十二. ビドアについて

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

十二. ビドアについて

bid’a –– ビドア、革新 –– の意味するところとは、聖俗のいずれかを問わず、第二の世代もしくはそれ以降に出現した新たな進展である。つまり預言者(神の平安と祝福が彼の上にあらんことを)と彼の気高き教友たち(神の御満悦が彼らの上にあらんことを)の時代には存在せず、また三種類のスンナのどこにも痕跡がなく、かつ伝承にも言及のない事柄は何であれビドアに相当する。

こうしたものには二種類ある。一つめは「良い革新」と呼ばれる。預言者の時代には知られていなかったが、必要を満たすために後代の信仰の長たちによって許されることになったものがそれである。例えばミナレットの建設、書籍の製造などである。二つめは「悪い革新」である。例えば信仰の問題として、スンナの徒とは異なる誤った信条の分派であるとか、信仰の実践上、世間一般の人が何の典拠もなく自分たちで勝手にこしらえた崇拝の様式などがそれである。

どちらの類いについても、法学書をひもとけば関連する法令が明白かつ詳細に書かれている。ここでそれらの解説をするつもりはない。だがこれだけは言っておきたい。こうしたビドアは、すべて慣習と習慣を堅固な基盤としている。ひとたびビドアが根をはって共同体の内部に確立してしまえば、人々にそれを捨てさせようとの期待から「勧善懲悪」の原則論1を振り回したり、強要したりするのは愚の骨頂であり無知の極みである。人間は、それがスンナであろうがビドアであろうが、自分が慣れ親しむようになったものは何ひとつ手放しはしない。血に飢えた誰かが全員まとめて大虐殺でもしない限り無理である。たとえばスンナ派のスルタンたちは、教義上のビドアをめぐって多くの戦争や戦闘を繰り広げたが、しかし何の甲斐もなかった。実践上のビドアについても同様である。いつの世においても、善良で信心深い統治者や伝道者が長い歳月を費やしてこれに取り組んだが、自分たちが疲労困憊するばかりで、人々にはたったひとつのビドアさえ捨てさせることは出来なかったのである。

人間は習慣を断たない。たとえ何であろうが、神が命じない限り続くものは続くのである。統治者にとりなすべきこととは、イスラムの社会秩序を保護し、人々に対する義務とイスラムの原則を維持することである。伝道者であれば、人々に対してスンナの方へ向かうよう穏やかに注意を促し、忠告を与えるだけで義務を果たしたことになる。そして応じる義務は人々の側にこそある。彼らは、応じるよう強制されていい存在ではない。

要するにこの主題については、深く研究したところで意味がない。何故ならどの時代の人々であれ、預言者の時代の後に生まれた者が、自分たちの生活様式を仔細に調べてスンナと比較検討すれば、見出しうるのは広範囲に渡る不一致である。もしも誰もが正直に自らを考察したなら、スンナと近しく一致する点など何ひとつ見出しえないはずである。およそあらゆる時代のあらゆる言葉や行為のうち、ビドアに染まっていないものなど何ひとつ存在しないのである。

われわれとしては高貴なるムハンマド、共同体に遣わされし仲裁者が、彼に従うか弱く無力な者たちが犯す多くのビドアの罪を見逃してくれるようひたすら乞い願うばかりである。そしてこの者たちが信仰者であり、唯一の神を信じているという事実をもって、彼がこの者たちのために執りなし、この者たちのために赦しを請うてくれるよう願うばかりである。さもなければ共同体は、彼の完成度に沿った生活を余儀無くされる。これは極めて困難なことである。全能の神、いと高き主の慈悲とお導きがありますように。アーミン。

 


1. 第十七章を参照。