はじめに I. 著者と作品について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

1. 著者と作品について

イスラム暦一〇一七年ズー・ル=カーダ月、西暦にして1609年2月、ムスタファ・イブン・アブドゥッラーはイスタンブルに生まれた。彼の父親は Silahdar 、すなわち帝国軍属の佩刀者であり、博識者たちの議論に耳を傾けることを愛好する宗教心のあつい男性だった。五歳ないし六歳になると、ムスタファ少年はコーラン素読を教わってその半分を暗記し、その後はアラビア語文法と書道を学んだ。十四歳になると、父親は彼を自分の部隊に入隊させ、書記方の職を確保してやった。彼は父親に伴われて複数の戦地に赴いた。最後の行軍は一六二五から六年の、不首尾に終った対ペルシャのバグダード奪還戦であった。

私は包囲の間じゅう、交戦と戦闘に加えて、敵軍の優勢、旱魃、それに物価高のせいで九ヵ月に及ぶ辛酸をなめた。しかし苦悩というものは、皆で味わえばそれなりに口に合いもする。それが全能者、全知の主のさだめだ。絶望と失意にうちひしがれて帰還し、モスルに入洛した一〇三五年ズー・ル=カーダ月(1626年7-8月)、父が死んだ。およそ六十歳だった……それから約一ヵ月後に、私のおじも亡くなった。私はディヤルバクルの親戚の許へ身を寄せ、しばらくそこに滞在した。父の友人メフメト・キャルファが私に、騎兵隊の監査院と呼ばれる部署の職員見習の働き口を見つけてくれた。

以上は著者の青年時代についての、彼の自叙伝的随筆 Sullam al-wusul からの抜粋である。その後の彼の人生については、本書の最後において本人が自ら語っている通りである。要約すると陸軍を十年勤め上げ、その間に五回行軍し、巡礼という困難極まる義務を果たしたのち、彼は「小さな戦いからより大きな戦いへ」転戦する決意を固めて学業に専念するようになった。幸運なことに、遺産を二つほど相続したのである。自らの職業について深刻に思い悩まずとも済むようになり、自由気ままに過ごせる時間を得た彼は、生来の乱読趣味から手当たり次第に書物を楽しんで過ごすようになった。結果、彼の階級は二等書記止まりに終った。二等書記すなわち Khalifa 、口語体では Kalfa キャルファと発音される。

巡礼を果たしていたので、職場の同僚たちは彼をハッジ・キャルファと呼んでいた。彼が最も長い間を共に過ごしたある学者は、彼をキャーティプ・チェレビーと呼んだ。キャーティプとは書記、役人といった意味である。チェレビーとは、その語源は依然として正確なところは不明であるが、(a)帝国の初期におけるスルタンの息子たちや、(b)ウレマー(学者)階層の一員ではない博学の人物、の敬称とされる。

早逝するまでの二十三年間に、彼は短文や小論を除き少なくとも二十三冊の書物を執筆した。1657年10月、彼は不意に、だがおだやかな死を迎えた。ちょうどカップに一杯のコーヒーを飲んでいたところだった。

ヨーロッパと比べて、オスマン帝国が往年の軍事的覇権を失った時代を生きたキャーティプ・チェレビーは、伝統的イスラム教育について、それだけでは不十分であることの、全てとは言わずとも部分的には非の一端があると考えた、おそらく最初のトルコ人である。唯一の学習機関はモスク併設のメドレセであり、学習といえば宗教的な学習を意味し、ウレマーが知らないことは知識とはみなされていなかった。

しかし学問に対するこれほどまでの認知度の低さは、十七世紀のオスマン帝国においては衰退を極めてゆく。スルタン・ムラト四世(1623-40)の親友コチ・ベイが、帝国の弱体化の原因について記した著名なメモを遺している。彼はそのメモの中で、学問を軽視して世俗の野心を燃やすウレマーが、いかに大衆に対する愛情や奉仕を喪失したかを述べている。「無知な者と学を修めた者を同等に扱う代わりに、学を身につけ知恵ある者を昇進させるようにすれば、彼らがただちにかつての水準を取り戻してくれるであろう。有力な知人を持つか持たないかで、候補者の位階昇進が左右されるのは正しくない。役職は、最もよく学んだ者にこそ与えられるべきである。法廷の官職に就くにあたって適正な資格とは、年齢でも血統でもなく学問である。昨今においては……官職は年長者に与えられる。神の御目には、高齢であることは司法職に就くための重要な資質ではない。同様に教育機関も、学問の詳細を説きあかせる者にこそ委ねるべきである。ただ年長者であるというだけで無知な者が重用されるとは、学者からすればそれは学問に対する不正である。候補者が若かろうが、博識で信仰あつくありさえすれば、髭の長短など問題にならない」。

しかし本書の著者による、教育に関する既存体制への批判はいっそうラディカルであった。ヨーロッパに変化をもたらし始めた新たな学問は、オスマン帝国を素通りしていった。イスラム科学の偉人たちでさえ、ほとんど関心を持たれていなかった。人間には宗教的学問だけで十分にこと足りると考える人々に対し、彼は激しく抗議したが、それは彼が反宗教的な精神を持っていたからではない。彼は誠実なムスリムだったのである。イスラム教への完全な帰依と、照明学(Ishraqi)の哲学への支持を融合させていたのである。この学派の教義はいわゆるアリストテレス神学や、その他プロティヌスの『エンネアデス』後半部のアラビア語翻訳などを通じて、九世紀初頭にはムスリム世界に知られていた新プラトン主義に由来する。新プラトン主義に独特なイスラム神秘主義的色彩を与え、照明学派の祖となった人物がスフラワルディーであるが、彼はサラディンの命により1191年、アレッポで殺害されている。 Kashf al-zunun において、著者はシーラーズィーによるスフラワルディーの主著 Hikmat al-ishraq 注釈に意見を述べているが、自らの宗教と哲学に対する著者の忠誠心の証明としても、また彼らしい刺戟的なスタイルの見本としても引用に値する。

この書に含まれるある種の言明は、聖法と相容れるものではないと言われている。言っておくが、かかる見解を抱く者こそ、自らを聖法と一致させる能力のない者である。自分の能力不足を棚に上げて、「不可能」だなどと断言すべきではない。

教義として何を許容すべきか、彼の基準はあくまでもイスラム的である。イスラムの原則に反するようであれば、彼はそれを拒絶する。姓名判断を禁ずる法は何もない。彼は姓名判断を信じており、それについては本書の最後に登場する。その一方で、彼は天文学の数学的側面を研究しつつも、それを用いた未来予測については否認している。預言者がこれを否認したことを示す伝承がその理由である。

聖法が沈黙している諸問題に関しては、彼が常に理性によって自らを正しく導いていたとは必ずしも言えない。 Kashf al-zunun に収録されている、「khaffa(消失の科学)」に関する彼の文章を参照してみよう。

それはいかにして他人の視界から自らの姿を消失せしめ、他人の目に映ることなく他人を観察する方法を習得する学問である。アブル=ハイルはこれを魔術の科学に連なるものとして言及し、「これのための呪文と魔法は存在するが、むしろ私は、これは聖者が奇跡として行なう以外には不可能であり、物理的な方法で実現できるものではないと考える」と述べている。しかしすでに述べた通り、これは魔術の科学に連なるものであって聖者の特権ではない。ゆえにこれを不可能とする理由はない、と「むしろ私は」考える。これは明らかに魔術によって可能であり、呪文や魔法によっても実現できることは魔術の実践者たちが主張する通りである。目に映らないからといって、存在しないことの証明にはならない。

彼の名声を確立したのは主として Kashf al-zunun である。それはアラビア語で記された巨大な文献事典であり、今でも東洋学者が用いる研究ツールのひとつである。印刷された目録が世に出る以前の時代、キャーティプ・チェレビーは自分が個人的に目を通した書籍についてただ淡々と書きとめていた。その量は、それぞれ異なる書籍およそ一五,〇〇〇冊分に達する。その他に彼の名高い著作としては Jihannuma がある。これについては Kashf al-zunun に以下の記述がある。

この事典の編集者による、地理学に関するトルコ語書籍である。これには2つの巻がある。一巻は海についてであり、その輪郭と陸地が記されている。二巻は陸地の上にある諸国、河川、山脈、道について、ヒジュラ暦(西暦15世紀)以降に新たに発見された陸地についての報告も含めアルファベット順に記されている。

こうした著作を完成するには西洋の情報源が必須であったが、その点キャーティプ・チェレビーは十分な幸運に恵まれており、「シェイフ・メフメト・エフェンディ・イフラースィー」の名で呼ばれたフランス人と知己を得ている。彼は元聖職者のムスリムで、「地理に関する科学と理論を身につけており、ラテン語を熟知する人物」であった。彼がトルコに来たのはイスラム研究のためであったが、その目的は論破することにあった。しかしコーラン11章46節を読んでのち、彼はイスラムに改宗した。「そのとき、お声があった、『大地よ、おまえの水を飲み干せ。天よ、雨を抑えよ』。すると水はひき、事は終わった。箱舟はグディ山の上に止まった。そのとき、またお声があった、『不義の民は滅びよ』」。この章句の持つ抗い難い強烈な力については、他の改宗者の例においても記録されている。

シェイフ・メフメト・エフェンディ・イフラースィーの援助もあって、キャーティプ・チェレビーは著作を完成させたが、それはオスマン人による学術の金字塔であった。これに感銘を受けて後を追う者も続出した。西洋についての知識にムスリムの目を向けさせたという点で、この書の重要性はどれほど強調しても過大評価にはあたらない。

1656年に完成した『真理の天秤』は、著者の生涯最後の書である。イスラムの教義と実践において騒擾の的となる論点をめぐるいくつかのエッセイと、多分に自叙伝的な結びの部分で構成されている。自由主義の精神と良識の息づかいの中、散りばめられた辛辣なユーモアが小気味よい。著者は決して怖じ気づくことなく自らの考えを述べている。相手がシェイヒュル・イスラムであろうが偉大とされる名士であろうが、支離滅裂なたわ言、もったいぶった道徳訓、愚者のしれ言と思えばその通りに述べる。

彼の親友でもあり、シェイヒュル・イスラムを務めたアブドゥッラヒーム・エフェンディは、彼の著作に対する自らの支持を公的にも表明した。それでも本書の、少なくとも一部分は、2世紀以上ものちになってから宗教熱心な人々の反感を買うに足るものであった。本書の第8章、預言者の両親は不信仰者とみなされるか否かという古くからある問いに対する建設的な解答を述べた部分が、1888-9年のエブズィヤ版では省略されている。理由として、ひとつにはこの主題に関する保守派の見解が、キャーティプ・チェレビーの時代とは変わったという点が挙げられる。またそれとは別に、知識人の輪が大きく広がり、その中に「ふつうの市民」 –– 彼らについて著者は常々、自らの理解力では追いつけない深い造詣を要する問題を自己表現の場とするべきではない、と主張した –– が多く含まれるようになったのである。

『真理の天秤』は、むらの多い書物ではある。著者が収録しているエッセイのうち一ないし二編、特に「アブラハムの宗教」と題された長文は、おそらく刈り込むこともできたはずだが、しかし私も刈り込もうとは思わなかった。それをすれば彼が決して承認しないであろうことは、彼の著書 Jihannuma にある、自分の著作を改ざんするかもしれない全ての書写生たちを非難する簡潔な悪態(「神罰が下れ。おまえの富も寿命も改ざんされろ」)を見れば明白である。翻訳の欠陥についてなら、彼はより寛容であってくれるはずだ。証拠として、Kashf al-zunun にある彼の言葉を参照されたい。

自然科学、形而上学、数学を扱う書籍の大部分は非イスラム的なギリシャ語やラテン語で記されている。何故ならその多くはキリスト教徒の土地に遺されたものであり、非常に稀な例外を除けばアラビア語に翻訳されたものはない。その上、翻訳されたものは原著の趣旨が損なわれている。不完全な翻訳によって大幅に歪められているためである。これは書物を、ひとつの言語から別の言語で表わすにあたっての厳然たる事実である。これは個人的に身に覚えのあることで、その有り様は Atras やその他のラテン語の書物をトルコ語に翻訳するのにかかりっきりになっていた時に、自らこの目で観察済みである。

私がテキストの底本として採り上げたのはヒジュラ暦一三〇六年/西暦1888-9年にイスタンブルで発刊されたエブズィヤ(アブル=ディヤー)版であり、これを参照し、また第8章については大英博物館所蔵の写本7904号をもって補った。

訳注を増やさないよう、私は必要に応じて著者の言葉を若干、拡張した。また同様の理由から、全てのヒジュラ暦には相当するグレゴリオ暦を、コーランの引用には章句の番号(フリューゲル版の番号)を付加した。アラビア語起源のトルコ語ならびに名詞群は、(a)すでに英語形が受容されていればアラビア語形で音写し、(b)音写が定まっていなければトルコ語形で音写した。ムハンマドではなくメフメト、カーディー・アスカールではなくカザスケル、といった具合である。満場一致で受け入れられるオスマントルコ語字訳を完成できる見込みなど皆無であるし、それに私が妥協に傾いたとしてもキャーティプ・チェレビーは、厳し過ぎることは言わないでくれるだろうと感じている。

……さりとて、そうしたところで彼が神に対する反逆者になるわけでもなければ罪人になるわけでもない。それは無害である。