01. はじめに

『スーフィズム』
著 A. J. アーベリー

01. はじめに

たとえ個々の神秘主義者が自らの宗教について明確に告白していようが、神秘主義とは、その根底においてはまったく同一の、神とのパーソナルな交わりに対する人間の精神に共通の切望であり、一定して変わることのない現象である –– このように論ずることが、今やありきたりの常套句となっている。しかし一方では、あるひとつの神秘主義の形態が、いかにその他の神秘主義の影響を受けているかを証明する試みに、多くの労力と学識が費やされもしてきた。そのような捉えどころのない問題における証明は困難であるか、ほとんど不可能でさえあるにも関わらず、外部の信仰や宗派との接触や、それらが思考と感情の新たな創造の上に残していった感銘を抜きにしては、宗教運動が生じ育つことはない、とも一般に合意されている。

スーフィズムとは、イスラムにおける神秘主義に与えられた呼称であるが、簡潔であることを必然とする解説においては、簡潔さを追求する都合上、これら二つの主張を証明済みのものとして扱うことがもとめられよう。従って、ここではスーフィーたちがキリスト教やユダヤ教、グノーシス、新プラトン主義、ヘルメス主義、ゾロアスター教や仏教の例にどれほど負っているか、あるいはほとんど負っていないかという、一世紀以上に渡って進行中の議論を、再び検討したり言い換えたりするのに時間を浪費することはしない。イスラムとスーフィズムが勃興し繁栄した地域は、それぞれが独自の神秘主義を持った複数の諸宗教が登場し、ある時は勝利し、またある時は敗退していった地域でもある点に留意し、この事実についてはそれ自体に語らせることとし、それらとはあたかも遮断された、一個の発露としてのスーフィズムに意識を集中し、これを提示するに留めるものとする。この運動をイスラムの一面として内部から観察し、その成長を確実に決定づけた外部の諸要因については、存在しないかのようにみなすものとする。この手続きに従うことにより、それ自体で完結しているものとして認識可能な姿を描写し、単一の信仰と儀式から発達した神秘主義の姿を描写する。それを踏まえた上で、はじめて他の信仰における神秘主義との比較と対照が可能となり、それが実際には何であるのかが明らかになることが望まれる。なぜなら神秘主義とは、それが普遍の定数であることに疑いの余地はないが、そのヴァリエーションにおいては、それらの基礎となった複数の宗教的体系によって、非常にはっきりと特徴づけられていることが認められるからである。これら多種多様の営みの中においては、スーフィズムは、妥協なき一神教の神秘主義運動と定義されるかもしれない。

イスラムの教えの中核とは、神は唯一であるという教義である。神は配偶を持たず、神の全能を共有するか、あるいは競い合う同格も持たない。神は自らの決定を変更したり、裁定を執り成したりする権利を有する者の存在を認めない。イスラムは具現化した神も、救世主も認めていない。事物は唯一の主(rabb ラッブ)たるアッラーと、主の被造物でありアブド(‘abd しもべ)たる万人の間に存在する。そのうち少数の人が神の預言者と呼ばれているが、彼らの義務とはアダムからムハンマドに至るまで、ただ人類を主へと招くことにあるのみである。彼らは人類に対する神聖なメッセージの運び手であり、それは時代から時代へ、人から人へ変化するものではない。神が彼らを、その特別な恩寵と好意を受け取る者として指名したことを除けば、預言者たちはその他の人間と同様である。もちろん、預言者は崇拝されるべきではない。シルク(shirk 多神崇拝)でありクフル(kufr 不信仰)となるおそれがあるからだが、しかし彼は神によって語りかけられ、神によって選ばれた神の使徒である。尊敬され、模倣されていることは明らかである。

ムスリムにとり神のメッセージとは、その全容がコーランに含まれている。コーランとは、人たるムハンマドに断続的に下された一連の諸啓示からなる一冊である。この書物は、ユダヤ教やキリスト教の聖典を廃止するものではない。むしろ神聖なメッセージを、不正に歪められた伝統の中から保護すべきものとして確証する。ムスリムの神秘主義者にとりコーランとは、導きと正当な根拠を見出す際に従うべき最高の権威である。

コーランがムハンマドに啓示された状況については、当然ながらスーフィーにとり大いに興味深い事柄である。神は人と話すということの、それは明らかな証明ではないか?そして神の声を聞きたいというのが、彼自身の熱望である。自らの信仰の創始者である人物がどのようにして、預言者であるということを通じ、その創造主と不断に接点を持てるほどの特権を得たのか、知らずにはおられなくなるだろう。こうしてスーフィーはムハンマドのスィーラ(sira 伝記)を学習し、彼のスンナ(sunna 行動規範)を理解し、そしてハディース(hadith 伝承)と親しむことに一生を捧げるようになる。ハディースとは世代から世代へと、最初は口伝によって、のちに書伝として受け継がれてきたユニークかつ膨大な量の情報源であり、啓蒙を導き出すための源泉ともなりうる。ハディースはコーランに続く第二の柱であり、スーフィーにとってはその他すべてのムスリム同様、自らの信仰と人生を織りなす拠り所である。

イスラムの最初期から預言者は、彼を従うべき模範とし、神と人の眼前に、正義と謙譲をもって生きる忠実な信仰者には事欠かなかった。彼らの行ないの正しさ、完成された敬虔さは、彼らの創造主をいたく喜ばせるものであった。そのため、主は尽きせぬ懇意をもって、彼らを自らの「友(auliya アウリヤー、単数形wali ワリー)」に選んだのである。この語彙はやがて、キリスト教の「聖人」と多かれ少なかれ同義となっていく。親密さや恩典のように、認められることを真剣に望んだスーフィーは、彼ら聖なる人々が公然と、あるいは私的に行ったことを熱心に学び、叡智と神聖からなる言葉に、献身と天上の愛からなる歌に、意識と心を傾けて彼らを追憶した。それが彼らの、第三の柱となったのである。

最後に、神の意志に対する誠実な服従の人生の中で、神の言葉、神の預言者に導かれ、神の聖者たちを模範とし、慎ましやかに瞑想的な生活を送ることにより、スーフィー自身もそうした愛されるべきしるしの体現者となり、賜り物の受取人として神に選ばれることもありうる。霊的な巡礼における様々な心的状態(ahwal アフワール、単数形hal ハール)と神秘階梯(maqamat マカーマート、単数形maqam マカーム)を通過し、彼は特別な交わりに関する多くの確証を目にし、その中で神の傍に立つ(karamat カラーマート、『恩寵』)。こうした個人的な経験が、彼の義の宮殿を支える第四の柱を形成する。

導かれ、愛されしムスリムの神秘主義者の中には、自己を消融(fana’ ファナー)させ、神の意識の中に存続(baqa’ バカー)することにより、束の間の現世を生きながらにして、永遠を垣間見ようとさえ望む者もある。彼の切望するところは、死を迎え裁きを受けた後で、天使たちと預言者たち、聖者たちと守られし者たちと共に、全能の主の傍近く、至福の中に永遠に住まうことなのである。

 


1. スーフィー研究に関する一般的な参考文献については、拙稿 Introduction to the History of Sufism (Longmans, 1943) を参照。