一. 預言者ヒドルの「生命」について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

一. 預言者ヒドルの「生命」について1

はじめに、「生」と「死」という言葉の意味は平易かつ常識の範囲内ではあるが、万全を期するためここで説明しておこう。まず「生」とは魂を吹き込まれた存在が有するものであり、呼吸、感覚、動作をといった兆候が備わっている。魂を吹き込まれた存在が「生」の兆候を示していれば、それは生きものとも呼ばれる。この兆候を持つ存在は物質的な肉体であって、それらの原型は四元素を材料に造られ、宇宙の原則に従って構成されている。あらゆる存在の構成は、行為と感情の支配と被支配が混ざり合った様相を呈している。混成物ができあがったところで、「生」を得る準備が整った状態になる。そして恵み豊かな主は、もの惜しみをなさらない。

めぐみ豊かな主は魂をお与えになる。それにより肉体は「生」を得て、感じたり動いたりし始める。異なる種類の生きものがおり、それぞれ、その構成もさまざまである。あらゆる生きもののうち最も均衡のとれた構成とは人間のそれであり、あらゆる構成の中心に位置している。

あらゆる生きものの日の長さは、その構成により長短さまざまである。これは寿命と呼ばれている。生きものの構成は互いに矛盾し合う元素どうしで造られており、同一の形態を永遠に保つことはできない。元素どうしの不協和、これが構成の質に変化をもたらすのだが、その兆しが必ず現れる。不協和の兆しは三つの段階において観察できる。第一の段階は成長の時期と呼ばれる。第二が停滞、第三が低下である。これらの段階において顕著に異なるのが、構成の生み出す肉体的な力である。さらに能動・受動といった気質(これが構成の主柱であり、生来の熱や生来の湿気もここから発している)も、これらの段階を経て強さから弱さへと移り変わってゆく。生来の熱は、生命の肉体的な形態と動物的な精神を形づくる生来の湿気を絶えず奪っており、これは外部からの、どのような影響にも左右されることがない。

もちろん、排泄されて失われた湿気は食事を取ることで補われるというのは本当である。しかし生来の湿気は年齢を追うごとに低下してゆき、最後にはほとんど残っておらず、外部からの補充を受け入れたり、留めておいたりするのもままならなくなる。こうして、生は終わりを迎える。感覚と動作、そして呼吸が去ってゆく。そうした状態における生きものは、今度は「死」の兆候によって特徴づけられる。「生」の兆候が消失したのである。そのようなわけで、「死」とは生きものにとって本来的に回避が不可能であり、免れえない類いのことであるのが証明される。

生きものの属別、種別の分類はあらゆる個体に適用され、またあらゆる個体を網羅している。預言者イエス(彼に平安あれ)の場合のような、自然界の法則の埒外の奇跡が召喚されたのでもない限り、誰ひとりとして特別に異なる者はいない。万が一にもそうした主張をするには、啓典の決定的な章句による証明が必要である。議論の諸原則に従うならば、たった一例の物語や仮定のみでは、すでに確証されている問題の有効な否定となりえないことは明白である。

さて、ヒドルの「生命」についてである。これについて、脱肉体化を果たして精神的な存在の階梯に到達したものと理解するならば、彼について示されるある種の証拠も、イエスの場合と同様に、その主張は有効とみなされうるだろう。しかしそれならばヒドルは、イエスが復活した際のそれと同等の状態ということになる。イエスは、彼と同種の息子たちとは肉体的には相見えてもおらず、言葉を交わしてもいない。とすると、これはヒドルにも不可能ということになる。先の主張を覆すには、邂逅と対話が必須となるからである。2

ここで質問する者があるかもしれない。では(ヒドルに「出会った」と主張する)人々は、嘘をついているのか?この伝説の背後には何があるのだろう?

神秘教団を率いる守護されしシェイフたちは、目には見えない世界との往来や取引を数多くこなしており、精神的な領域との関係も深い。これは程度の低い者たちには、手の届かないことである。スクタリのマフムード・エフェンディ(彼に神の慈悲あれ)の著書、Jami al-fadail –– 『美徳の解説』3 –– にある、彼の言葉と比較してみよう。

浄められた状態にあるとき、スーフィーのうちある者は、死者を目にすることがある。これに関して、あるデルヴィーシュがこう語っている。「精神道を歩み始めた頃、私はブルサにおりました。私たちの街区には、メヴラーナ・アル=ファナーリー・モスクで働くムエッズィンの一人が住んでおりました。ある日、彼が亡くなって、それから何日も後のことです。夜明けの礼拝の後でした。シェイフに会いに行く道すがら、私はそのムエッズィンに会いました。私の知らない人々と一緒でした。雪も降っておりましたし、私は彼に挨拶をして、そのまま歩き続けました。後でシェイフにこの話をしたところ、「それはおまえがここ数日間、自己鍛錬の行に励んでいるからであろう」と言われました。その時期の私は、何もつけずにただ乾いたパンのみを口にしておりました。それからシェイフはこうも言いました。「わしも一度、死者に会ったことがある。あれはブルサの魚市場の、一本先の通りであった」。

精神の道を歩み始める最初の段階において、シェイフたちは、気まぐれな魂という若い雄牛を、物質界にいながらにして精神界をその目に捉えられるようになるほどに、厳しい規律をもって調教する。前述の聖者が、自らの著書の中でそのように述べている。

彼らの友人たちの誰かが、あるいは愛されし者が亡くなると、しばらく後になってから庵の戸口でその人に出迎えられたり、挨拶をされたりすることがある。ある聖者の住まいを訪れた者が、驚きながらこう言った。「すぐそこで、亡くなったはずのアブー・誰某に会いました!たった今、先生の部屋から出て来て、そのままどこかへ行ってしまいましたよ!」。返答はこうである。「わが息子よ、おまえは自らをよく律し、自らの魂にうち勝った。そしてこれがその境地じゃよ。わしも時折、自分で市場に出かけたりしておるが、生者より死者の方を多く見かけることもある」。

この件についての事実とは、以下の通りである。後代の語り手たちは、無知ゆえかはたまた故意の虚偽か、精神的な洞察を客観的な事実として語ったのである。それを、本当の話を知らない一般の大衆が真実に違いないと考えた。疑問視されている物語の数々の、これが誤りの原点である。嘘つきの詐称者たちの中には、精神的な逢瀬を果たしたと主張したり、それを客観的な事実として語ったりする者がいるが、しばしば彼らはその虚偽のせいで、破滅を迎えたりもするものである。

しかしアシュケロンのイブン・ハジャルは、預言者の教友たちについての著作4の中で、ヒドルの肉体的な生命について言及していなかったか?そう言う者もあるかもしれない。

イブン・ハジャルはエジプトの裁判官で、伝承の口述者であり、大いなる影響力を持つ著名な人物であった。彼はシャフィーイー法学の書や多くの詩を執筆した。彼は八五二(1448)年にこの世を去った。彼の主立った才能とは伝承の口述にある。彼はこれを扱った五十巻にものぼる大著を書いた。伝承主義者の仕事とは、伝聞や口伝の中に伝承を見出し、これを記録することにある。徳高きこの人物は、この学問の諸原則を駆使して伝承の真実性を評価した。しかし精神的な洞察とは、観念的な思考の問題である。これは大いに異質な領域であって、伝承とはまったく接点を持たない。仮定と確信が交錯するイブン・ハジャルの著作を盾に反論するのは愚かなことであり、それでは反対者を説得できない。この主題については故イブン・ジャウズィ5が一冊の書として上梓しており、またイブン・ハイダルがその書評を書いている。それらの書物から、私が敢えてここに引用する必要もないだろう。何が書いてあるのか、賢い者なら読まずとも分かる。

 


1. トルコの民間伝承において旅人の守護者とされるヒドルは、通常、コーランに記述のある、モーセが出会った神の不思議な「ひとりのしもべ」と同一視されている(18章64-81節)。預言者エリヤ、聖ジョージ(ゲオルギウス)と同一視されている点については、F. W. Hasluck著 Christianity and Islam under the Sultans (Oxford, 1929), pp. 319-336 を参照。彼はアレクサンダー大王の宰相であり、不老不死の泉を発見したともいわれている。

2. ムスリムは、処女懐妊は信じつつもイエスの神性については認めていない。コーランはキリストの磔刑を否定している(4章156節)。「だが彼らが彼(イエス)を殺したのでもなく,また彼を十字架にかけたのでもない。ただ、彼らにはそう見えたまでである」。彼は前もって自らを昇天させていた。ここでの議論はムスリムが、唯一、死を免れ得た人物とみなすのはイエスであり、ヒドルの不死性についてはコーランの明確な裏付けがどこにもない限り、イエスのそれと同様の制約が課されねばならないということである。彼が地上を歩きまわり、人間と会話を交わすというのは問題外である。

3. Jami’ al-fada’il wa-qami’ al-radha’il とは、マフムード・エフェンディ・アル=ウスキュダリ(1038/1628-9没)による道徳、自己鍛錬、神秘主義に関する書。

4. al-Isaba fi tamyiz al-sahaba 、 シハーブッディーン・アフマド・イブン・アリー・イブン・ハジャル著。

5. ‘Ujjalat al-muntazir fi sharh hal al-Khidr al-Khidr 、アブゥル=ファラージュ・アブドゥッラフマーン・イブン・アリー著。イブン・ジャウズィの名で知られ(1200没)、ほぼあらゆる学問に関する書を執筆した。ヒドルの不死が偽であることはコーランの章句「われはあなた以前の誰に対しても、……永久に生きる者としたことはない(21章35節)」によって証明されている、というのがこの書の主たる議論となっている。