『聖地の民間伝承:ムスリム、クリスチャン、ユダヤ』
著 J. E. ハナウアー
I-X. 義の人シモン
ケドロンの谷上部の、北イェルサレムとナブルスへ向かう道とが交差するあたりに、岩を切り出して造られた古い墓所がある。壁で囲まれた前庭は、現代になって取付けられた扉の入り口へと通じている。ここには非常に古く、それも故意に削りとられてしまったためにほとんど目にもつかないラテン文字の碑銘がある。その碑銘によれば、時代によってその役割も目まぐるしく移り変わり、今ではシナゴーグとして使われているこの岩の墓所は、かつてはユリア・サビーナという名のローマの貴婦人の墓であったことが分かる。
それにも関わらず、イェルサレムに住むユダヤたちは、この場所を義の人シモンの墓と信じている。そして七週の祭の十七日前、ラグバオメルの日(過越祭から数えて三十三日め)には、この墓へ巡礼に出かけたりしている。
オニアスの息子シモン二世は、ユダヤの歴史上、ゼルバベルの時代とマカベア一族のそれとの間に生きた人とされている。彼の「義の人」という敬称が、彼がいかに同時代の人々の尊敬を集めていたかを示している。彼は当時の、一流の司祭たちの上に名実ともに君臨していた。ハスモン朝の英雄たちが登場する以前の、古代イスラエルから連綿と続く徳高き人物の列にふさわしい最後の人物であった。
シラクの子イエスの『シラ書/集会の書』には、都市や神殿の修繕や整備に関する彼の仕事ぶりについての記述がある(50章参照)。年に一度のヨム・キプルの日(贖罪の日)ともなれば、神殿の広間には大勢の人々が詰めかける。至聖所を隠す幕の向こう側から現れて、彼を敬愛すること熱心な民にとり囲まれるその姿は「雲からきらめく暁の星のように、満月のように、いと高き者の神殿に光を投げかける日の光のように、光栄の雲にかけ渡した虹のように」きわめて荘厳であった。ばらのようであり、水辺のゆりのようであり、たわわに実をつけたオリーブの木のようであり、堂々としたモミの木のようであり、乳香のかおりのようであり、宝石を散りばめた金の器のようであった。
このように祭司シモンの動きのひとつひとつが、熱烈な賞賛をもって書き留められている。高位の聖職者に許された衣裳の壮麗さも美しさも、彼が身につけていればこそいっそう豪華なものと見えたようである。まるでヤシの木立の中に立つ一本の糸杉のように、彼の容姿は、仲間の司祭たちの中でも抜きん出ていた。そして儀式を行ない、神酒を杯に注ぐ彼の立ち居振る舞いや、銀のトランペットを吹き鳴らす音、会衆の叫び声、レヴィの楽師や歌人の奏でる旋律、それらの何よりも、最後にシモンが与える祝福こそは、その場に居合わせた者たちにとり決して忘れられないものであった。
彼を知る者が彼を愛したのは、何もそのすぐれた容姿のためだけではない。彼が人々に与えた影響や、神と共にある彼の祈りの力を伝える物語は数多い。ある言い伝えによれば、彼は旧約聖書の正典が備えられた「大シナゴーグ」の最後の生存者だということである。別の伝承によれば、紀元前330年ごろ、イェルサレムに赴いたかの征服者アレクサンダー大王と面会したのも彼であったとのこと(アラブの民間伝承では、アレクサンダー大王といえば二人めのイスケンデル・ズールカルネインと呼ばれている。一人めはエル=ハリールと同時代の預言者、また二人めはエル=フドゥルと生命の泉の物語において触れたとおりである)。
また別の者たちの伝えるところでは、プトレマイオス四世「フィロパトル」がイェルサレムの神殿へ足を踏み入れようとしたのを、一歩手前で思いとどまらせたということになっている。神をも畏れぬ君主の意図が知らされると、都の全土は恐怖に陥った。集まった群衆たちの、天に届かんばかりの悲鳴が大気をつんざき、壁という壁、敷石という敷石までもがこれに加わったかというほどのすさまじさであった。その大騒擾の中から、シモンが全知の神に捧げる祈りの声が響いた。するとあたかも風に折れ曲がる葦のように、エジプトの王は乗った馬ごと舗道に倒れ、お付きの護衛兵たちに抱えられて運び出されていったという。
また、以前は、供犠の羊を決めるくじを引くのは高位の聖職者の右側の手と定められていたが、義の人シモンの到来以降は、左右のどちら側でもよいことになった。以前は、供犠の羊の角に巻きついた真っ赤な羊毛が白くなるのが償いのしるしであり、あらゆる罪が許された証拠であるとされていた。しかし彼の到来以降は、色の変化は決して確実なものとはならなくなった。
彼の時代、至聖所の金色の燭台は決して消えることなく燃え続けていた。だがそれ以降は、たびたび燃え尽きて消えるようになった。彼が存命の間は、神殿の正面にある供犠を捧げるための大きな祭壇の炎を燃やし続けるには一日にふた束の薪を要した。しかし彼亡き後は一山をもってしても維持できなくなった。彼はその最晩年には、自らの死を予告する前触れがあった、と告げたとされている。毎年の厳粛なる断食の日、例年であれば、頭からつま先まで真っ白な衣で装った老人の姿をした天使が、彼と共に連れ立って至聖所の入り口までやって来ていたのが、その年ばかりは黒ずくめの衣をまとった見知らぬ者が、至聖所の中にまで彼と共に入って来て、それから立ち去ったという。
彼の教えは以下、彼が言ったとされる格言に表わされている。「宇宙には三つの原理原則がある – 法、崇拝、そして喜捨である」。
彼はナザレの民がするような、禁欲的な奉納を受け取るのをひどく嫌っていた。しかしながら、一度だけ例外を設けたことがある。ある日のこと、南方より一人の若者がパレスティナへやって来た。背も高く、美しい瞳と長く豪奢な巻き毛の持ち主で、その巻き毛が肩にたっぷりとかかり、素晴らしい姿をしていた。シモンの前に現れると、まるで忠誠を誓うかのようにひざまづいて頭を垂れた。「いったい何故そのような」、シモンは尋ねた。すると若者は答えた。「見事に育ったこの髪を、あなたの手で剃り上げて頂きたいのです」。
「私の父は羊飼いです。私も父を手伝い、羊の群れを世話しております。ある日、水を汲もうと井戸まで出かけた時のことです。うぬぼれ心がわいてきて、私は井戸の中を覗き込み、水面に映る自分の姿を見ました。そのせいですっかり罪深い考えに捕われてしまい、道を踏み外したくなってしまいました。『この罪人め!おまえの身はおまえの所有ですらないというのに、それを誇ろうというのか、ただの虫けら、塵の一粒に過ぎないくせに!ああ、天の栄光のためにも、私は自分のこの巻き毛を切り落とさねばならぬ』、私は自分をそう叱りつけ、ここまで来たのでございます」。これを聞いてシモンは若者を誉めたたえ、「おまえのようなナザレ人で、イスラエルが満ちればよいものを!」と叫んだ。
彼の生涯はおよそこのような記録に彩られている。こうした人物が現代イェルサレムのユダヤの民たちに、奇跡を起こす力をもった聖者として崇敬されるのも不思議ではなく、人々はその執りなしを得ようと彼の廟を訪れ、祈りを捧げたり願をかけたりする。以下もそうした話のひとつである。
約二百年前、ラビ・ガランティが「シオンの第一人者」と呼ばれた時代のことである。ある年、あまりにも雨が降らないため、人々は水不足にひどく苦しめられていた。町の住民たちすべてが断食と礼拝を行なった。クリスチャンたちは教会に集まって雨乞いの祈りを捧げたし、ムスリムはモスクで、ユダヤたちもシナゴーグで同様にして過ごしたが、しかしすべてが無駄だった。クリスチャン、ユダヤ、それにムスリムの子どもたちも、何時間も飲まず食わずのままにさせられた。アッラーはおさな子の祈りを愛でられる。子どもたちが腹を空かせて悲しげに泣く声が天に届けば、アッラーのお情けを引き出すことができるに違いないと考えられたためである。ムハンマドのマドラサ(学舎)に通う子どもたちも、町じゅうの通りという通りを、祈りの言葉やコーランの章句を唱えながら、行列になって練り歩いた。しかし天国はあたかも真鍮のごとく冷えており、慈しみぶかい主はまるでご自分が選んだ土地や町のことなど、すっかり忘れてしまったかのようだった。
この旱魃に対する恐怖ゆえに、ユダヤの民に対する偏見がかま首をもたげた。あるムスリムのシェイフが、彼らをイェルサレムに住まわせているがためにアッラーが雨を取り上げたのだと、パシャに讒言した。これを聞いて、パシャはラビ・ガランティに、三日以内に雨が降らなければ、ユダヤの民をイェルサレムから追放すると告げた。これを知らされたときの、人々の驚愕は想像に難くない。ユダヤの民は、続く二日を絶え間ない祈りに費やした。三日めの朝、まだ日も昇らぬうちから、ラビ・ガランディは人々に、濡れてもいいように外套を着込んで、出かける支度をするよう告げた。夕刻までには必ず豪雨が降るだろう。その御礼を述べに、義の人シモンの墓を詣でようというのである。
絶望のあまり、ラビはとうとう気が違ってしまったのだ。ユダヤの民はそう思った。しかしそれでも、あえて「イスラエルの子らの上に立つ者」に逆らうような真似はするまいと考えた。太陽がぎらぎらと照りつけ、空気は燃えるように暑かった。耐えきれない灼熱の中で、ラビの言いつけ通りに冬の外套を着込んだ姿でダマスカス門を通ると、ムスリムの衛兵たちが嘲りの言葉を投げつけてきた。しかし何と嘲笑されようが、ユダヤの民たちは重い足取りで歩いていった。
シモンの墓にたどり着く頃には、ラビの信仰心が民の間にも十分に伝わっていた。ラビが熱心に感謝の祈りを捧げると、誰もがこれに声を合わせて祈りの輪に加わった。すると突然、空が曇り始めたかと思うと、あっと言う間にすさまじい雨が降ってきた。ぶ厚い冬の外套を着込んできたにも関わらず、土砂降りの雨のおかげで皆あっと言う間に下着の中まですっかりびしょ濡れになるほどだった。
墓参から戻ると、出かけるときには彼らを馬鹿にしていた衛兵たちが待ち構えていて、ガランティの前に身を投げ出して許しを乞うた。同様に、パシャもすっかり感心したようだった。それから長い間、ユダヤの民は、町の人々からの大いなる賞賛の的となった。