試訳:「ウスマーン暗殺の顛末」


Classical Islam: A Sourcebook of Religious Literature
コーラン、ハディース、預言者伝、コーラン解釈に教義解釈、神秘主義といったテーマ別に、古典と呼ばれるイスラム原典文書群をきれい&ていねいにまとめたタイトル通りの御本です。とても便利だし、それにこの宗教の成り立ち・生い立ちをともかく「おおづかみ」につかむのには最適であるかと。

以下は「形成と蒐集の歴史」と題された第一部の”4 Religious history”から、”4.5 Al-Suyuti on the assassination of Uthman”を。

 


解説
ジャラールッディーン・アル・スユーティー(1445-1505)は多作の博学者として知られる。時系列的に見て、まさしく古典イスラム期の終止符上に位置する著述家と考えられるだろう。彼の生涯は、イスラムという宗教が自らを定義するのにより慎重になり、境界の強化と統一に注力し始める時代と確実に一致している。何よりも、彼自身の著作がそれを象徴している。

イスラム学修の、ほぼあらゆる専門分野に渡って可能な限り簡約化しようというアル・スユーティーの試みは、彼をして総数約五百もの厖大な数の著作を書かせることとなった。彼に帰されるテキストは、数の上では全イスラム世界の著述家の中でも最大と呼べる。異なる分野の問題に言及するにあたって、彼はしばしば構成に若干の変更を加えるのみで、既に語られた題材を再利用するなどしている。彼はカイロに生まれ、人生の大部分をカイロで過ごした。彼はファトワを研究し、法的な意見を求める人々に対して研究の成果を提供するなど、法律家としても非常に精力的に活動した。

アル・スユーティーのTarikh al-khulafa(『カリフの歴史』)は、その他の彼の作品と同様に、多種多様な情報源からの抜粋によって記述されている。全体としてはよくまとまった、信頼度の高い作品に仕上がっている。これをもって、彼を独創性に欠けていると看做したり、あるいは剽窃者とさえ見ることも可能ではあるだろう。だが仮にそうであったとしても、編集の手腕については瞠目すべきである。何を切り捨て何を残すかという判断に、高度な編集能力が要求されることについては、他の何をおいても強調されねばならない。歴史を蒸留して時代を要約しようと試みる作業そのものから、まさしくその時代が抱える懸念(何をもって最重要課題としたのか)とその結末(何をもって解決策としたのか)が明らかにされるのである。

とは言え、それと同時に全体的な物語を再構築するという目的のために、歴史において既出の事実を編纂するのがアル・スユーティーの仕事であり、それは個々の原作者の意図を反映するものではない。アル・スユーティーの作品に、彼よりも前の時代に記述されたテキスト群への入門書としての価値のみを与えるという判断もあり得るだろう。実際に、アル・スユーティーは彼の主目的の一つである輝かしい過去の偉業を遺産として保持することへの願望を隠そうとはしない。彼にとって彼の生きた時代、彼の住まう世界では、そうした貴重な宝は徐々に失われつつあるか、あるいは無視されるかのいずれかであり、彼の著作はそのような時代の傾向に応じたのである。

アル・スユーティーのTarikh al-khulafa(『カリフの歴史』)は、後世のイスラム社会の大多数が自らの歴史として承認した構図そのものである。「正しく導かれた」四人のカリフについて年代順の記述があり、それからウマイヤ一族出身のカリフ、アッバース朝の概観とエジプトにおけるアッバース朝カリフ、スペインにおけるウマイヤ朝カリフ、アラウィー朝、スペインにおける第二ウマイヤ朝、ファーティマ朝、それからほとんど知られていないがペルシアにおける二つの王朝が後に続く。

ここで訳出したのはカリフ・ウスマーンの暗殺に関する部分である。その記述は、イスラム的な自己像と神学の双方を揺るがしかねないほどの重要な事件に集中している。コミュニティにおける、然るべき構成員の資格とは何かを論ずるのに、これ以上はない典型的な出来事と呼べるだろう。同じ題材を扱うものとして比較するのに有効なテキストは下記の通りである:

Tarikh al-result wa’l-muluk, al-Tabard, M. J. de Goeje(ed.), Leiden 1879–1901.
The history of al-Tabari volume XV: the crisis of the early caliphate, R. Stevens Humphreys (trans.), Albany NY 1990.

 


一.(ヒジュラ暦)三十五年目に、ウスマーンの暗殺が起きた。アル・ズフリーによれば、ウスマーンは十二年間カリフの地位にあったという。彼の在位中、最初の六年は誰一人として彼に対し否定的な感情を持つ者もなかった。殊に先代カリフであるウマル・イブン・ハッターブ在位中にひどい扱いを受けていたクライシュ族の人々などは、彼の方がより好ましいとさえ思っていたほどである。統治者となったウスマーンは彼らに対して温情をもって接し、親密な関係を築いていた。

しかしながら、彼は次第に注意散漫になりその義務の遂行もおろそかになり、次の六年の間には、彼に近しい者たちや彼の一族の人々ばかりを高い地位に就かせるようになった。

彼はアフリカから得られる歳入のうち、五分の一をマルワーンに渡した。彼の親類縁者には、王朝の資産から贈与した。こうした行いについて、彼は神が命ずる贈与であると弁明した。「本当に、アブー・バクルとウマルは、彼らが為すべき事柄を怠っていた。私はただ、彼らのかわりに私の一族にそれを分配したのだ」。彼の行いを、人々は承認しなかった。私はこれを、イブン・サアドから聞いた。

二.イブン・アサーキルによれば、さかのぼればアル・ズフリーに帰される別の伝承があるという。それによると、彼はサイード・イブン・アル・ムサッヤブに尋ねた、「ウスマーンがどのように暗殺されたのか話して下さい。彼と人々の関係や、状況はどのようなものだったのでしょうか?なぜムハンマドは、彼を見捨てたのでしょうか?」。

イブン・アル・ムサッヤブは言った、「ウスマーンは不当に殺された。彼を殺した人々は誤っている。それなのに、彼を見捨てた人々には咎めもなく見逃されている」。私は言った、「それはどういうことですか?」。彼は言った、「自分の一族を優遇したというので、ウスマーンの同胞達のうち幾人かが彼を侮蔑し軽んじた。彼は十二年間に渡って人々を統治した。ムハンマド(・イブン・アビー・バクル)の同胞たちは、何ごとにも賛同せず文句をいうばかりだったが、それでもウスマーンは彼らに満足し、彼らを放逐したり退けたりすることもなかった。

この六年、ウスマーンは彼のおじの子供たちを重宝していた。彼らを尊重し、彼らの能力を高く評価してもいた。そして統治は彼らに任せていた。誰一人として彼らの目付け役がいるわけでもなく、彼らに対して「神を畏れよ」と忠告できる者もいなかった。エジプトの人々は彼の不満を言い、彼に怒ってもいた。それ以前に、ウスマーンと、アブドゥッラー・イブン・マスード、アブー・ザッル、アンマール・イブン・ヤースィルの間に意見の相違と不和の種があった。

エジプトの人々は、彼らを治める首長イブン・アビー・サルフについての不満を申し立てた。ウスマーンは、彼に宛てて警告と威迫の手紙を書いた。しかしイブン・アビー・サルフは、ウスマーンが彼に命じた禁を受け入れることを拒否した。彼はウスマーンからの使者と、ウスマーンに不平を申し立てたエジプトの人々を攻撃した。そして、彼は彼らを殺したのである。

それで七百人の人々が徒歩でエジプトから脱出した。彼らはメディナのモスクへ押しかけ、イブン・アビー・サルフが彼らにした仕打ちについて、祈りの場所で同胞たちに訴えたのである。タルハ・イブン・ウバイドゥッラーがやって来て、厳しい調子でウスマーンに進言した。

それからアーイシャが彼の許へ送られてきた。彼女が言うには、「ムハンマドの同胞たちがあなたの許へやってきて、あの男を退けるよう願い出たのに、あなたはそれを拒んだのです。彼らの仲間はあの男に殺されてしまったではないですか!あなたが任命したあの男に対し正義を下しなさい!」。

それからアリー・イブン・アビー・ターリブが彼の許へ行き、こう言った、「彼らは、殺された者の代償として一人の男の命を差し出すよう言っています。流された血の復讐として、彼らはそれを求めています。彼らの統治者を務める男を解任してください。そして彼らの間に和解を命じて下さい!血の復讐については、それを負う義務が彼にはあります。彼らの言い分に、彼は応じなくてはなりません。ですからあなたは、それについて公正に行わねばなりません」。

ウスマーンは彼ら(エジプトの人々)に言った、「あなた方を治める首長として、誰が適任であるか選ぶがいい」。彼らはムハンマド・イブン・アビー・バクルを指名し、口々に言った、「我らの上に、ムハンマド・イブン・アビー・バクルを任じてください!」。そこで彼は、彼の名においてムハンマド・イブン・アビー・バクルをかの地へと任じた。大勢のムハージルーン(移住者たち)とアンサール(援助者たち)が、エジプトの人々とイブン・アビー・サルフの間に何が起こるかひと目見ようと彼らと共にかの地へと向かった。

ムハンマド・イブン・アビー・バクルと、彼と共にいた身内の人々もかの地へと旅立っていった。メディナを離れて三日間旅をした後に、彼らは駱駝に乗った黒人の奴隷が早駆けで進むのを見た。まるで何かを捜して追っているか、あるいは彼が捜され追われているかのようだった。ムハンマドの身内の人が彼に話しかけた、「どうしました?何かあったのですか?あなたときたら、まるで逃げているか、捜しているかのようです!」。彼は答えた、「私は信者たちの指令者(ウスマーン)の奴隷です。彼に命じられ、エジプトの首長殿の許へ行くのです」。身内の人は言った、「これこそがエジプト首長の一行だぞ!」。奴隷は答えた、「いいえ、違います」。

この出来事に気づいたムハンマド・イブン・アビー・バクルは、その場へ手勢を送り込んだ。彼らは奴隷を捕らえて、ムハンマドの許へ連れてきた。ムハンマドは言った、「奴隷よ、おまえは誰か」。「私は、信者たちの指令者の奴隷です」と彼は答えた。しかし再度問われると、今度は「私はマルワーンの奴隷です」と答えた。誰がウスマーンの手の内の者なのかが、これで初めて知られることになった。

ムハンマドは彼に言った、「誰宛の使者か?」。彼は言った、「エジプトの首長の許へ」。彼は言った、「何を持たされている?」。彼は言った、「書状を」。ムハンマドは尋ねた、「それで、書状はどこにあるのか。おまえが持っているのか」。「いいえ」、彼は言った。人々は彼をくまなく探ったが書状は見つからない。しかし奴隷の持ち物のうち、水差しの中に小さく押したたまれた何かが入っているのを見つけた。水差しをさかさまにして振っても、それは出てこなかった。そこで彼らは水差しを叩き割った。出てきたのは、ウスマーンからイブン・アビー・サルフ宛の書状だった。

ムハンマドは移住者たち、援助者たち、その他もろもろの人々を集めた。それから彼らの目前で、彼は書状を開封し読んだ。「ムハンマドと何某と何某が貴殿の許へ到着したならば、すぐに殺害計画を立てよ。彼に対する首長の任命は無効であると宣言せよ。そして私からの指示が届くまで、首長の地位に座し続けよ。汝について吾に対し不平不満を申し立てた者どもを捕えて牢獄につなげ。神が望み給うならば、吾が書状は汝の手許に届くだろう」。

書状を読んで、彼らは恐怖し混乱した。そこで、彼らはメディナに戻ることにした。ムハンマドは彼の同胞たちを示す紋印で書状に封をし、彼の手の内の者にそれを預けた。それで書状もまた、メディナへ差し戻されることになった。メディナで彼らは集まった。タルハ、アル・ズバイル、アリー、サアド、その他にムハンマドの同胞達もその場に集まった。彼らの目の前で書状は再び開かれ、彼らは奴隷の一件を知ることとなった。

彼らは手紙を読んで聞かされた。メディナの人々の一群は、ウスマーンへの怒りを禁じ得なかった。現状に不満を持っていたイブン・マスード、アブー・ザッル、アンマール・イブン・ヤースィルといった人々は、その怒りをますます強めることになった。その他のムハンマドの同胞たちは、それぞれ自分の館へと戻った。書状について、それに書かれていたことは彼らを悲しませた。

こうしてヒジュラ歴三十五年、人々がウスマーンを取り囲んだ。ムハンマド・イブン・アビー・バクルはタイイム一族と共に隊列を組んで彼に立ち向かった。それを知ったアリーは、タルハ、アル・ズバイル、サアド、アンマールとその仲間たちを呼び寄せた。彼らは全員、バドルの戦いを戦った者たちだった。

それから彼は書状、奴隷、奴隷の乗っていた駱駝を連れてウスマーンの許へ行った。彼は言った、「これはあなたの奴隷ですか」。彼は答えた、「そうだ」。アリーは更に言った、「これはあなたの駱駝ですか」。彼は答えた、「そうだ」。アリーは更に言った、「これはあなたが書いた書状ですか」。

「違う」、ウスマーンはそう答え、それから彼は書状を書いたのは自分ではない、と、神の名にかけて誓った。それからこうも言った、「私はこのような書状を書けとも命じてはいない。私の知るところではない」。そこでアリーは尋ねた、「ここにあるのはあなたの紋印では?」。彼は言った、「そうだ」。アリーは尋ねた、「ならばあなたが知らないはずがない。あなたの知らぬ間に、どうしてあなたの奴隷が、あなたの駱駝に乗って、あなたの紋印入りの書状を持って去ることができるというのか」。しかしウスマーンは神にかけて再び誓った、「私はこの書状を書いていない。私は書くように命じてもいない。この奴隷をエジプトに行かせてもいない」。

書状については、彼らはその筆跡がマルワーンのものであることを知っていた。しかし、彼らはウスマーンを疑ってもいた。マルワーンを引き渡してくれるよう、彼らはウスマーンに願い出た。しかし答えは否だった。たとえその場にマルワーンが彼と共にいたとしても、彼はその願いを拒否しただろう。アリーと彼の同胞たちは激怒してそこから立ち去ったが、ウスマーンとマルワーンの関係について、疑いが晴れたわけではなかった。ウスマーンの信仰は疑いようもない。彼らは、ウスマーンが不正について彼の信仰を偽るようなことはしないと知っていた。

だが彼らのうち、ある一団は言った、「マルワーンを我らに引き渡し、我らが彼に問いただせるよう取りはからわぬ間は、我らの心臓がウスマーンを許すことはない。正当な理由無く、我らが同胞の一人ムハンマドを殺害せよなどと書かれた書状に、誰がどのように関わったのかを知らずにおられようか!もしもウスマーンがあの書状を書いたのならば、我らは彼を放逐する。もしもマルワーンが、ウスマーンに命じられてあの書状を書いたのならば、我らはマルワーンをどう扱うべきか考えねばならぬ」。そこで彼らは、彼らの館を囲んで待った。

ウスマーンは、マルワーンの引き渡しを拒否した。彼が殺されるのではないかと恐れた。館を囲む人々は、水を汲もうと姿を見せたウスマーンを押しとどめて取り巻いた。彼は人々を軽蔑した。そして高みから彼らを見下しこう言った、「アリーか、あなた方に指図しているのは」。「違う」、人々は言った。彼は言った、「ではそこにサアドがいるのか」。「違う」、人々は言った。彼はしばらく沈黙し、それから言った、「あなた方の中にアリーと話せる者はいないのか。彼に伝えよ、我らが水を得られるよう手配せよ、と」。

これを知らされたアリーは、あふれるほど水の入った革袋を三つ送り届けさせた。彼ら(水を運ぶ者たち)が、彼(ウスマーン)の許へ辿り着くのは容易なことではなかった。ハーシム一族の者、ウマイヤ一族の者が双方共に多くの負傷者を出すことになった。そしてついに、水が到着した。アリーは、彼らがウスマーンの殺害を欲していることを知った。彼は言った、「我らが欲しいのはマルワーンだ、ウスマーンの死ではない!」。彼は(息子の)アル・ハサンとアル・フサインに言った、「ウスマーンが扉の近くに来るまで、あなた方は剣を掲げていなさい。誰であれ、ウスマーンに触れさせるな」。アル・ズバイルやタルハを筆頭に、神の使徒と時代を共にした同胞たちの何人かが、人々の攻撃からウスマーンを守るため、またウスマーンにマルワーンを引き渡すよう願い出るために彼らの息子を送り出した。

人々はそれを見て矢を射かけた。入り口に立つアル・ハサンとアル・フサインが血しぶきをはねるまで射かけ続けた。館の中にいたマルワーンに矢が当たった。ムハンマド・イブン・タルハが夥しい血を流した。アリーの客人だったカンバールの長が切り裂かれた。アル・ハサンとアル・フサインの有り様を見れば、ハーシムの一族が激怒するだろう。反乱が引き起こされることを、ムハンマド・イブン・アビー・バクルは恐れた。彼は二人の男(アル・ハサンとアル・フサイン)の手を握り、彼らに言った、「ハーシムの一族がやって来て、アル・ハサンの顔が血で汚れたことを知れば、人々は蹴散らかされてあっと言う間に逃げるでしょう。ウスマーンは孤立することでしょう。しかしそれは我々の欲するところではない。私たちに加わって下さい。誰一人として知る者も無いままに、彼を亡き者にしてのけねばならぬ。さあ、一緒に館へ入りましょう」。

ムハンマドと彼の同胞たちは、館の内部にいた援助者の手引きを得て、誰にも知られることなくウスマーンに近づいた。ウスマーンと共にいた身内の人々は、皆揃って館の高いところにいた。そしてウスマーン自身は、彼の妻と二人きりだった。ムハンマドは二人の男に言った、「ここにいて下さい!彼は妻と二人きりだ。私が最初に入り、彼を取り押さえます。それからあなた方は二人で入り、彼を攻撃しなさい、彼の息の根が止まるまで」。

それからムハンマドは中に入り、ウスマーンの顎髭を掴んで取り押さえた。ウスマーンは彼に言った、「神にかけて!あなたの父に、あなたの行いを見せてやりたい!彼ならば、必ずやあなたが私にしたことを咎めるだろう!」。(ウスマーンを取り押さえた)彼の手から、力が抜けて緩んだ。だかその時には、二人の男が押し入り彼を攻撃していた。そしてそれは彼が死ぬまで続いた。彼らは、館に侵入したのと同じところを通って逃げた。ウスマーンの妻が叫んだ。だが館の内外の騒動にかき消され、彼女の悲鳴を聞きつけた者はいなかった。彼女は再び声を振り絞って叫んだ、「信者たちの長が殺されました!」。それで初めて人々は気づき、その場に立ち入って彼が殺されているのを見つけた。

知らせはメディナにいたアリー、タルハ、アル・ズバイル、サアド、その他の人々にも届いた。彼らが最初にしたのは逃げることだった –– 知らせの衝撃のために、彼らの良識も粉々に打ち砕かれ去ったのである –– 彼らが己を取り戻したのは、ウスマーンの館へ出向いて彼の死を確かめた後だった。彼らは戻り、アリーは息子達に向って言った、「あなた方には扉を守れと言ったはずだ。それなのに、信者たちの長が殺されるとは一体どうしたことか!」。アリーは手を挙げてアル・ハサンの顔を叩き、アル・フサインの胸を殴った。それから彼はムハンマド・イブン・タルハとアブドゥッラー・イブン・アル・ズバイルの二人を非難した。彼は激怒したまま館へ帰って行った。

人々は大急ぎで彼の後を追い、そして言った、「我々はあなたに忠誠を誓います。ですから、どうかあなたの手を我々の方へ差し伸べて下さい。何故なら、我々は信者の長を必要としている。我々を導く者が、我々の上にいることが重要なのだ」。アリーは言った、「それはあなた方が決めることではない。バドルの人々が決めることだ。バドルの人々を満足させられる者でなくては、カリフにはなれない」。

バドルの人々も、誰であれ例外なくアリーの許へやって来た。彼らは口々に言った、「あなた以上に、その資格がある人など私達は知らない。どうかあなたの手を我々の方へ差し伸べて下さい。我々もまた、あなたに敬意を示そう」。彼らは忠誠を誓った。マルワーンとその息子は逃亡した。

その後、アリーはウスマーンの妻の許を訪れた。そして彼女に尋ねた、「誰がウスマーンを殺したのですか?」。彼女は言った、「知りません。私の知らない二人の男が彼の許へ来たのです。ムハンマド・イブン・アビー・バクルが彼らと共にいました」。彼女はアリーと人々に、ムハンマドが何をしたのかを語った。アリーはムハンマドを呼び出し、ウスマーンの妻が主張したことについて彼に尋ねた。

ムハンマドは言った、「彼女の話に嘘はない。神にかけて、私は彼の許に行った。私は彼を殺そうとした、だが彼は私に父について思い出させた。それで私は彼から手を離した。私は神に悔悟した。神にかけて、私は彼を殺さなかった」。ウスマーンの妻は言った、「彼は正直な人です。けれど他の二人の男を呼び入れて、彼らのなすがままにさせたのも彼のしたことです」。

 


参考文献
The Qisas al-anbiya of Ibn Muttarrif al-Tarafi (d. 454/1062): stories of the prophets from al-Andalus, Al-Qantara, 19 (1998)

The murder of the caliph Uthman, Martin Hinds, journal of Middle East studies, 3 (1972)., reprinted in his Studies in early Islamic history, Princeton, 1996.

The succession to Muhammad: a study of the early caliphate, Wilferd Madelung, Cambridge 1997.