引用:『イスラーム文明史』

イスラーム文明史
イスラーム文明史 ― 政治・宗教・文学にわたる七章 (1968年)

目次はこのような感じ。

イスラームの歴史的一考察
イスラーム宗教思想の構造
イブン・ハルドゥンの政治理論にみられるイスラーム思想
近代アラブ文学の動向
中東における西洋文化への反撥
社会改革 –– イスラーム的民主主義の探究におけるファクターX
現代史研究の諸問題

以下は「イスラーム宗教思想の構造」から。


イスラームが古代アラビヤという特殊な「アニミズム」社会に取り囲まれ発生したことは、イスラーム史にとって基本的に重要な事実である。いうまでもなく、その宗教は古代アラビヤ社会内部に発生したのでもなかったし、またその外部に発展したのでもなかった。反対に、本質的には、アラビヤの「アニミズム」に対する反抗であった。しかしなおそれは、かなりの程度まで、その環境のもつ色彩を反映せざるをえなかった。……

超自然的なものにこのように緊密に取り囲まれた世界においては、神的存在はきわめて親近性の強いもの、身近なものに感じられた。このことは一見して、かれらが特に反映しているような、またその生活の物質的条件がかれらに強いるような、強烈な現実主義的態度と矛盾するようにみえる。マクドナルド D. B. Macdonald は次のように述べている。「アラブは容易に信じ込むどころか、冷徹で、物質主義的で、万事に疑い深く、自分たち自身の迷信や慣習を冷笑し、超自然的なものを好んで試そうとする態度を示す。それもまったく軽率そのものの、ほとんど小児的なかれらの流儀である」(Religious Attitude and Life in Islam, p. 4.,)。しかしなお矛盾は形式的に過ぎず、懐疑主義と盲信性は今日における多数の事例が明瞭に証明しているように、同一の貨幣の表裏の関係なのである。……

さて、イスラームとアラブ族がアラビヤの地から外部世界に流出して、西アジアとイランに拡大した場合、古代オリエント文化を継承し、ゾロアスター教、キリスト教、ヘレニズムの信仰を遺産として担う諸民族と接触・対抗した結果、アラビヤの「アニミズム」の影響が交代したであろうと一般に推測されることであろう。この問題は今日なお十分研究されておらず、ここに結論を述べたとしても個人的印象としての価値しかもつものでない。しかしいくつかの事実は明白であると考えられる。それらは古代オリエントの諸民族のあいだでは、公式の儀礼・公式の宗教の存在にもかかわらず、原始的儀礼・行事、および「アニミズム」に根源をもつ民衆信仰のきわめて大きな基礎がそこにはなお存在していた。これらの信仰・行事がイスラーム教徒アラブの観念複合体に対立する場合(たとえば、農耕民族のあいだの豊穣儀礼のような)、イスラーム教徒アラブの衝撃力が、少なくともイスラームへの改宗者のあいだからは、事実上それらの儀礼を追放した。それに対して、たとえば占星術の信仰のように、アラブの「アニミズム」と容易に調和可能な場合には、両潮流は合流し、相互に補強されることになった。……

ここでわれわれは、「アニミズム」的宗教と「アニミズム」的シンボルとを区別しなければならない。諸宗教はすべて、本来「アニミズム」の儀礼・信仰に結び付いていたシンボルを保持している(またそうする必要がある)。すべて宗教の発展の場合、偉大な宗教教師はいずれも、直観的な宗教的感覚を生み出す源泉である想像力を刺戟するのに役立つシンボリズムを破壊しないように慎重な態度をとった。かれら宗教教師派ただそれらのシンボルに新解釈を与え、それらのもつ精神的・知的意味を完全に変容して、それから「アニミズム」の遺産をきれいに取除いた。したがってわれわれの作業のうえでは、「アニミズム」的連想をなお伴なっている「アニミズム」のシンボルと、そこから新しい、高度の意味を獲得したシンボルとのあいだを画さなければならない。シンボルがつねに、必然的に、原始的連想をともなうと仮定する説は、もっとも未熟な唯物論というべきである。このようにみれば、キリスト教の聖餐式が寺院での供犠と異教的な共食を置換したものであると同様に、イスラームにおける「黒石」崇拝は、本来「アニミズム」のシンボルであったとしても、マホメットによって、唯一神の礼拝に結びつく儀礼に置換されたものである。……

このような俗信の頑強な存続が意味するものは、近代の西欧・北米では無視されており、せいぜい不完全にしか認識されない。イスラームの内外を問わず、自然界の過程を合理的に理解することができるようになったものが、かれらを軽蔑することはいたって容易である。しかしかれらを軽蔑するだけでは、それら信仰の影響力や潜在力を看過することになる。第一に、それらが示す宗教的態度・宗教的観念と異教時代のアラブの「アニミズム」とのあいだには、きわめて明白な親近性がある。それらに対する現代のイスラームの姿勢と役割は、マホメットの時代のそれと事実上同様である。この状況にはなんら新しいものも、不測のものもない。それは数世紀間にわたってイスラームの教師が直面してきた問題の連続性と単調さの現状版であり、とくに顕著な例証を示してくれるにすぎない。その歴史と地理の条件からイスラームはその起源においても、同じく後期の発展においても、キリスト教が直面したような懐疑論や、自信にあふれる理性の洗練された不信仰とではなく、むしろ単純な「アニミズム」の非合理性といっそう直接的に、また終始して取り組まねばならなかったのである。

しかしわれわれはこのような俗信だけを取り挙げて、「アニミズム」が唯一のまたもっとも危険な遺産であるというのでは決してない。「アニミズム」的基層がイスラームを告白する諸民族に特有のものでないことは改めてこの機会に強調するまでもない。「アニミズム」はその恐怖感、その非合理性、その豊かな想像的な力を伴なって、あらゆる歴史的宗教の下意識に横たわっている。なぜならば「アニミズム」は五千年の宗教史の背後に続く五十万年の人類史の遺産の紛れもない一部であるからである。われわれの意識の背後に絶えずつきまとうこれらの原始的残存を規制し、統制することこそ、宗教の根本的役割たるべきである。「アニミズム」的な衝動は、宗教の指令なしでは全く主観的で、無秩序におちいったままになるが、宗教の内部で、また宗教を通じて現世利益的でない目的に向かって統制され、方向づけられるようになり、「アニミズム」的態度のなかにきわめて大きく気味悪く迫って感じられる非合理的なものに対する恐怖感は、倫理的・宗教的な崇敬に転ずるようになる。宗教が「高級化」すればするほど、すなわちその思想の概念が普遍化すればするほど、「アニミズム」の残存がもっとも強くあらわれる現世利益的なものから、普遍的目標にむかって、宗教的想像力が転換されるのである。

しかしこれはただ宗教によってのみ達成できるのである。なぜならば宗教はそれ自体、本質的に想像力の営みに根源をもち、その一部であるからである。それに対して理性は、これらの衝動に作用する宗教の統制力を補強するもので、また現実に補強しているが、理性は単独ではそれらの非合理的衝動を統御することはできないし、ましてそれらを転換させることはできない。その理由は創造の営みが理性からはっきりと独立したものであるからである。もし理性が単独でそれに対する統御力をひきうけようとするならば、すべての経験が実証するように、想像力の衝動はもはや宗教の諸勢力と直観に導かれる豊かな精神的発展をもたらす流路(チャネル)に流れ込まなくなってしまい、その衝動はどの民族の場合にも、暴力的・狂想的な形態として噴出し、理性のもつ大きな力にもかかわらず、もっとも非合理的シンボルに固執するようになってしまうのである。……

……マホメットの果した革命は、自然主義的附着物をすべてアッラーの概念内容からとり除き、単なる至上神としてだけでなく、唯一神として表わし、さらには、人類およびジンヌを含み、天と地、およびその中間にあるものの創造者として、同様に人類とジンヌに彼らのすべての行為の決算を迫る最終の審判者として提示したことであった。

このようにして、一撃のもとに、アラブ族の宗教的視野は、可視的な、現世利益的な対象をはるかに越えて、超視覚的で、全能な、超越的存在者へ高められた。しかしそれだけではあまりに不安定で、明らかに宗教として不十分であった。アラブ族の精神ではそれまで想像も及ばないような新しい高い観点に神観念を維持し続けるためには、それに適合した宗教的概念、および宗教的態度をもってそれを支える足場を築かなければならなかった。これこそ、どの独創的思想家もすべて直面したと同様に、マホメットが直面した主要な課題であった。一民族の宗教生活と宗教思想の全体が改造されなければならなかった。この改造を必要としたのは単にアラブの民の側だけでなく、何よりもマホメット自身の側であった。マホメットの側からは、この宗教の改造は上から下に向かって進められた。すなわち至上の審判者・全能の創造者としてのアッラー観から出発して、かれらアラブ族がついにマホメットと信仰をわかちあうことができるところまで上昇できるように、必要な段階をかれは一歩一歩、直観的に下降して辿った。

コーランは、宗教思想のこのような改造過程の記録であり、またそのための道具とみることができる。そこには二つの側面が見分けられる。一つは、否定的側面で、祈祷および信仰内容からあらゆる「アニミズム」的連想を根絶させることに関係するもので、他は全世界とそこに含まれる万物に関する観方を積極的な一神教的解釈に置換することであった。これらの三側面をコーランの教えのなかに、ある程度まで明白に区分することができる。特定の部類の動物の供犠、あるいは卜占のために矢を射ることの禁示は紛れもなく前者の例であり、神の世界創造についての強調は判然とした後者の一例である。

しかし大部分の場合には、これら両側面は相互に結合してあらわれる。すでに第一章の結論として提起したように、このような両者の関連は単に当然の成行きであるだけでなく、しかもそうしない限り真に効果的たりえないものである。他宗教の宗教的教師にすべてみられるように、マホメットもまた、新しい未知の観念体系をその同胞の精神に押しつけるようなことは決してすることなく、アラブの民の宗教的シンボリズムを保持して、かれらの想像力を刺戟する力をそのまま継承しようとしたのである。ただしそこで「アニミズム」の枠組が一神教的な基準へと切換えられたが。……

イスラーム史において、科学的な精神の持主はその態度をギリシャ思想の遺産によって決定され、そのような万物支配の力を、自然法則に見出すようになる。これはつぎには宗教的直観によって、「神の法」と同一視されるようになる。マホメットの場合、その直観力はギリシャ思想によって限定されておらず、およそ自然法則のような概念を絶対的に排除して、万物の支配力を、ラー・シャリカ・ラフ la sharika lahu 、すなわち神とならぶようなどのような連合的存在によっても限定されない単一の、全能なる神の人格に見出した。この問題がマホメットにとって決定的な意味をもっていたことは、コーランがキリスト教の三位一体論を含めて、神との連合のどのような想定も宗教的罪、 shirk としてもっとも強く非難したことから明白である。コーランの教えが一旦受け入れられた以上、当然のこととして、たとえば星辰信仰のような他のあらゆる信仰形態が衰退の一途をたどることになるからである。……

……宗教がすべて根底において、宗教心理の想像的生活と結合している以上、宗教は感覚・感情に対してなんらかの訴える力をもたない限り、精神内面に接触することはできない。もし感覚が鋭敏でなく、儀礼とシンボルがいかなる情緒的反応も喚びさまさないならば、宗教は一つの神学的・倫理的教義として成立するとしても、精神作用と直覚力を欠如することになる。

イスラーム教徒の場合にも、事情は全く同一であった。コーランが人間の心を感動させ、人間の生活に一定の型を与える力をもつことができるのは、その教説と告知の内容だけによるのでなく、コーランの活き活きとした言語がかもす雰囲気によるのである。旧約聖書の預言書と同様に、コーランは、形式的に韻律に規則的に拘束されてはいないが、詩の言語で語っている。ここにいう詩が、言葉をあたかも魔術のように配列して、そのなかの言葉が精神内面に反響し合い、精神内面をみる眼がはるか遠方まで見透すことができる展望をきり開き、精神を物質的世界から飛翔させ、突如として燦然たる光を射して照り輝かせるような精神の昂揚をつくりだすものをいうとしれば、コーランはイスラーム教徒にとって、まさしくそのようなものに該当するものである。このような理解がたんなる著者の抽象的考察でないことは、個人的体験からだけでなく、イェジャーズ i’jaz すなわちコーランの無比性、ないしは奇蹟の教理が、コーランの実質的内容についてよりも、その芸術的・審美的性質に主として基づいていることから証明できる。……

……マホメットは、アラブ族の「アニミズム」を、超越神と神が創造した物質的世界とに直面させることによって、またどのような被造物の崇拝も禁止することによって、破壊しようと企図した。それと同時に、マホメットは、自分の神秘的体験から、神はまた神秘的な表現し難いかたちで、神の創造した世界に在ることを語った。正統的神学は、このうち前者の側面を誇張し、後者を抑圧した。スーフィズムは、初期には、後者の真理をあわせて主張し、哲学的にこのような真理の二重性の定式化を追求しようとした。しかしながら、時代を下るにしたがって、とくに民衆宗教的形態において、スーフィズムは、世界における神の内在を、「アニミズム」的な神の勢力観や、物質的諸対象と諸人格に本来属する諸性質と同一視するようになり、さらに、世界における神の内在を、神における世界の内在に置換することにより、またすべての物質的事物は神のあらわれであると主張することによって、超越的な創造主たる神の存在を、神の内在論に合致させようとした。このようにして、神の内在性を否定した正統派の立場が、スーフィズムを反対の極端な主張に追いやることになったのである。……

……後期の制度化したスーフィズムは、初期のスーフィズムが抗議し、拒否した神と人間とのあいだの中間的権威を再導入しただけでなく、しかも、はるかに低俗な水準で再導入したのである。もはや崇拝、および権威は、普遍的で、合理的に理解可能な対象に集中されるものでなくなった。それに代って、スーフィーは熱狂的な、あるいは忘我にふけるおびただしい数の個人の支持に従わねばならなくなり、混乱に投げ込まれた。それらのスーフィーの師匠の教えは、不安定な主観的直観主義に基づき、多くの場合、相互に著しく相違し、またコーランの言葉からも遠く隔たった。

聖者となる要件はなにか。真のものを虚偽のものからどのようにしたら区別できるか、また純粋に神に陶酔したものを、信心を装った贋者からどのようにして区別することができるのであろうか。

これらの問いのすべては、自ら師匠を名のり、あるいは周囲から師匠とみなされる人物の資質と識見の如何にかかわる問題であるため、後期イスラームにとって決定的な問題であった。しかしこれらの問いは、黙殺されたのであった。というよりも、むしろ、下意識に依然として保持されてきた「アニミズム」が洪水となって、それを抑えていた堤防を打ち破って流れ出て、大きな流れの勢いとなり、それが正統的スーフィー自身も抑制できない流れとなったために、スーフィズム自身が押し流されてしまったという事実から、上の問いの回答は、自ら脱落してしまったといわなければならない。……

大教団の一般的な穏健さよりも、イスラーム世界の全地域、およびイスラーム教徒社会の全階層に栄えた広汎な俗信のほうが、観察者の注意を集めやすいことは、つねに見られるところである。しかし俗信とは、信仰を衣服にたとえると、そのふさのようなものであり、絶えず自己回復する核をとりまく果肉のようなものといってよい。活きた信仰はどれも、それが宗教信仰に限らず、政治的。経済的・科学的信仰であっても同様に、自分の核の周囲に俗信の外郭をつくりあげるものなのである。……

しかしながら、スーフィズムに附着した俗信形態がどれほど多量で、雑多なものであるとしても、それが活きた信仰の種子を蒔くための土壌をつくったことのほうが重要であった。イスラームの支配下のどの地域においても、正規のイスラーム教徒であるにせよ、スーフィーの努力でイスラームに改宗した新改宗者であれ、住民は、自分たちの本能的な宗教的態度に訴えるスーフィーの魅力を通じて、モスク、説教僧、神学校(madrasah)に結びつきを見出し、正統的制度の影響範囲内に導かれるようになったのである。……

……正統的宗教制度が部分的にはその硬直性のため、また部分的には世俗的権力とのままならぬ妥協のために、一般イスラーム教徒の心情と意志を動かす力をほとんど喪失したとき、スーフィーは、共同体的崇拝に人格的に参加して得られるような親愛感を提供しただけでなく、イスラームの教理に力と深遠さを与えた。イスラームの教理は、スーフィズムなしには、ほとんど活発でなくなり、外在化したことであろう。歴史的にみても正当化されることであるが、十三世紀から十八世紀にかけて、比較的狭少な範囲の人々を除いて、正当的イスラームがなんらかの意味で宗教の名に値するものとして生存することができたのは、スーフィー教団から栄養物を吸収することができたからにほかならない。

事実上、正統的ウラマーはスーフィズムの極端派や、道徳律廃棄論の常習者につけこまれたような弱点に対して大半の責任を負わなければならない。ウラマーが社会から超然とする度合が甚だしくなるとともに、正統派と民衆的な宗教的欲求とのあいだに均衡を保つ役割を、ウラマーは正規の教団の指導者たちの手に引渡したのである。これら教団指導者の貢献は、現代のイスラーム世界でこそ正当に評価されるにいたっていないが、同時代のイスラーム教徒に対して、誠意と熱情を尽くして、奉仕した。もっともその事業は、かれらスーフィー指導者が独力で達成できる範囲をはるかに越えるものであったが。

それに対して十九世紀に起った反動は、ある程度までについては有益であった。しかしその反動は、次の二潮流が合流したため行き過ぎるようになった。その一つは、主として復古的改革者に代表されるもので、かれら復古派は、正統派の原則と、自称イスラーム教徒の大部分のものの実践とのあいだの溝を知って衝撃をうけて、一挙に行動を開始した。他は、近代的訓練と階層的傾向からイスラームの伝統から次第に分離した近代的軍人階層と新興都市中間階層に発生したもので、かれらのリーダーシップを通じて、すでに西欧で著しく進行していた精神内面の枯渇化の過程がイスラーム教徒の世界に拡大しはじめた。

前者の復古運動は、イスラームの宗教的価値を原型のまま維持しようとして宗教改革を志向した。後者は、文化的後進性のしるしとして映ずる俗信の残存に過度の反感を示した。後者の場合、俗信と宗教的価値を区別することが不可能なことには同情できるが、前者の場合、その字義通りの教義論と見解の偏狭さは、初期の正統的スーフィズムの貴重な遺産と歴史の真の教訓のいずれをも全く考慮しないものであり真正の宗教経験の表現をも排除しようと決意しているようにも見える。このように両者は、よいものも悪いものも、一緒くたに鋤き返して、新しい、致命的な俗信の作物しか産出できない世俗的文化の種子を畑に蒔くために協同したようなものであった。重大な危険はこの点にあるのである。もしスーフィズムの儀礼と実践を根絶することによって、改革者たちが、一方で神の愛についてのスーフィーの直観を破壊し、他方では宗教自体の源泉を枯渇させるならば、そのような改革は、はたしてイスラームと人類の宗教生活を利するといえるであろうか。