外側に顕われるもの

安楽椅子解釈 – I

 

「かたち」というのは、便利なようでいて時々不便でもあります。

コーランというものは、言葉の集積でもある都合上、一見すると「書物」の体裁をとっています。けれどそれはあくまでも便宜上そのような「かたち」をしている、というだけのことで、それは例えば水はどうしたってコップか何かに入れないと運べないのと同じことです。でもだからと言って中味の水が、容器と同じ「かたち」をしているかと言うと決してそうではなかったりします。

「書物」であるということ、「言葉」であるということ、それらを全て剥ぎ取り「コーラン」そのものだけを取り出して、それに「かたち」を与えようとするとき、それは空中にぽっかりと浮かんだ球のようになるように思います。イメージとしてはこれなど非常に近いものを感じます↓

 

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相国寺に納められている十枚一組の「十牛図」のうちの第八図。周文という室町時代の画僧の作品と云われているもの。周文というひとは「涙で鼠の絵を描いた」というあの雪舟の師にあたると言われています・・・だそうです。

周文の「十牛図」はここに→承天閣美術館。伊藤若冲の障壁画も見られてお得なサイトだ)(「十牛図」の概要についてはビッグブラザー・グーグルに訊いてみよう

「十牛図」というのは、要するに悟りに至る道のりを十枚一組で描いたものです。長いこと「十牛図」は難解である、とされていたのだそうですが、でも私にはどう見ても「漫画」にしか見えない=つまり非常に分かりやすいです。狂言廻しのキャラクター(牛)を用意したり、10段階にチャートづけてあるあたり、すごく親切ですね。仏教を(厳密には禅という手段を)分かりやすく説明するために、熟練の技術者によって開発されたツールであり、また同時に心の取扱説明書でもあることがひと目で見て分かります。

画題としても古今より画家にとっては魅力的であるらしい。ten oxとか、ten bullとかで検索すると他にも色々な表現が見つかります。マインド・クエストは今も昔もみんな大好きで、それはとてもよいことですね。

コーランも、長いこと難解であるとされて来ました。「もうこれ以上解釈とか、してはいけません」なんて言われていた時代もあったぐらいです。おかしなことだ。

ふと思うところあって探したら、野町和嘉氏のサイトがありました。

野町和嘉:地球巡礼

この方がハッジの様子を撮影する際に(現在メッカはイスラム教徒でないと入れない、ということになっているため)「改宗」した、といういきさつをどこかで読んだことがあります。サウジアラビアの係員さんが巡礼ヴィザを渡しながら「撮影が終わったらムスリムやめる、なんて言わないで下さいね」と言った、というようなことが書かれていたように記憶しています。

「そういう動機で入信することについてどう思いますか?」と尋ねられたことがありますが、私個人は全く問題がないと考えています。全人類のために用意された地上の「神の家」であれば、目指す人全てを分け隔てなく受け入れるのが本来の在るべき姿ではないでしょうか。もしも何がしかの問題があるとしたら、次から次へと不粋な手続きを求める現世の有り様の方なのではないでしょうか。

晩飯のメザシを噛みながら、そんなふうに思ったのでした。