試訳:彼女たちは預言者である

「彼女たちは預言者である」
イブン・ハズム

 

コルドバ出身のムスリム哲学者イブン・ハズム(994-1064)の「al-Fisal fi al-Milal wa-al-Ahwa’i wa-al-Nihal」からの抜粋を訳出した。預言者が女性であることも起こり得る、という主題についてコーランを論拠に証明するという文章。英訳はちょいちょい見かけるけれど、今のところ日本語ではネット上でもほとんど見かけないので、ここで紹介してみることにした。

イブン・ハズムについては、岩波書店から刊行されているイスラーム古典叢書シリーズ中の「鳩の頸飾り」(イブン・ハズム著 黒田壽郎訳)のあとがきに詳しい。本当は訳注として文末に併記した部分も、章・節番号だけじゃなくてコーラン本文も流し込んだ方が親切だったかも知れない。また今度追加しておくことにしよう。それと、「鳩の頸飾り」もなかなかナイスなので、そのうちまた引用集を作ろうと思う。なんかずいぶん前に公開してたファイルがあったはずなんだけどどっかいっちゃった。←見つかったのでこちらに再掲した


(アブー・ムハンマド1は言った)この問題については、かつて議論が交わされたことはなかった。だが機は熟し私たちの時代は来た。私たちはいま、ここコルドバにおいて、初めてこの問題についての議論を試みている。

ある人々は、女性は預言者にはなり得ないと主張する。そしてその主張を否定することは異端であると断ずる。ある人々は、女性もまた預言者になり得ると主張する。第三の人々は、この問題について議論することを避ける。(アブー・ムハンマドは言った)女性は預言者にはなり得ないと主張する人々は、その根拠は次に引用するコーランの節にあるという:

汝より以前に遣わしたのもみな、われらが啓示を下したただの人間に過ぎなかった。2

だがしかし、彼らの主張の根拠は実にこの1節のみなのである。

(アブー・ムハンマドは言った)この1節を読む限り、確かに神は女性の使徒を遣わしたとは言われない。それについて異論はない。だが私たちが議論しているのは預言者(Nabi)についてであって、使徒(Rasul)についてではないのである。そこで私たちは、神が私たちに語りかけた言葉を手がかりに、まず預言者の性質(Nubuwwa)について知る必要がある。これは「預言(Inba’)」や「啓示(I’lam)」を語源としている。すなわち、誰であれ神がその意図するところを伝えた者、物事の起こる前に知らされた者、または物事の意味を開示された者。そうした者たちが預言者(Nabi)であることに疑念の余地はないだろう。彼ら(預言者)に下されたそれ(預言)を、神が蜜蜂の章において語られている「自然に備わる霊知(Ilham)」と混同してはならない。

また、汝の主は蜜蜂に啓示して言いたもう、「山でも木でも人間の建ててくれるものでも、それを家とせよ。そしてあらゆる果実を食べ、平坦な主の道をたどって帰れ」。その腹から、人々のために薬になる色とりどりの飲み物が出てくる。思慮深い人々にとって、これこそみしるしである。3

また、精神的に脆弱な状態にある者が真実であると思い込んでしまうであろう疑わしき見せかけ(Zann)や妄想の類いとも、厳しく区別されなくてはならない。また、精神的に邪悪な状態にある者が手を染める魔術(Kahana)でもない。それは天国の会話を盗み聞きしようと試みるサタンが、流星に撃たれるのと同じ結末を迎える。神はこのように語られている:

このようにわれらは、どの預言者にもそれぞれの敵を設けておいた。すなわち、人間であったりジンであったりするサタンどもであり、たがいに欺いては巧言を吐きあっている、もし汝の主が欲したもうたなら、彼らはそうはしなかったであろう。それゆえ、捏造するままに捨ておけ。4

神が使徒ムハンマドを遣わしたことにより、魔術のすべては終焉を迎えたのである。これ(預言)は、予言(Nujum)の一種であると考えるべきではない。予言や未来予知の類いは、学問による習得が可能なのである。夢もまた、真実か虚偽かの見分けがつかぬという理由でこれ(預言)とは別物である。預言者に啓示される預言とは、神がお望みの者に下されるものを指す。前述した例のすべてが、これとは相容れぬものであることが理解されなくてはならない。

神は預言を啓示した者に対し、それについての理解と知識、またその無謬性をもその者に知らしめる。そのため啓示された者は、預言について自らの感覚で判断するようなことにはならない –– 自ら推論を加えたり、疑念を生じさせたりする余地は、預言においては存在しないのである。

これ(預言)は、次のうちいずれかの方法を用いて明らかにされる。すなわち天使を介してもたらされるか、あるいは直にもたらされるかのどちらかである。直にもたらされる場合、それは神の知識である。神は欲するままに、教師や伝達者を介在させることなく神の知識をもたらすこともある。

さて、これらが預言の本質である。否定する人々があれば、彼らに対し預言の本質を説明するよう求めよ –– ただし確かな論拠なき否定も、また確かな論拠なき説明も、私たちには一切関わりがない。

神はコーランにおいて、かれが女性たちに対して天使を遣わし真実を啓示したことを明らかにしている。神は天使を介して、イサクの母(サラ)に吉報をもたらした。神は告げる:

彼の妻がそばにたっていて、笑ったので、われらは彼女に、イサクと、それからイサクのあとヤコブが誕生するとの吉報を告げた。彼女は言った、「悲しいかな。私は老婆であり、この私の夫も老人であるのに、どうして子供が生まれるのでしょうか。ほんとうに不思議なことです」彼らは言った、「神のご命令を怪しむのか。当家の人々よ、神のお慈悲と祝福とがおまえたち一家の者の上にあるように。神はほめ讃えるべく、栄光に満ちたお方である」5

これは天使を介して神から直に女性たるサラにもたらされた祝福であり、サラに連なる人々ーイサク、そしてヤコブーにもたらされた祝福であった。同時に、彼女にとってこの啓示は、全てを可能にする神の威力を明らかにするものでもあった。

天使を介して、女性に啓示が下された例はこれだけではない。神はイエスの母マリヤに、天使ガブリエルを遣わしてもいる。

……彼は言った。「私はただ主の使いである。おまえに清浄は子どもを与えるための」6

これはまさしく預言者にもたらされた真実の啓示であり、疑う余地なき無謬なる神の預言である。マリヤの母(イムラーンの妻)は、つねづね信心深く誠実な息子を授けてくれるよう神に祈願していたが、神は息子ではなく娘を授けた。(マリヤの世話をした)ザカリヤは、しばしばこの娘のそばに、神が直接与えたリズク(糧)を見出した。7

神はまた、モーセの母に対しても啓示を解き明かしている。ファラオの兵による赤子殺しの際、神はモーセの母に対し息子を河へ流すよう命じた。そして悲しんだり、憂う必要のないことを告げ、彼女の息子を預言者として再び母の元へと還すことを約束しているのである。8(啓示について)前述した定義を踏まえ、私情を交えず論理的に判断すれば、これはまさしく疑う余地のない真性の啓示である。

彼女がもしもこれを神の啓示として受け取らず、彼女の息子を還すという神の約束に確信が持てなかったならば、彼女は息子を河に流すなどという行為には及ばなかったであろう。またもしもこれが啓示ではないならば、彼女の行為 –– 息子を河に放り込むということ –– は、憎むべき犯罪とみなされるはずである。もしも私たちのうち誰かがこのような行為に及んだならば、犯罪者として取り扱われるか、精神に変調をきたした患者として、しかるべき施設にてしかるべき治療の対象とされることだろう。

こうした論理的分析を誰も否定できはしない。だからこそ、彼女が受け取ったそれは、紛うことなき啓示であったと断言するのである。彼女に命ぜられた行為 –– 息子を河へ放り込むということ –– は、イブラヒムが夢で命ぜられたそれ –– 息子を犠牲に捧げるということ –– と同一である。仮にイブラヒムが真に預言者ではなく、ただ自分の夢に見たからといって息子を犠牲に捧げたなら、これは単なる子殺しであり殺人である。そのような行為に及んだ者は、預言者ではなく常軌を逸した者とみなされるだろう。これに異論を差し挟む者があろうか。

ゆえに、彼ら(女性)が預言者になり得ることは確たる真実である。神はマリヤの章において預言者たちについて言及し給うが、その際にもマリヤについて他の預言者たちに先立って言及され、続けてこのように告げられる:

このような人たちは、みなアダムの子孫で、神がみ恵みを垂れたもうた預言者たちであり、われらがノアといっしょに運びだした人々で、アブラハムとイスラエルとの子孫であり、われらが導きかつ選んでやった人々である。慈悲ぶかいお方のみしるしが読み聞かされるとき、彼らはひれ伏して拝み、涙を流すのである。9

これが預言者であり、彼ら全てに関する解明である。誰ひとりとしてここから外されるべきではない。すべからく女性は預言者たる性質を備えているのである。「彼女は例外である」などと勝手な特例を設けて、その他と引き離し個別に取り扱ったりするべきではない。そのような権限は、私たちのうち誰ひとりとして与えられてはいない。

「彼の母は真実の人(Siddiqa)であった」10というコーランの言葉には、彼女が預言者たり得ることの証明になりこそすれ、その逆にはなり得ない。それは同じコーランにおいて、神がヨセフに対し「真実の人(Siddiq)ヨセフよ」11と同じ語彙を用いて呼ぶのを見れば、そしてヨセフについては彼が預言者であることは疑いなく、また使徒でもあったことを見れば明らかであろう。私たちは、ただ神にのみ導きを求める。

導かれし彼女ら一群に、私たちはもう一人、(コーランにおいて、信者たちの模範として言及されている)ファラオの妻12を加えるべきだろう。預言者ムハンマドは言う:

『男達のうちで完全な者は多いが、女達のうちで完全なのはイムラーンの娘マルヤムとフィルアウンの妻アースィヤだけある。・・・』13

さて、男性にとり完全(kamal)とは何であろうか。男性にとり、完全とは預言者のそれであり、使徒のそれであるーそれ以下であれば、彼は完全であるとは見なされない。何ゆえに預言者ムハンマドは、多くの女性たちのうち、マリアやアースィヤ(ファラオの妻)双方について特に言及したのだろうか。それは彼女たちの預言者としての資質を、その他の女性、または女性としての資質よりもなお優れたものとして認めたからに他ならない。女性にも預言者としての資質は備わっているー疑う余地のないことだがー女性にとっての完全(kamal)もまた、預言者のそれと同質なのである。

それゆえ、彼女たちはその他の女性たちよりも優れているとされた ー 彼女たちは完成された預言者たちなのだ。神が告げる次の言葉を、私たちはコーランに見出すだろう:

これらの使徒にも、われらは上下の差別をつけておいた。彼らのうちには、神が直接語りかけたもうた者もある。また、ある者は数段階もひきあげられた。・・・14

彼らが他よりも優れているとされた理由は、彼らが男性であったからではない。人の完全について、その性別はなんら関連性を持たない。彼ら(女性の預言者たち)は、預言者ムハンマド、預言者イブラヒムと同様に、人々に対し遣わされた預言者たちなのである。

 

2008.07.


訳注:
*1 イブン・ハズムの別称。

*2 コーラン21章7節。以下、底本として使用した英訳文にはコーランの章ならびに節番号が併記されていなかったため、内容から判断して逆引きし、訳注の体裁で併記することにした。またこの文章内に引用されているコーランの節は全て中公クラシックス版のコーランからお借りしている。

*3 コーラン16章68-69節

*4 コーラン6章112節

*5 コーラン11章71-72節

*6 コーラン19章19節

*7 コーラン3章35-37節

*8 コーラン28章7節

*9 コーラン19章58節

*10 コーラン5章75節

*11 コーラン12章46節

*12 コーラン66章11節

*13 これはコーランではなくハディース(預言者の言行録)。日本語訳はブハーリーが中公文庫から、サヒーフ・ムスリムが日本ムスリム協会から刊行されている。マリヤム=マリヤ、フィルアウン=ファラオ。

*14 コーラン2章253節

 

参考:
Imam Ali ibn Hazm (Muslim Heritage)
Ibn Hazm, Abu Mhammad ‘Ali (9940-01063) (Islamic Philosophy Online)