十五. 握手について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

十五. 握手について1

元はといえば握手とは、出会いに敬意を表するために行なわれるスンナであった。貴き教友たち(彼らすべての上に、全能の神の御満悦あれ)は、お互いに出会えば握手を交わし、「神の赦しあれ、私にもあなたにも!」と言ったものである。こういった預言者の伝承は数多く存在する。お望みであれば、ナワーウィーの Adhkar1 を参考にされたい。まるまる一章、握手に関する伝承に捧げられている。のちになってこの習慣はすたれてしまい、人々は礼拝の後にのみこれ(握手)を行なうようになった。トルコでは、もっぱら金曜礼拝の後に行なわれている。これは習慣と慣行に基づいた「革新」であったため、ある伝道者などはそれを異端的なシーア派の実践であるとして禁止した。フェトワが請求されたが、その回答は以下の通りであった。いわく、異端的なシーア派の実践と定義されうるのは、毎日の五回の礼拝すべての後に行なわれる握手である。金曜礼拝の後に握手を交わすのは特例である。「革新」が根深くはびこっている場合は可能な限り妥協し、最小限に食い止めることによって人々を正す方が望ましい。

この件についても、節度を失うといった段階にまでは至らずともそれなりの議論が起こった。いくばくかの人々はこの実践を断念した。しかし大部分の人々は、特に祝日ともなれば、これを宗教的義務と考えている。

この場合、理にかなった中庸の道とは、金曜のモスクにおいて最初に握手を求める者であってはならない、ということである。しかし隣り合わせになった者に手を差し出されたなら、握り返す以外に何ができようか?そうでもしなければ手を差し出した者は心を痛めるか、困惑するに違いない。いずれにせよ若干は、付き合いの悪さに対する不愉快な感情を抱くに違いない。信仰者の感情を傷つけることを考えれば、この「革新」の実践など大した問題ではない。そして握手を交わしたその瞬間から、この習慣に親しみをおぼえ、やがて自ら主導権をもって握手を交わすようになったとする –– さりとて、そうしたところで彼が神に対する反逆者になるわけでもなければ罪人になるわけでもない。それは無害である。

祝日に握手を交わすことについて。誰かに出会って握手を交わすことはスンナである。それを祝日にのみ限定するのは習慣と慣行の問題であって、スンナとはいえない。しかしそれを言い出したらあらゆる行為のあらゆる側面が、スンナとはいえないことは諸君もご存知の通りである。

 


1. 伝承の集成である同書の題名は、正しくは Hilyat al-abrar wa-shi’ar al-akhyar fi talkhis al-da’awat wal- adhkar という。著者はムフイッディーン・アブー・ザカリヤ・ヤフヤー・イブン・シャラフ・アル=ナワーウィー(1233-77)。