安楽椅子解釈 – I
神こそは、あなた方の目に見える柱も無くて諸天を掲げられた方
(聖コーラン 雷電章2節)
コーランに何度となく出て来る「سماء(サマーゥ)」とは、空もしくは天を意味するアラビア語です。
天文学者のオルバースさんが、「夜が暗いのは、宇宙に果てがあるからだ。もしも果てがなく無限であったなら、どこまでも続く星空が夜を明るくするはずだから」という、宇宙の真理に関するひとつの答えを出したのが1826年のことでした。この考え方は、今でも「オルバースのパラドックス」として有名です。その後、「宇宙は膨張し続けている」ことが、1929年、もうひとりの天文学者ハッブルさんによって実際に発見されました。
宇宙が膨張し続けていて、なおかつ有限であるとすれば、その昔、宇宙は、今私達が確認できる姿よりも小さいものとして生まれたと考えられ、実際にそれが現代の宇宙論の道しるべになっています。宇宙には果てがあり、そして、それには「はじまり」が確かにあったのです。
宇宙、と言ったとき、それは私達のいる「ここ」からとても遠いところであるかのように思い浮かべてしまいがちですが、コーランが伝える「سماء」は、それよりももっと広い意味をも含みます。
ひとの肉眼では捉えられない宇宙の果てもسماءなら、ひとの目には見えないひとのこころも、やはりسماءのように何層にも重なった宇宙のようなもの。
空を支える柱のことを、何と呼ぶのかは分からないけれど、「こころ」や「からだ」、と名付けられたそれぞれのسماءを支える見えない柱を、イスラムにおいては「信仰」と呼びます。
「イスラムの神様がいるところは天空ではなくて信者のこころですね」と、おっしゃったのは、ある講演会で講演なさったウィグルから来た学者さんでした。ウィグルのひと達は、今ではそのほとんどの方がイスラムを信仰していますが、それでも神の名にTAN(G)RI=タン(グ)リ、と添えてお祈りすることがよくあるのだそうです。
タン(グ)リ、とはウィグルのことばで「天の神」。KOK TAN(G)RIと言えば、それは「青い天」を意味すると同時に、彼らにとっては神の名でもあります。ウィグルの青い空はそのまま神の印のひとつなのかも知れません。彼らがタン(グ)リ、と言う時、彼らは唯一の神にお祈りするきもちで、親しみを込めてそう呼ぶのだそうですが、古代から続く崇拝の対象の名でもあったことから、イスラムの信仰とは無関係であるとしてその言葉はたびたび禁止されます。
けれど、やはり長いあいだひとびとの間で使われてきた言葉には、ひとびとのこころやいのちが息づいています。それをこわれないようにこわさないように、そっとだいじに抱えてみたときに、初めてそれぞれのこころと、それぞれの信仰と、そして「سماء」とが繋がりを持っていたことが見えてきます。
ウィグルに限らずトルコでもその言葉は使われており、そのとき発音はタンル、が近いらしい。「(神様は)空にいるのではない」と言われても、それでもやっぱり見上げてみたくなる、というものだったりします。