三. 舞踏と旋回について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

三. 舞踏と旋回について

「踊る」とは、辞書編集上的な意味でいうならばそれは周期的な動作のことである。激しいリズムと楽器の旋律を耳にすれば魂の多くは影響を受けるが、同時にリズムに合わせた周期的な動作の、目にする人に対する影響もこれはこれで相当のものである。実際、影響には多種多様な様相がある。聞くことを通じて影響を受ける者もいれば、またある者は見ることによって影響を受ける。しかしこれの場合、影響を与えるにはリズムが必要不可欠である。リズム無き非周期的な動作からは、このような効果は生じない。

踊りがもたらす効果については多くの意見がある。踊りを見ることでもたらされる結果についての解析は、歌うことに関する様々な意見と類似している。

さて、ここである特定のスーフィーたちが、彼ら流の祈祷として行なう動作について見てゆこう。正統派ウレマーはそうした旋回を「踊り」と位置づけ、それは禁じられていると発言する。また、それは許されるとする者たちには異端者の烙印を押す。スーフィーたちの言い分は、そもそもこれは踊りと定義されるものではない、というところから始まる。続けて、彼らは以下のように言う。「旋回の動作は踊りとは区別されるものであり、かつ人間の楽しみのためにあるものではない。これが許されたところで、公益の観点からしても何ら害はない」。彼らはエチオピア人の踊りとアリーの旋回を例に挙げる。その上で、「教義に関わる議論においてどちらか一方の意見を取る者が、異端宣告を受ける道理はない」。

ウレマーによる禁止令の本当の目的は、国家を保護することにある。何故なら国家は過去においても、スーフィーたちに大いに悩まされてきたからである。特にペルシャにおけるサファヴィー朝の勃興1などは良い例である。従って弟子の数を増やし、支持者を引きつけるような精神的熱情は滅ぼされねばならない。過酷かつ熾烈に取り締まることこそが、国家の観点からすれば結果として得策なのである。

それを行なうことで得られる益とは何かと問われれば、スーフィーの返答は以下の通りである。儀式において道の達人がこの動作を行なうと、必然的に熱が生じる。すると身体から冷えが去る。熱によって、身体のあらゆる部位の生気のめぐりが良くなる。気力も体力も活気づけられるし、中にはその魂が作動を開始し、何をするにも集中力の程度が高まる者もある。祈祷や音楽を聞くこともまた、これを進行させる一助となる。結果として、霊的な世界に向かう熱意が増して動きも活発になる。それから多くの達人は忘我の状態に達し、現世に対する意識を失う。身体は地上に残るが、魂は翼を得て同種の者の方へと向かうのである。この状態を体得した者が言うには、それは「味わった者のみが知る」。それは体得していない者よりも、より素早い動きとして表現される。このようなわけで志願者たちは、前進すればたちまちにしてその目的を果たす。身体を動かすことにより、精神や能力が動き始めることを、どうして否定できようか?若い学生たちは、暗唱する際には本能的に身体を左右に揺らす。頭を動かすことにより、脳に特定の暖と均衡が生じて熟考の力も増すのである。これはいくつかの哲学書にも記された事実である。

スーフィーが何を言っているのかはさておき、スーフィーが何であるのか、何をやっているのかの答えは以下の通りである。ハルワティー教団。2 彼らの大部分は、その儀式と服従を志願者たちの共同体の基礎としている。修道場を建立してハイ!とかフー!とか、彼らの怒号に欠くべからざる要素といえばそれであるが、それが彼らの社会の方便であり、彼らの生計の軸であり、志願者たちを支えるつっかい棒である。その昔、彼らの創始者たちがしっかりとした目的に沿って規定し、なおかつそれに値する者ならば誰でも自由に実践するべしとしたはずの規範の音楽、規範の諸動作は、今や彼らの偽善によって詐欺の罠の餌となり、いかがわしい馬鹿ものを捕える投げ縄となった。そういうわけで、愚鈍な俗物たちが彼らに群がる。修道場には奉納が献上され、信仰心あつい贈り物が降り注ぐ。こうした一連の流れにおいて、旋回は重要な役割を果たしている。彼らは決して旋回を手放さないだろう。馬鹿ものの一部は観客となる。また一部は弟子入りするか、自己流の禁欲者を名乗り始める。理屈も何もあったものではない。彼らは嘘でもいいから空に向かって声を張り上げて自分たちのシェイフを絶賛し、それから晩の糧のために舞台の幕を開ける。顔を付き合わせて一緒にハイ!とかフー!とか、彼らが「意識を神で満たし、主の唯一性を宣言する」と呼ぶところの、詐欺の道具をかつぎ出す。

このような連中が、ほんものの弟子や真の達人と誤認されている。「天幕は、外側からはどれも似たりよったりに見える」と、ことわざに言われる通りである。今の彼らと、遠い昔の彼らの先駆者たちとの(唯一の)共通点である衣裳と外見が、「友人を見れば、どのような人物であるかだいたいの見当はつく」という一般論とも相まって、彼らに対する承認の裁決を下すよう迫ってくる。そのため誰ひとりとして、長い時間を経て今や彼らの社会の方便、彼らの生計の軸、志願者たちを支えるつっかい棒と成り果てたあの怒号の罠を、敢えて破壊しようとはしない。彼らの邪魔立てをする者といえば正統派のウレマーのみであり、そしてそれがウレマーの義務なのである。かくして彼らを難じる沢山の冊子が書かれた。デルヴィーシュたちは全く悪びれもせずにこう返答する。「私たちは修道場の経営と弟子の友人たちから得た収入で生計を立てています。教団の儀式や実践などを、無から生み出せるわけがないでしょう?儀式も典礼も、長きに渡って絶やすことなく実践し続けてきたからこそ、こうして私たちの間で確立させることができているのです。たとえ『逸脱』と言われようが、私たちはやり続けますよ」。

このように彼らは、自分たちの生計の手段の馬鹿馬鹿しさを隠そうともしない。敵対的な批判では、彼らにそれを止めさせることはできない。彼らが絶えずぐるぐる旋回するのと全く同じで、狂信的な正統派たちも、絶えず彼らのあら捜しをし続ける。二つの派閥の勢力争いは、どちらをも悪循環のうずに引きずり込んだ。議論の連鎖は決して途切れることはない。それどころかますます長くなってゆく。分別ある人ならば、あら捜し病の患者にはならないだろうし、かといって、技巧を弄して演出されたにせものを信奉したりもしないだろう。おそらくは以下の詩人の言葉を読み、真の達人ではないが達人のふりをしているだけの人々について、しばし思いをめぐらせるだろう。

宝石を散りばめた外套はスーフィーの衣裳ではない
哀れな者にはつぎはぎだらけの古いぼろと溜め息
玉座につく王を妬んでいる彼らのシェイフが
説教壇の椅子の上でさも威厳ありげに座っている
彼らは威厳を教条とする者たちなのか?
どこをどう探しても威厳も謙遜も見当たらないが
期待の扉が開けば彼らは喜び
これで望みが叶ったと叫ぶ
彼らは燃え上がっているふりをする
しかし火の粉の輝きは持たない
彼らのような過ちを犯す者が一人もいなくなりますように
取るに足らない自らの価値を幾らかでも高めようと
彼らは価値高い人に中傷を浴びせる
それらしく見せるためなら衣裳にも帽子にも
わざと手を加えてぼろにしてのける
たとえその行ないが千の害を他人に及ぼそうが
自分の益になるなら彼らはやってのける
歌い踊るために彼らは集まる
それを合法だと思う者もいるが
ムスリムは皆それは誤りだと知っている
頭に巻いた大仰な白い布を取り払ってみれば
あらわになるのは白癬じみたはげ頭
偽善のスーフィーが神名を叫んだところで
蛙の鳴き声の方がまだ真実味があるというもの

兄弟よ、やめてくれ話の途中でさえ切るのは
ただでさえ多くの詩に詠まれてきたこの議論が
ますます長くなってしまうじゃないか

 


1. 1502年から1722年までペルシャを支配したサファヴィー朝は、その開祖シャー・イスマーイールがアリーの子孫であり、シーア派からは聖者として崇敬を集めていたことも勢力を拡大する一助となった。

2. ハルワティー教団は13世紀初頭、アブー・アブドゥッラー・スィラージュッディーン・ウマル・イブン・アクマルッディーン・アル=アージュによって創立された。