綱を用いて愛の馬具を作る仕事である。熱望という名の駿馬を乗りこなすのに、その背に乗せる『直観的経験』という鞍が必要だ。その他にも馬を手入れする道具、たとえば馬の毛並みを整えるのに飢餓のブラシが役に立つ。また馬を眠りこませないよう、馬の目は苦痛のコフルで彩る。馬具の他に、知識の剣も必要になる。この剣を手にとって、小宇宙への道筋を探し出さねばならない。

彼らは北の方角からここへ辿りつく。彼らは、まずは住まう者のある領域を散策することになるだろう。これは都全体の四分の一に相当する。都に辿りついて最初に目に入るのは、三階建てのあずまやである。

(9) あずまやの一階には二つの部屋がある。一つめの部屋は水の部屋だ。水上に、長椅子が置かれている。長椅子には誰かが横たわっている。それが何ものであるか、湿潤の性質を持つ者であるのは確かだ。湿潤の性質を持つ者は非常に賢明だが、総じて忘却という特徴に支配されている。彼らは、ありとあらゆる問題を即座に解決することが出来るほどに賢い。しかし何ひとつとして記憶するということがない。自分が問題を解決したということさえ、あっと言う間に忘れてしまう。

そのとなりに、二つめの部屋がある。こちらの部屋には、火の上に置かれた長椅子がある。この長椅子に横たわるのは乾燥の性質を持つ者である。乾燥の性質を持つ者は非常に機敏だ。いつも軽快で颯爽としている、だが彼らは往々にして不浄である。彼らの不品行についてそれとなく伝えたとしても、彼らが引喩を理解するのにはかなりの時間がかかる。だが一たび理解すれば、彼らは決して忘れない。探求者が彼に目を止めるなり、彼の方も探求者に向かってよどみなく矢継ぎ早に話しかけてくる。あれやこれやと持ちかけて、探求者をそそのかす。一瞬ごとに姿かたちを変えて気を引こうとする。

行こう、探求者が彼と関わっていても仕方が無い。馬に拍車をかけ、二階へと進もう。

(10) ここでもまた、探求者は二つの部屋を見出す。一つめの部屋は風の部屋だ。大気の長椅子が置かれている。冷たい性質を持つ何ものかが、大気の長椅子に寝そべっている。彼は嘘と混乱を好み、自分では何ひとつ知識を持たないことについて口を出し、批評し、断ずることをこの上ない喜びとしている。

二つめの部屋には、蒸気の長椅子が置かれている。熱を帯びた性質の者が、長椅子に横たわっている。彼は善と悪の観察者だ。時として天使のようでもあり、また時として悪魔のようにも見える。彼の周囲で散見されるものはことごとく奇妙だ。彼は魔術を学び、呪法に長けている。探求者を見ると、彼は近づいてきて世辞を言いこびへつらう。それから探求者の馬の手綱を掴み、馬もろとも探求者を滅ぼそうとする。剣を抜いて追い払え、彼が怯えて逃げ出すまで。

(11) 三階に進むと、探求者は楽しげな部屋を見出す。純粋な大地の長椅子が置かれており、均衡の性質を持つ者が横たわっている。彼は思索に没頭している。彼を信頼し、彼に全てを委ねたもろもろのものが彼の周囲に積み重ねられている。彼が信頼を裏切ることは決してない。もろもろのものから利益が生じる。どのような利益であれ、生じると同時に彼に預けられる。彼がそれを手に取ると、再び新たな利益が生じる。そのようにして、彼の周囲にもろもろのものが積み重ねられてゆく。探求者がその場を去ると、五つの門が目の前にそびえ立っている。

(12) 第一の門にはふたつの戸口がある。どちらも長方形で、アーモンドの形をした座椅子が置かれている。座椅子には黒と白の二枚の布が掛けられている。門は何本もの綱で括られ閉ざされている。どちらの座椅子にも、見張り番がゆったりと腰をかけている。彼は時の流れを見張っている。時の流れの、はるか遠くまで見ることが出来る。

彼はしばしば旅に出る。ひとたび座椅子を離れれば、あっと言う間に目的の場所に移動出来てしまう。ここに到着したとき、探求者がすべきことは「誰ひとりとして門を通すな。ひとたび門に裂け目が生じたなら、すぐさま知らせるように」と見張り番に命じることだ。

(13) 第二の門に行くと、探求者はここでも二つの戸口を見出す。長くねじれた通路があり、戸口は護符で封印されている。通路の突き当たりに円形の座椅子が置かれている。座っているのは消息と情報を操ることに長けた者だ。絶え間なく生じる音という音の全てを、つかんでは持ち帰る多くの使者を従えている。

ここで探求者は、聞いた音の全てを元あった場所へ返すよう命じなくてはならぬ。全ての音に惑わされぬよう、さもなければ全ての音によって滅びるだろうことを告げなくてはならぬ。

(14) 第三の門には、やはり二つの戸口がある。戸口の前の長い長い通路を抜けると、やがて探求者はひとつの小部屋に辿り着く。小部屋には二つの椅子があり、誰かが座っている。彼は『大気』と呼ばれる使者を従えている。

使者は毎日のように世界中を行き来し、どんなに小さなものであれ、良いものでも悪いものでも目ざとく見つけては持ち帰ってくる。小部屋のあるじは、使者が持ち帰ってきたものを取り上げてはまき散らし、また取り上げてはまき散らして過ごす。探求者はここでも、つまらぬ取引に手を出さぬよう、何の役にも立たぬものには関わらぬよう命じなくてはならない。

(15) その場を離れると、第四の門がある。その他の三つの門よりも広く大きい。門の中は真珠の内壁で取り囲まれており、心地のよい泉がわき出している。泉の中心にはあちらこちらへと動き回る長椅子がある。長椅子に座る者は『鑑定人』と呼ばれている。届けられるものを鑑定し、四つに分類するのが彼の仕事だ。夜となく昼となく、忙しそうに働いている。仕事を続けるよう、ただし必要最低限に留めるよう鑑定人に命じて、探求者は次の門へと去って行く。

(16) 探求者は第五の門に辿り着く。都は、この門にぐるりと取り囲まれている。門の前には絨毯が広げられて敷き詰められており、絨毯の上に誰かが座っている。彼は八つ以上のそれぞれに異なる従者を取り仕切っている。それぞれの従者が誰であり、何をしているかもよく弁えている。彼は仕事熱心だ。一瞬たりとも、仕事を怠ることがない。彼は『識別者』と呼ばれている。広げられた絨毯を巻き上げ、門を閉ざすように探求者は命じる。そうして、探求者は第五の門の中へと入っていく。

(17) 五つの門を通り過ぎて、探求者は都へと入る。都の、森の方へ向かってみよう。辿りついてみると、焚き火が燃やされている。焚き火の傍には誰かが座っている。焚き火の上で、何かを料理しているようだ。

一人は、料理にかかりきりになっている。別の一人が、鍋の底から煮え立って浮き上がってくるところをすくい取り、都の住人達に分け与えている。鍋の中味の、軽い部分は痩せた者の、重い部分は太った者の取り分だ。それとは別に、住人達が食べるさまを傍観するもう一人の者が控えている。彼はとても背が高い。食べ終わった住人がいれば、耳をつかんでその場から引き離す。

森には、ライオンとイノシシが潜んでいる。前者は、日々殺戮と蹂躙に明け暮れている。後者は前者からかすめ取っての飲み食いに忙しそうだ。探求者よ、鞍から投げ縄を放て。獲物の首を狙って捕え、これをきつく結びつけたなら、食事の場へと投げ落とせ。それから一目散に駆けだせ。手綱を握る必要はない。馬に全てを委ね、存分に走らせろ。一度の跳躍で、たちまち九層の階梯を飛び越える。

そして探求者は、今や『魂の都』の門口に立っている。すぐに老人がやってくる。探求者に歓迎の挨拶をし、抱きしめ、ついて来るように言う。ついて行くと、そこには『命の水』と呼ばれる泉がある。老人は、探求者に泉で沐浴するように命じる。こうして探求者は不死を得る。それから、『神の書物』について教えを受ける。 −

(18)  − 「さて、この都の上にはさらにいくつかの都があります。それぞれの都へと至る道は例の老人が教えてくれます、どのようにしてそれらの都を見分けるかについても。それらの都については、ここで私がご説明差し上げても、あなたにはお分かりにはならないでしょう・・・私が話してもあなたは信じないでしょうし、驚きの海でおぼれてしまうことでしょう。さあ、私の話はこれでおしまいです。ここまでお話ししたことを理解出来たのなら、今はもうそれで十分といたしましょう」。

 

第7章
(19) 愛が話し終えると、ズライハは、彼が何故故郷を離れることになったのか尋ねた。「私達は三人兄弟でした」、彼は言った。

「年長の兄は美と呼ばれておりました。私と弟を育てたのも彼です。末弟は悲哀と呼ばれており、ほとんどの時間を私と一緒に過ごしていました。私達は皆とても幸福でした。そこへ、突然大きな声が響いて告げたのです、地上界に新たな存在が生じた、と。驚くべきことに、それは天上界と地上界の両方に通じる者であり、精神的存在でありながら同時に肉体的存在でもあるのだ、と。

私達の国に住む人々の、皆という皆がその存在を見たいと、私の許へ相談を持ちかけてきました。そこで私は、私達の長である美に何が起きたのかを伝えました。彼は言いました、『私が見に行こう。あなた方は私が戻るまで待っていなさい。それが私の目に適うものであれば、あなた方に使いを送るから』。私達全員は、美の決定に従うと答えました」。

(20) 「美はアダムの階梯に降り立ちました。そこがとても素敵なところだと知って、美は天幕を張りいつまでも滞在し続けました。私達は美の後を追いました。彼に近づいてみると、彼の中には私達の居場所はなく、再び彼とひとつになろうにも私達は足を踏み入れることも出来なくなっておりました。私達は足場を失い、誰もが隅に追いやられてしまったのです。以来、私達は取り残されたままでおりました。

そこへヨセフの到来が知らされたのです。美がヨセフと共にいるらしいことも分かりました。そこで私と弟の悲哀は、知らせのあった方角へ赴きました。辿りついて見ると、美は確かにそこにおりました、私達の知る以前の彼よりも、より大きく、より優れている様子で。私達は、彼の傍へ近寄ることも出来ませんでした。私達が嘆けば嘆くほど、彼はますます私達を拒み、遠ざけたのです」。

このままではやがて私まで冷たくなってしまう、
やがて私まで過ちそのものになってしまう。
今のあなたは私達の知っていたあなたとは違う、
私達とあなたはここでお別れしましょう。
私達が流す涙も尽きないため息も、
今のあなたにとっては水と空気でしかないのだもの。

 

(21) 「彼が私達のことをこれっぽっちも気にかけてはいないことを思い知って、私達はお互いに別々の道を歩むことにしたのです。悲哀はカナーンの地へ、私はエジプトへとやって来たのでした」。

愛の語る言葉の数々を聞き終えると、ズライハは彼のために館をしつらえ、そこに彼を住まわせた。自分自身の命よりも、彼の方により価値があると考えたズライハは、彼を丁重にもてなした。

日々が過ぎ、やがてヨセフがエジプトにその姿を現した。彼の出現にエジプト中が騒然となり、やがてその知らせはズライハの耳にも届いた。彼女が愛に一部始終を知らせると、愛は思わず彼女の襟を掴んだ。それから、二人そろってヨセフに会いに出かけて行った。

彼を一目見るなり、ズライハは、前に進もうにも一歩も動けなくなった。心の足が驚嘆の石につまづき、彼女はそのまま忍耐の輪から転げ落ちた。彼女は自ら非難に手を伸ばし、貞淑のヴェイルを脱ぎ捨てた。それから、たちまちのうちに憂いの中へ沈み込んだ。彼女の衣に、エジプトの人々は襲いかかった。彼女の味方は彼女だけ。彼女はこんな言葉を口にした。

苦しみの因が私にあるなどと思わないで。
悩み苦しむのは隠せないことを隠そうとするからで、
それは私のせいではない。
人々は、私があなたを愛しているのだと噂する。
彼らは何も分かっていない。
私が欲するのは、彼らが噂する以上のものだ。

 

第8章
(22) やがてカナーンの地に、ヨセフがエジプトの大君になったという報せが届いた。それを聞いたヤコブは切望の念に打たれ、いても立ってもいれれなくなった。ヤコブは悲哀にそのことを告げた。悲哀は、その他の息子達を連れてエジプトへ赴くことがヤコブにとり一番良いことだと考えた。ヤコブは、盲いた自分の杖となるよう悲哀に言い、それから彼の息子達と共にエジプトへ旅立った。

エジプトに着くと、門をくぐって大君の住むという宮殿へ向かった。彼の目に、ヨセフとズライハが共に統治者の座る玉座に腰を下ろす光景が映った。悲哀はそこに、美の姿を認めた。彼は美に目配せをし、それから地に跪いた。

悲哀がその顔を軽く地に触れるように深々とお辞儀するのを見て、ヤコブも、彼の息子達もそれに倣った。ヤコブの姿を見たヨセフは言った。「父よ、これが昔、あなたに告げた私の夢の解き明かしです」。

「父よ、私は夢で十一の星と日と月を見ました。みな私に跪いて拝んでいました」(コーラン12章4節)

 

第9章
(23) 美は複数の名を持つ。ある時にはジャマール、またある時にはカマル。これに関連して、預言者の次のような言葉が伝えられている。

「神は美しく、ゆえに美を愛したもう」

精神の領域であるか肉体の領域であるかに関わらず、全ての存在はその完成を探し求める。美に傾倒する性質を持たぬ者はいない。誰しもが美の探求者であり、美を会得しようと励む。誰しもが美をひとつの到達点と看做してこれを目指す。しかしながら、誰しもが到達点に辿り着けるというわけではない。これは非常な困難を伴うものである。何故なら美との合一は、愛の執り成しを通してのみ可能だからだ。彼が、彼自身との接触の機会を誰にでも与えるという保証もない。美は全ての場所に顕われるものではなく、また全ての目に自らの顔を見せるものでもない。

ある種の僥倖として、美に出会う幸福に値する者が見出されたとしよう。彼は館を一掃するためにまず悲哀を送り込む。以降、他の誰一人としてその館に入ることを許さない。ソロモンの − 愛の − 軍勢が現れた時に、最初にわき起こったのも泣き声である。

「一匹の蟻が言った、『蟻どもよ、ソロモンとその軍勢が、不注意にも諸君を踏み殺すやもしれぬ。みな住まいの中にはいれ』」(コーラン27章18節)

ここで言う『蟻』とは、外的及び内的感覚を指している。愛の軍勢の危害が及ばぬよう、諸感覚を各々の場所に安全にしまい込まばならない。それで愛の軍勢も、滞りなく脳への道筋を辿ることが可能になる。

次に、愛は館の周囲を見回らねばならない。心の小部屋に座する前に、全てを調べる必要がある。調べた上で、いくつかのものは取り壊され、またいくつかのものは再び建て直される。それらは全て、彼の命ずるところが常に最優先されるために必要な過程なのである。この作業には数日を要する。それを終えてから、美のためにしつらえた入り口に向き合って待つ。

探求者の探し求めるものは、実に愛の働きによってのみもたらされる。これを学習したのちは、愛を知るにふさわしい状態へと自らを連れてゆく努力が必要となる。「愛する者」の階梯を知り、「愛する者」の集まりがいかなるものかを知らねばならない。その後に続く驚異を目にするためにも、まずは愛に降伏し、愛の侵入を受け入れねばならない。

虚無主義の憂鬱を頭の中から追い払え
満足を減らし、窮乏を増やせ
愛を師と仰げ、やがて師に追いついたその時に
師は自ら恍惚の舌を通して直々に伝授することだろう
いかに振る舞うべきかについて

 

第10章
(24) 親愛の情緒が極限まで達したとき、それは愛と呼ばれる。

愛は情緒の最も極端に位置する。加えて、愛はその他の情緒と比較してより限定的である。愛は情緒の現われではあるが、かといって情緒の全てが愛であるということにはならない。更に、情緒は認識・知識と比較すればより限定的である。情緒は認識・知識の現れではあるが、認識・知識の全てが情緒であるとは言い難い。

知識は二つの相反する極を生じせしめる。ひとつは親愛、もうひとつは離反である。親愛は、自らに似つかわしく、共に過ごすと心地よい誰か・何かを探し求めている。身体的・精神的いずれかに関わらず、それは「絶対の善」「絶対の完成」と呼ばれる。人間の魂が完成を目指し、到達しようとせずにはおられないのも親愛の働きによるものである。他方は、「絶対の悪」「絶対の欠落」と呼ばれている。価値もなくふさわしからぬ誰か・何かと共に過ごしたがる。しかし人の魂は、常にそれから逃げ出そうとする。それが人の魂の自然だからだ。

自らにとって良いものの方へ引き寄せられるか、自らにとって悪いものから遠ざかろうとするかの違いはあるにせよ、いずれにしてもそこに情緒が生ずることには違いがない。従って第一の階層として知識が、第二の階層として情緒が、最後に第三の階層として愛があると言えるだろう。

第一の知識と第二の情緒の階層を昇る梯子を作り、それぞれの階層を昇り切らないことには、誰であれ第三の階層である愛に辿り着くことは出来ない。知識と情緒の階層の終わりが、愛の階層の始まりである。

知識の階層とは神学者の領域であり、情緒の階層とは哲学者の領域である。愛の階層に辿り着く者は、神学者・哲学者の領域よりも高次の領域にある者である。「愛は誰にでも無造作に与えられるものではなく、ただ愛の領域に辿り着いた者のみが得るものである」と言われる所以である。

 

第11章
(25) 「ishq」(愛)という語は「’ashiqa」から派生している。

「’ashiqa」とは樹木に寄生して育つ蔓草の一種である。この蔓草は、まず最初に大地に根を張る。それから樹木に絡みつき、樹木の滋養を吸い取る。樹木が完全に乾ききって窒息するまで成長し続ける。水と大気を通して樹木が得た滋養の全てを奪い、樹木を枯らす。

人類もこれと同様である。人類すなわち創造の小宇宙は、世界において直立する1本の木のようである。その木は心に蒔かれた霊的な種子と繋がっており、現象界に育つと同時に天上の王国の大地にも育つ。「そこにあるもの全てが、魂の岩と大地の上に育つ」と言われる通り、天上の王国にある全ては魂に育ち、ゆえに魂を備えている。

(26) 心の種子は、永遠の始まりであり終わりである庭師によって植えられる。天上の王国の庭に倉庫があり、種は庭師自らが管理している。

「霊は主のご命令によって生ずる。おまえたちが授けられた知識は、わずかなものに過ぎない」(コーラン17章85節)

人の心は、慈悲深い御方の2本の指の間にあり、御方が望めば、それが何であろうとその通りに動かされる。「水をもってあらゆる生き物を創造した(コーラン21章30節)」とある通り、知の水が注がれ、神の右手が大気を扇いで風が起こると、心に植え付けられた霊の種子から、無数の霊的な枝と葉が育つ。

「イエメンの方角から、慈悲深い御方の息吹が届けられる」という伝承に示されるように、その瑞々しさ、新緑の美しさは息、すなわち言葉によって示されるものである。生成と消滅を繰り返す現象界において「善い言葉」と呼ばれるものは、心に育つ霊的な木の反射である。

やがてこの木が高く育ったころ、いよいよ完成に到達するための過程が始まる。控えていた愛が飛び出してはじけ、この木の水分の、最後の一滴を飲み干すまで蔓を伸ばす。愛がこの木に巻きつけば巻きつくほど、木はどんどん衰弱し、青ざめていく。木と現象界の繋がりを、愛が断ちきってしまうのである。ついに全てが切り離された時、天上の王国の庭に移されるにふさわしく、1本の木は完全に天上の魂と一化する。

「静かに安らぐ魂よ、主のみもとに帰れ。喜び、喜ばれて。われのしもべの仲間に入り、われの楽園に入れ」(コーラン27-30節)

この価値ある霊的成長を促すのが愛であり、愛とは、すなわち倫理的な働きかけである。

「よきことばは神に昇り、よきおこないは神がこれを高くかかげたもう」(コーラン35章10節)

信仰の深さとは、この成長の段階における受容性を意味している。誰それについて「信心深い」と評するとき、それが何を意味するかと言えば「受け入れている」という言葉に集約出来るだろう。

さて、生成と消滅を繰り返す現象界においては、愛の重荷に耐えうるものは何もない。そこで愛は魂については永遠の庭に移すが、身体は再び現象界へ差し戻す。

 

第12章
(27) 永遠の都を統治するスルタンがいる。愛はこのスルタンの王室で育てられた直参の奴隷である。永遠の始まりであり、永遠の終わりでもあるスルタンは、二つの世界を統べる長の執務室に愛を住まわせた。それでこの長は、執務室に住まいつつ、一瞬ごとに異なる方角を巡り、一瞬ごとに異なる方角を見張る。彼が自ら都市を巡る際の手順も決まっている。手順書によれば、彼が都市を訪れるには、その前に牛が犠牲に捧げられていなくてはならない。

「神はおまえたちに、一頭の雌牛をいけにえに供えよ、と命じたもう」(コーラン2章67節)

ナフス(我欲)の雌牛が死なない限り、彼はその町に足を踏み入れない。人間の身体は都市のようである。手足は通りのようであり、血管は通りに沿って流れる水路のようだ。彼の感覚器官は通りに軒を連ねる職人達であり、それぞれに異なる仕事に忙しく働いている。

(28) 身体のナフスは、大暴れして都市を破壊する牛である。牛には二本の角がある。一本は貪欲であり、もう一本はその他全ての欲望である。牛はたいそう魅力的な色をしている。感じの良い、明るい黄色で、その牛を見る者は誰でも満足せずにはいない。

「それは見る人の眼を喜ばせるようなあざやかな黄色の雌牛だ」(コーラン2章69節)

『老いは天の恩寵である』と古い格言は告げる。だがその言葉通り、恩寵を天に要求出来るほどに老いてはいない。また『青春とは狂気の枝である』とも古い格言は告げる。だがその言葉通り、責任の筆を投げ出せるほどに若くもない。何が合法であるかを未だ理解せず、また何が合理であるかも未だ理解していない。楽園を切望することもない。地獄を忌避することもない。

「老いたのでもなく幼いのでもなく、その中間の中年の雌牛である」(コーラン2章68節)

何も知らず、何も学ばず、現実でもなければ、確信でもない。あたかも異教を奉じるデルヴィーシュのごとく、世俗に属さず、宗教にも属さない。いついかなる時に執筆の種が蒔かれるかは誰にも分からない。そこで私は、禁欲的な規律の鋤の刃で自分の身体の地表を耕すような真似はしない。

また既知のものを通して未知を達成しようとも思わない。過去の著者の手による著作を丹念に調べ上げ、推論の水源を探り当て、熟考の桶をもって知識の水を汲み上げるような作業にも興味がない。私は壊れて使いものにならない鋤を片手に、今日も気紛れの畑を絶えずぶらついているのである。

「地を耕し、田畑に水まきしてこき遣われた牛ではなく、健全で疵ひとつない雌牛である」(コーラン2章71節)

このような犠牲に、全ての雌牛がなれるはずがない。このような雌牛が、全ての都市で見つかるはずもない。またこのような条件に適う牛を犠牲に捧げる勇気を、誰もが持ち得るはずもなく、またいつでも成功が与えられるという保証も無い。ひとつの原石が太陽の熱に暖められ、バダフシャーンのルビーか、イエメンのカーネリアンのように変化するには、果てしなく長い時間がかかるのである。

 


Mystical and Visionary Treatises of Shihabuddin Yahya Suhrawardi