二. 歌唱について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

二. 歌唱について

音楽の科学規範に従うならば歌唱とは、旋律にあわせて声を奏でることを意味する。声が魂と身体に確実に影響を及ぼすことについては誰もが認めるところであり、これを否定することはできない。声の調子が外れていれば、それが生じさせる影響は嫌悪の一種である。声の調和がとれており、調子も合っていれば、それは好感と受容を生じさせる。魂と精神が影響を受けている時は、身体もまた影響を受けている。身体の持ち主がこれを理解し、その効果について承知しているのでない限り、身体の気が動揺して何らかの処置を求めてくる。

調和音に関する議論は三つの部分に分かたれている。すなわち鳥の喉から発せられる音、人間の喉から発せられる音、そして楽器を打つなり、吹くなりして作り出される音楽団のそれである。

他の宗教や信仰を持つ人々は、これら全てを用いている。イスラムにおいては、聖法の伝道者たちは、鳥の奏でる旋律を聞くことについては完全に許されたものとして分類している。また特定の状況と条件を前提に、人間の喉から生じる旋律についても許可している。しかしながら彼らが言うには、吹いたり打ったりする楽器の音色を聞くことについては決して許されていないとのこと。その影響については、ルームの著名な識者であり偉大な学者であるクナルザーデ・アリー・エフェンディ1の著書 Akhlaq-i Ala’i に、音楽を主題とする詳細な解説と共に記されている。真実を探求するわがムスリム同胞であればこの書を宝とし、宗教における重要事項と義務を知り、それに応じて行動するべく、あたかも聖典を読むかのごとく、あるいは神の美名を唱えて祈願するかのごとく、必ずやこれを読了しわがものとした状態であるべきである。何故ならこれは哲学と聖法に和解をもたらす祝福の書であり、しかも著者はその時代を代表する最も秀でた者の一人である。

さて、人間の喉から発せられる音律や旋律に関しては、現代の宗教指導者たちの見解は多種多様である。もしも歌詞や歌曲の主題が葡萄酒、情人、淫行、放蕩であるなら、それらを聞くことは絶対に許されない。もしも歌曲が神の想起や神の預言者の賛美、警告、勧告であるなら、大多数はそれらを許されるものとしている。この議題をめぐっては、一部の法学者たちも無駄に言葉数の多い饒舌に耽っているが、結論からいえばどれもこれも、敬虔ぶった寒々しさしか残らぬしろものばかりである。

これらはすべて、栄光のコーランの朗読とは全く別である。コーランの場合、歌唱は制限される。文言は明確に発音せねばならず、語間の連携を損ねてはならない、といった制約に縛られている。音階にかかる諸規則を遵守した結果、コーランを朗読しているつもりが実際には歌唱になってしまった、などということが断じてあってはならない。これは特殊な部類の歌唱であって、音楽理論の法則に従うものではない。ある種の歌唱ではあるにせよ、そこは「コーランを暗唱するとき、歌わずにおられる者は誰ひとりとしていない」という伝承を踏まえたものとされている。

時と場合によっては、公衆の利益のために特定の楽器を叩くことは許可されている。たとえば戦闘中の戦士を励ます太鼓や打楽器、結婚式の行列における鈴のついていない片面太鼓などがそれである。

注意。この件についての聖法における禁止令は、堅固な知恵に基づいている。これらの起源は以下の通りである。

すでに述べた通り、歌曲は確実に身体に影響を及ぼすものであり、魂と精神に感動をもたらし鼓舞させるという点で偉大な役割を果たす。この理由で賢者たちは、精神が魂に優る者は野蛮な我欲を克服した者であり、彼の身体という王国は、彼の精神というスルタンによって制圧され、然るべく陶冶されていると述べる。音楽の調べや旋律を聞くことによって、精神は霊的な方面に向かって昂揚し、啓発されて崇拝の念も深まり、始源の精髄の質を会得してそれに近づこうとする。この理由でアリストテレスはオルガンを発明し、ペリパトス主義者や新プラトン主義者に講義する間もそれを演奏していたのである。2

しかし精神よりも魂が勝ちまさり、身体が野蛮な我欲に支配されている者の場合は、音楽を聞くことによってある種の野卑な欲望へ引き込まれることがある。事と次第によっては、恋愛の歌詞を聞いた感傷的な男に翼が生えて、わけもわからぬまま情熱と欲望の極みに飛び立ってしまうかもしれない。

このように、歌曲には益と害が入り交じっている。少数の愛されし者には有益だが、常人には精神的な害悪が顕著である。それゆえ聖法の原則においては、同じ一文の中で危険と許容の両方が語られてはいるものの、規定としてはこれ(音楽)に固有の危険性に対し、より重きを置いているのである。従って(音楽は)少数に生じうる利益とは関わりなく、大多数を害悪から保護するという賞賛に値する目的のために禁じられてきたのである。

そのようなわけで、大多数の義務とは聖法の命ずるところへの服従である。しかしながら、幾人かの偉大なシェイフたちは徳高き哲学者たちに倣い、音楽を危険性の無いものとみなす先例を採用している。精神によって魂を制御し得ている志願者たちには、これ(音楽)が効果的に訴えるものとの考えから、ある者は笛を、またある者は太鼓を、またある者は二連の太鼓を持たされる。彼らほぼ全員が音楽を聞いているが、法の文言に沿うべく、 sama’(傾聴)の名の下で行なっている。これを行なうにあたり、彼らは医者の処方箋を例にあげる。医学的な治療においては、毒薬も使用の範疇にあるではないか。

大部分のスーフィーは新プラトン主義の哲学に依拠しており、彼らの実践もそれに由来している。しかしいつの時代においても伝統主義者たちは、彼らに批判の石を投げ、彼らに干渉を加え、攻撃することまったく首尾一貫している。しかし彼ら(スーフィー)も彼らでくじけない。自分たちの役割を存分に演じ、歌っている。「汝ら、笛の言葉を解さぬ者よ」「おお汝ら、リュートの言葉を知らぬ者よ」「おお愛よ、おお愛よ。愛の他には何も要らぬ」。これが彼らの返答である。

昔からことわざにもある通り、意見なら誰でも持っている。両派のどちらも、常に言葉や行為を用いて一定の正当化をはかってはいるが、しかし論争は一向に解決しない。知性ある人ならば、これほどの長きに渡る論争に決着がつくのを期待するほど愚かではないはずだ。

 


1. クナルザーデ・アラーウッディーン・アリー、1575没。

2. この珍説は、明らかにアリストテレス『オルガノン』の題名に対する誤解が因となっている。しかしムスリム世界では、この書は長きにわたりこの呼称で知られていた。ここでは ishraqi イシュラーキー、照明学派を、「新プラトン主義」と訳出している。解説(I. 著者と作品について)参照。