参考:コーラン

本棚のてっぺんにあるそれぞれのひとくちメモ。

 


コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)
上、中、下巻とある。読んでいておもしろいコーランならこれがおすすめ。おもしろい、というのは語弊があるかも知れないが実際おもしろいのだから。予備知識なしのまっさらな状態で「読み物」として読めるというのはすばらしい。

ひとつだけ気になっているのは、9章「改悛」の冒頭に、本来ならあるはずのない「バスマラ」が置かれているところ。

コーランの章は全て「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」という、通常「バスマラ」と呼ばれる定型句で始まる。ただし9章だけはこの「バスマラ」がない。もともと8章の一部であったものをのちに独立させて1章として数えるようになった、というのがその理由である・・・と、いうのは、コーラン学習者が比較的早い時期に教わることのひとつなのだけれど。

井筒氏がそのことを知らぬはずがないし、何がしかの根拠があってあえてこのように体裁を整えたのだとしたら、それを解説としてどこかに記さないはずもないように思うが今のところ見たことがない。

気になるのはその一点だけで、これも井筒氏からのなぞなぞだと思えばまた楽しい。最初から最後まで中だるみすることもなく勢いよく読めると思う、少なくとも退屈はしない。

追記:井筒訳がおもしろくて、おもしろ過ぎることに腹を立ててウマル三田翁がコーラン翻訳に着手した、というはなしを聞いた。本当だったらこれほどおもしろいはなしもない。

 

聖クルアーン―日亜対訳・注解 (1982年)
ためしに密林で検索してみたらあったのでびっくりした。

注解、とある通り訳注てんこもり。日本語訳のうち唯一イスラム教徒による翻訳、とされるされてきた一冊。

これもずいぶんと何度も読み返している。私の場合「イスラム教徒(それも通常スンナ派と呼ばれるイスラム教徒)はどのようにコーランを読んでいるのか」「コーランはどのように読まれてきたのか」「何が正統とされるのか(=人間は何を異端としたがり、何を排除したがるのか)」というのを知るために読んでいる。

注釈はYusuf Aliのそれそのままと言っても過言ではなく(実際に訳者自身が冒頭でそう書いている)、これが日本語で読めるのは貴重。版の大きさが二種類あり、小さい方ははんぱなく小さいのでそれだけで頭が痛くなる。せっかく読むなら、大きい方を選んで可能な限り快適に読むことをお勧めする。

 


コーラン〈1〉 (中公クラシックス)
1, 2巻とある。

大雑把な言い方をすれば、井筒訳を動的とするならこちらは静的。近すぎず遠すぎず、淡々と訳してある。細心の注意がそこかしこに払われている。人名は聖書に沿った表記なのでその点でも読みやすかろうと思われる。

日本語訳の中では、個人的にはこれが一番おすすめ。理由はいろいろあるけれど、やっぱりAllah/Godを「アッラー」とせずにすんなり「神」と訳したのはすばらしいと思う。

世の中には多くのイスラム解説本が存在するが、その中に「イスラムにおける神概念は日本の八百万的な神概念とは違う。なので日本語の神という言葉をアラビア語の「アッラー」にそのまま当てはめることはできない。うんぬんかんぬん」みたいな、分かるような分からないような説明書きというか能書きを垂れるものを見かける。その後はページをめくるごとに「アッラー」「アッラー」とカタカナ表記の嵐が続く。

(時にはイスラム教徒自身が「『アッラー』はあなた方が考えているような神とは違うのだから、混同を避けるためにもアッラーと呼べ」と言い出したり、よくよく考えると「多神教徒」的ともとれるねじれた発言をしたりすることもある)

「アッラー」と表記しておけばそれで(イスラムを)理解したことになるのか?逆に「アッラー」と表記することで、「外来」「特殊」のレッテルをぺたぺた貼付けておけば安心、これは客観的な学問の対象です。・・・みたいなことになりかねないのでは?などと考えてしまう。それが良いとか悪いとかっていうのではなくて、まあ個人的にどうしても気になるときは気になるものなのですよ。

*客観的な学問の対象 いや、いっぱいあるでしょ?学問のふりしたプロパガンダみたいなの。

 


古蘭 上巻―文語訳
これは入手できるものならばぜひとも入手して読んでみて欲しい。注釈にしても、ひとつの章・ひとつの節に対して今現在主流となっている解釈とは違った視点が複数紹介されていたりするので非常に勉強になる。またコーランそのものやイスラム教そのものに興味が持てなくとも、少なくとも日本人である限り大川周明やその周辺についてはかじっておいて損はないはずだと思う。

追記:2009年に復刊されました。

 

聖クルアーン〈アンマ篇〉―日・亜・英対訳 (1982年)
コーラン全114章のうち38章を抜粋・翻訳してある。「・・・たたえまつらんアッラーを/そは万有をしろしめし/恵みあまねく慈悲ふかく/さばきの日をぞつかさどる/おんみをこそは崇めなむ/おんみにこそはすがらなむ・・・」と言った具合に、音調を揃えて訳してある。その手があったか!という感じ。

 


Al-Qur’an (Princeton Paperbacks)
訳者のAhmed Aliという人は1908年デリー生まれの小説家・詩人。

なんと言ったらいいのか、非常にエレガント。とてもきれいだ。神には多くの美しい名があるが、そのうち「Latifa:優美なるもの」というのはこういうことか、といった感じ。

注釈は少なめで、全体的には「こうあるべき」に流れがちな法学的な根拠でもって説き伏せる、というよりも、むしろ文学的なところに重きを置いている、ように思われる。そしてその注釈がまたすてきなアクセントになっている。どうすてきかというと、「僕たちインドのムスリムはこういうふうに習ったよ」「君たちはどういうふうに習ったの?」というような声が聞こえてくるような・・・何とも言えず開かれた感がある。ああこのひともコーランを何度も読んだんだ、というのが情景として浮かんでくる。生き生きとしている。閉塞感とか、押し付けがましいところがひとつもない。

あえて数えるとするなら、この訳本を読み直す回数の方がその他の訳本を読んだ回数よりも多いように思われる。美しいだけではなくアラビア語原典との併記式なので照合も簡単で実用的。

追記:レザ・アスランが自室で何かのインタビューに答えてる画面のはしっこにこのコーランの表紙がちら映りしてたのを見た。いいね!

 


The Message: God’s Revelation to Humanity
↑はリバイス版。1997年にインターネット上で始まったディスカッション・グループ(いわゆる掲示板というやつ)の常連同士の寄り合いで翻訳されたもの。注釈なし・参考文献はアラビア語辞書のみ、という条件で訳してあり、解釈は読者に委ねられる。と、言うよりもむしろ「自分で解釈できないなら読むな」ぐらいの勢い。その結果むしろ非常にすっきりして咀嚼しやすいコーランとなった。

 


The Qur’an: A New Translation
この訳も注釈なし・参考文献なしで、そこまでは前掲の「The Message」と同じだけれど、詩的な美しさというか情緒という点ではClearyの方がすばらしい。

更にこちらは訳者の前書きも後書きもない。Thomas Clearyという人は道教・仏教をはじめ東洋哲学・宗教を中心にいろいろと翻訳をしている人(50冊以上!)だそうだけれど、ご本人はなかなかに奥ゆかしい方のようで、どこかの大学で教鞭を取るというのでもなし、前面に出てくることがない。宮本武蔵の評伝なんかも書いてるらしいし、日本語文献もあれこれ翻訳している人のようだ。これと「The Essencial Qu’ran」を併せて読むのがおすすめ。

 


The Message of the Quran
これは逆に参考文献てんこもり、参照てんこもり。そして訳者のムハンマド・アサド自身の解説(タフスィール)が質量ともに圧巻。これだけでもいい。

以上が翻訳のもの。個人的に一番おすすめなのはやっぱり中公クラシックス!

英語のものはYusuf AliだとかPikthallだとか有名どころならウェブ上でいくらでも読める。書籍なら一体どれだけ世の中にあるのだか、どれだけ多くの言語に訳されているのだか見当もつかない。今ちょっと気になっているのは、2年ほど前にラレ・バフティヤルというイラン系アメリカ人女性が訳したコーラン。彼女自身の著書はいくつか日本語訳にもなっているので名前を知っている人も少なくないと思う。

追記:これです

The Sublime Quran
いたって普通です。いい意味で言ってます。

アラビア語のものであれば、サウジアラビアで印刷されてる緑色の表紙の単行本サイズのもの(巡礼者用に配布しているらしい)、これが大きさも重さも手頃だし字体も装飾が少なくシンプルで読みやすいので重宝している。音読練習を兼ねて読むなら、個人的にはこれが一番おすすめ。

パキスタンのものは文字そのものがとても曲線的。トルコのものは筆記体というか単語ひとつひとつがカタマリになっていて、(ホジャは「トルコのコーランが一番美的に優れているのだー」とえばってた)読めないことはないものの、ちょっと私には難しい。少なくとも気軽に毎日読む、というわけにはいかなくなってしまう。

発音記号の置き方がそれぞれ微妙に違っていたりする(こともある)が、大きく意味がずれるということはない。はず。