十七. 正しきを命じ、悪を禁じること(勧善懲悪)について

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

十七. 正しきを命じ、悪を禁じること(勧善懲悪)について1

イスラムのウレマーたちの意見は割れており、ある者はこれを絶対的な義務だと言い、またある者はそうではないと言う。しかし実のところ、これは全くもって時と場合による。義務や禁止に関する問題についてなら、これは義務となる。単に承認されていないか、推奨に関する問題についてであれば、これは推奨となる。故イマーム・サイフッディーン・アル=アーマディーは著書 Abkar al-afkar(『思考の第一の果実』)2において、義務としてなすべき際におけるこの行為の、七つの規則に言及している。偉大なる学者アドゥドゥッディーン・アル=イージーの著書 Mawaqif(『階梯』)にも、またサイイド・シャリーフ・アル=ジュルジャーニーの後期の解説書にも同様の言及がある。後者の両名はこのうち二つの規則について、他の全てに優先するものとして特別な扱いをしている。

第一の規則。禁令を発する者もこれを受け取る者も、そのどちらもが mukallaf –– 分別のつく年齢に達しており、完全に聖法の対象となる者(能力者) –– であり、会話の理解が可能な者でなくてはならない。

第二の規則。禁令を発する者は、自分の命じているものごとが実際に正しく、また禁じているものごとが実際に間違っていることを知っていなければならないが、彼自身はそれに応じて行為する必要はなく、また品行方正である必要もない。例えば放蕩にうつつを抜かして飲酒にふける者が、他の者には飲酒を禁じるとする。彼にとり飲酒の禁止は義務であるが、他の者に飲酒の禁止を告げるのも義務である。義務のひとつを放棄したとしても、その他の義務まで放棄する必要はない。義務のひとつを回避することと、その他の義務を遂行することとは両立する。もちろん、どちらの義務も遂行すれば彼は尊敬を受けるであろうし、彼の言葉の説得力も増すだろうことは言うまでもない。以下の規則と諸条件にあてはまるようなら、そうであることが義務となる。

第三の規則。命じる際には義務とされるものごとを命じ、禁じる際には禁止されているものごとを禁じるのでなければならない。それ以外のものごとを命じたり禁じたりするのは、すでに述べた通り義務ではない。

第四の規則。例えば礼拝の義務、葡萄酒の禁止などと同様に、命令の対象となるものごとの絶対的な性質が確実に明白にされていなければならない。そうでないなら、それは単に意見を述べたに過ぎない。

第五の規則。命じたり禁じたりできる能力者が自分の他に誰もいない、という者があってはならない。その場合、これは個人の義務を通り越して共同体の連帯責任となる。あらゆる地区に能力者がひとりいればそれで十分である。しかしながら、(その他の諸条件が満たされていることを前提として)過ちがなされたのを見た際には「他の誰かがやるだろう」と言って素通りしてはいけない。何故なら、他の誰かがその過ちに気づくとは限らないからである。

第六の規則、かつ他のすべてに優先する規則その一。もしも正しきを命じ悪を禁じようとするなら、それによって正義が達成され邪悪が減じるであろうという合理的な予測があっての上でなければならない。すなわち(勧善懲悪の実践が)人々を頑迷な執着に追いやるよう刺戟したり、平穏を打破させるべく煽動するようであってはならない。そうした事態が起こるようなら、命令や禁止の義務はない。(勧善懲悪の)実践が称賛に値しうるのは、信仰の基本的な原則の実践という目的に沿って、秩序の撹乱という害が生じないという条件に従い、口論や敵対を招くことなしに成し遂げられた場合のみである。

第七の規則、かつ他のすべてに優先する規則その二。厳しい尋問や詮索は御法度である。つまり、絶対に、こそこそと見張ったり、覗いたりしてまでこれ(勧善懲悪)を行なってはならない。覗き見の意味するところとは、ものごとを暴いて穢らわしい中傷を行なうためなら労を惜しまない、ということであって、これは禁止された行為である。全能の神は、敬われるべきその書物において「互いをさぐりあってはならない(49章12節)」と告げ、また「醜聞が広がるのを好む人々(24章18節)」についても語っておられる。伝承において預言者(神よ、彼に祝福と平安を与えたまえ)いわく、「自らの兄弟の恥を暴きたてる者があれば、神はその者の恥を暴きたてたもう」。また別の伝承において、いわく「ある種の堕落に手を染めた者があるならば隠しておけ、神もそれを隠してくださるだろう。もしその者が自ら秘密の罪を明かすならば、神の命じるところに従い彼を罰そう」。3

悪行は詮索せずにこれを隠し、親切と寛容をもって遇するよう命じる。それこそが、彼の気高き習慣だったのである。小うるさい中傷に煩わされるのは、彼にとっては耐え難いことであった。彼は「悪行の暴露は非常に不快であると知れ、ゆえにそれを隠し通せ」と言い、また「中傷混じりの訴えを耳にしたなら、『あるいは』とか『おそらく』といった弁解を用いて、それを包み隠せ」とも言っている。

以上が、正しきを命じて悪を禁じるという義務を遂行する際に、満たされるべき規則と条件である。これらのうちどれかひとつでも欠けているようなら、それは義務ではなく嗜好の問題である。人々が争い合う危険が若干なりとも存在するならば、これを行なわずにおくべきであり、その場合は無言による不同意を示せばそれで十分である。

さて、これでわれわれにも「自分たちは勧善懲悪を行なっているのだ」と主張する者たちが、どれほど傲慢であるかが分かった。最も高貴なる預言者は、ご自身の共同体には親切に、そして優しく接したものである。それを後からやってきた傲慢な者たちときたら、預言者の名誉を汚すことには目もくれず、ささいな理由で共同体の仲間に対し、ある者は不信仰者、また別の者は冒涜者、また別の者は異端者という具合に決めつけてかかり、神を畏れることも無ければ預言者の前に恥じいることもしない。彼らは人々を嘆かわしい熱狂の状態に仕向け、軋轢を引き起こす。一般の大衆は上記の規則や条件をまったく弁えておらず、どのような場合においても勧善懲悪は義務であると思い込んで口喧嘩にはげみ、互いに譲り合おうともしない。石のごとき愚かさをもって彼らがいそしむ根拠なき論争は、時として流血沙汰に発展する。ムスリム同士の戦いと争いのほとんどは、これが原因となって生じている。

 


1. この原則の典拠については、コーラン3章100節を参照。

2. 神学の書 Abkar al-afkar の著者アブル=ハサン・アリー・イブン・サイフッディーン・アル=アーマディーは元来ハンバリー学派であったが、のちにシャーフィイーに転向した。1233年、ダマスカスにて没。

3. これらの言葉は、姦通を自白した者たちに対する鞭打ちを命じた後で預言者によって語られたものである。