二十. エブッスウード・エフェンディ対ビルギリ・メフメト・エフェンディの論争

『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス

 

二十. エブッスウード・エフェンディ対ビルギリ・メフメト・エフェンディの論争

故エブッスウード・エフェンディは八九六(1491)年に生まれ、学者によくある順当な経歴を順当に積み上げ、九五二年シャアバーン月(1545年10月)、ムフイッディーン・エフェンディの後任としてシェイヒュルイスラムの地位についた。ゆうに三十年の間、フェトワを発令し続け1、九八二年ジュマーダー月の第五日(1574年8月23日)、この世を去った。その人生を通じて、オスマン帝国における唯一の覚者であり続け、祝福されしスルタン・スレイマン・ハーンと同様、今は楽園に住まうこの宗教人もまた、その全生涯において階級組織の最高位を占有し続けた。オスマン帝国における人定法のほぼ全てを聖法と調和させ、市民社会と宗教統治の、両方の欠陥を矯正したのは、彼とケマルパシャザーデである。このように、国家の姿を整えたのは彼らであった。

ビルギリ・メフメト・エフェンディは、バルケスィルの師範ピール・アリー・エフェンディの息子である。学校教育を終えると、彼はイスタンブルにやって来て、カザスケルのアブドゥッラフマーン・エフェンディに見習い職として雇い入れられることになり、死亡した兵士の地所の問題を扱っているエディルネの裁判所へ出向するように命じられた。そこで彼はバイラミー教団2の完全なる導師、カラマーンのシェイフ・アブドゥッラフマーンに仕えて精神の浄化にいそしんだ。彼はエディルネに行き、死亡した兵士の地所の売却によって受領した資金をその権利者たちに手渡しした。登記に従って資金を分配し、あらゆる合法な要求に応じつつ、彼はシェイフの勧めに従い、高等な学問の伝授にも携わった。こうして伝承とコーラン解釈を教えることにより、かの聖者の承認を得たのである。

彼に備わった特筆すべき美徳については、スルタン・セリム二世3の家庭教師を務めていたメヴラーナ・アターウッラーも認めており、また彼らが兄弟であったという事実も手伝って、彼はビルギ4に建立されたメドレセの指導者の地位を与えられた。彼の呼び名「ビルギリ」の由来である。あらゆる土地から学生たちがやって来て、大いなる才能と精神的価値を持つこの人物は、引く手あまたの寵児となった。彼は時に説教し、時に教え、正しきを勧め悪を禁じることによって預言者のスンナを復活させようと常に熱心だった。九八一年ジュマーダー月(1573年9月)の第一日、五十五歳で彼は他界した。彼に神の慈悲あらんことを。

晩年、彼はイスタンブルを訪れた。彼の名を耳にした大宰相メフメト・パシャと会見するためであり、それによって多くの不正を糺せるようになると考えたのである。彼は多くの書物と論文の著者であったが、その中に al-Sayf al-sarim(『鋭い剣』)と呼ばれる論文があった。その中で彼は、あらゆる崇拝の行為は勿論のこと、コーランの朗誦や伝授の見返りとして報酬を受け取るのは非合法であり、また動産や通貨の waqf(寄進)によって利潤を得るのは許される行為ではない、と断じていた。論文は伝承に基づいて述べられており、高位のイマームたちを論難するものであった。これに対し、エブッスウード・エフェンディになり代って、高名なカーディー、ビラールザーデが反証を書いた。この件に関する議論と論争、そして両派の口論は、帝国内でも最高潮に達した。

エブッスウード・エフェンディは、当世のウレマーたちにならって軋轢を引き起こすのを避けた。しかしビラールザーデは、古くからのことわざ「反論で名を売れ」に従った。ビルギリ・エフェンディが、その善良な信仰心から提唱した主張に対して、彼は自分が目立ちたいという偽善的な欲望のためにフェトワを公布する機会を利用したのである。彼は醜く詳細をあげつらって断定した。

さて、ここまでは Shaqaiq7 の補記からの話である。ここからは、慎ましき筆者による話の続きである。

ビルギリ・エフェンディは、法の諸科学を修めた堅実な学者であり、またあるシェイフたちから聞くところによれば、論理学の一分野である純理論的諸科学のうち、ひとつについては完璧な知識を身につけていたとのことである。しかしその他の哲学的な諸科学は彼の気質に合わず、彼は自らの著書において、それらに対する非難を表明している。同様に、彼は人類の慣習や置かれた環境を知るための歴史についても学んでいない。彼は聖法一筋の、敬虔なる専門家だったのである。彼の著書 al-Tariqat al-Muhammadiya には、上述の問題も含め、スーフィーによる舞踊や旋回について、また「あのけがらわしいあれ」、つまり通貨を得るために営まれる人間の取引の堕落について、彼の性分から見た通りに書かれている。彼は慣習にも慣例にも、微塵たりとも容赦しない。『鋭い剣』における彼の論駁は以下のように始まる。

「本稿は、遺言の作成ないし死亡が確認された場合を除いては、現金によるワクフは非合法であることを示す意図をもって書かれたものである。現ムフティーのエブッスウード・エフェンディは、これ(ワクフ)の実践は必要不可欠であるとして、多くの過誤を含む論文を著した。それゆえ、何故それが拒絶されねばならないかの説明が必須である。さもなければ、ワクフを設立しようという者たちはこれを信頼に足るとみなし、益を得ようと望んだはずが罪を犯す羽目になる。さもなければ、裁判官たちはこれに騙され、これを頼って誤った判決を下す羽目になる。これは信頼に足るものではなく、よって復活の日の申し開きとして用いることは不可能である。これは法のありとあらゆる面に反するものであり、また理性と伝承に逆らうものである。私はこれを、人類にとっての不和の源泉とみなしている。変えられる者ならば誰しもが、変えねばならぬ悪とみなしている。とは言え私は、誰もが皆そうするとは考えていない。何故なら無知の者、臆病な者がいるためである。そこで、筆と舌をもって人々に過ちを禁ずるという私に課された使命を果たすべく、教義に反する抑制されるべき事柄について、こうして警告するものである。」

私がここにかの尊敬すべき宗教者の言葉を引用したのは、エブッスウード・エフェンディのような大物に対して歯向かおうという、彼が示した不屈の精神の度合いを知らしめておこうと考えたためである。

しかしこれほど多くの議論や論争を経た後でさえ、彼の禁令はひとつとして実現されることはなかった。慣習と慣例に反するものであったがゆえである。一般の大衆の間では、彼は何ひとつ成果をあげることはできなかった。彼の弟子や支持者の多くもまた、数々の主題において極端な見解を表明し、彼と同じ道をたどっていった。

 


1. 1520年、スレイマン(1世)は26歳で即位し、1566年に死去するまで統治者として君臨した。彼の支配した期間はその他のどのスルタンよりも最も長い。またエブッスウードも、他の誰よりも最も長くシェイヒュルイスラムとして在職した。

2. バイラミー教団は、15世紀初頭にアンカラのハッジ・バイラミー・ヴェリによって創始された。

3. スルタン・セリム2世。在位1566-74年。

4. ビルギはスミルナ(イズミール)南東の、オデミシュに近い小さな町。

5. ソコルル・メフメト・パシャは1565年から1579年にわたり、スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世につかえた大宰相。

6. 動産や通貨に基づくワクフへの反論は、それがワクフの永続性という性質と矛盾するという趣旨においてなされた。

7. 論文の正式な題名は al-Shaqaiq al-Numaniya fi ulama al-dawlat al-Uthmaniya(『緋色の芍薬:オスマン帝国のウレマーをたちについて』)。著者はアフマド・イブン=ムスタファ・タシュコプルザーデ(968/1560-1没)。複数の著述家がこれに注釈が加えており、それは1143/1730-1年に最も新たな注釈がつけられるまで続いた。