02. 神の言葉

『スーフィズム』
著 A. J. アーベリー

02. 神の言葉

ムハンマドは、貴族的な名門クライシュ一族のアブドゥッラーとアーミナの息子として、アラブの歴史家たちによれば西暦571年、メッカに生まれた。彼の両親は高潔な人々だったが、驕慢な一族の中では貧しい部類に属した。生まれるよりも先に父に死なれ、六歳の頃には母を亡くした。最初は祖父アブドゥル・ムッタリブの、そしてその死後は叔父で商人のアブー・ターリブの庇護の下に育った。メッカを囲む丘を、少年のムハンマドはあてもなく歩き回り、同族の人々の群れを遠くから眺めて過ごした。こうして彼は早くから、孤児であることの孤独と、アラビアの荒涼とした沙漠の悲哀に慣れつつ育っていった。二十五歳で、彼よりも十五歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚した。彼女が生きている間、彼は他の妻を持つことはしなかった。このとき、彼は生まれて初めての慰めを得たのである。細心の注意と誠実さをもって、彼は妻の営んでいた事業に取り組んだ。

しかし仕事の合間には、彼はしばしば、悲しい少年時代に慣れ親しんだ丘へと足を運んだ。そこで彼は、アラビアの砂を血で濡らす冷酷な部族の争いや、偶像崇拝の忌まわしさ、騒々しい都を支配する放埒などについて沈思黙考していた、と伝えられている。四十歳になる頃、彼は未知の訪れを経験した。それが彼の、預言者としての使命の始まりの証しとなった。ヒラーの洞窟の中でもの思いにひたっていると、突然、声が語りかけてくるのが聞こえた。「誦め、汝の主の御名において。」1 それから短いことづけが告げられた。彼 –– ユダヤ教の伝統については、多少は知らなくもなかった –– が、人々に預言を伝えるために召喚されたことを信じるよう促すものであった。更なる啓示が届けられるまでには間があった(そのため、彼は疑惑と不安で錯乱しそうになった)。するとたちまち、前よりもより明確に啓示が授けられた。これ以上はないほどに動揺した状態で家路を急ぐと、彼はハディージャに、覆いの布で包んでくれるようにと頼んだ。横たわり、静かに耳を澄ませていると、先ほどと同じ調子の、緊迫した声が聞こえた。「おお、汝、自ら覆いに包まる者よ。立て、警告せよ。」2 それ以降、西暦六三二年にこの世の生涯を終えるまでの間、ムハンマドは一定の間隔をおいてその声 –– 天使ガブリエルのそれであるとされている –– を聞き続けた。聞いたことは何であれ、近親者たちや、つき従う者たちに伝えた。時が経つにつれて、一連の啓示は一冊の書物として蒐集され、それはコーランと呼ばれるようになった。コーランとは「暗誦」を意味し、それは彼が初めて天から下されるのを聞いた最初の言葉、「誦め」と同じ語根に由来している。

コーランとは、黙示録的な警告 –– 天国と地獄の光景と、早々に悔悟せよとの説諭 –– に始まり、以前の預言者たちの使命を熱狂的に語るかと思えば、儀式や法令について述べるといった、多岐に渡る様々なエレメントを一冊に集成した聖典である。それは確証であって、神によって初期の預言者たちに与えられた諸啓示を廃棄するものではなく、そこにはメッカに聖殿(Kaba カアバ)を建立したアブラハム、ユダヤの律法者モーセ、そしてマリアの息子であり神の言葉であるイエスも含まれる。そしてキリスト教徒の主張とは異なり、イエスは十字架にかけられてはおらず、殺されたのは神のみわざによって身代わりとなった彼の似姿である、としている。ムスリムの教典群は、信仰者に課されている宗教的義務を詳細に定め、神のしもべとして、また共同体の忠実な成員としての振る舞いを規制しているが、だからといってコーランにおけるそうした側面にすぐさま飛びつき、この場で要約しようとするものではない。それよりもむしろ興味をひかれるのは、神の本質と諸々の属性を証明するものとしてスーフィーたちから愛された諸節であり、ガブリエルの声を通してムハンマドに語りかけるという、神の人類に対する自己開示についてである。自らもまた神との交流をはかれるかもしれないというスーフィーたちの確信を鼓舞し、正当化しているのは、主にそうした神秘的な記述だからである。

コーランは終始一貫して神を、「審判の日の主宰者」3 であり、唯一の全能の支配者として示している。全知の神は人間の理解を超越しており、そのため人間には「かれの知識をうかがい知ることはできない」4 が、しかしそれでも神は自らのしもべたちに対して、かれの被造物について熟考し、かれの創造について観察するよう繰り返し命じる。そうすることにより、かれを神として認識できるだろうというのである。神は問う:「いったい彼らは、らくだがどのように造られたかを考えてみなかったのか?」。5 そしてまた、「彼らは天空を操られて飛んでいる鳥を見たことがないのか。それらを支えているのは、ただ神あるのみ。信仰する者にとり、これこそみしるしである」。6 蜜蜂も、「思慮深い人々にとってのみしるし」7 を備えている。崇高な章句を通じて、神は宣言する。「まことに、天地の創造、昼夜の交替のうちに、人々に有用なものを積んで海を走る船のうちに、神が天から降らし、いったん枯死した大地を生かしてそこにあらゆる生き物をまき散らした雨のうちに、風向きの変わりのうちに、天と地のあいだを駆使させられる雲のうちに、これらすべてのうちに分別ある人々へのみしるしがある」。8 このように、創造における最も偉大かつ崇高な側面から、最も矮小かつ低俗な側面に至るまで、「まことに神は、蚊でもそれ以上のものでも、譬えに引用することを恥じたまわない」。9

神はムハンマドに保証する。「わがしもべたちが、われについて汝に尋ねるとき、われはすぐ近くにいる。」10 それもそのはずで、神は「人間の頸の血管よりも、人間に近い」11 のである。そしてもしも神の驚くべきみわざを見ようという者があるならば、「地上を旅し、神の創造の様子をよく見るがよい」12 と命じられる –– イスラムにおける放浪の修行者たちが心に刻み、自らの生きる道の後ろ盾として引用する命令である。「おまえたちがどこに向きを変えても、そこに神のお顔がある。」13 すべての中でも最も愛されたこの章句は、多くの美しい格言や詩のインスピレーションの源となった。しかしおそらく、こうしたあらゆる章句の中でも最も正当に讃美されてきたのは、いわゆる光の章句と呼ばれる、不断に瞑想と解釈の対象となってきた以下である。

神は天地の光である。その光をたとえれば、ともし火のある壁龕のようである。そのともし火は水晶の中にあり、水晶はさながらきらめく星のようである。祝福された木、東のものでもなく西のものでもない橄欖の木で焚かれている。その油は火にふれることがないのに、まさに照り輝くばかり。光に光を加える。神は欲する者をその光に導きたもう。神は人々に譬えを用いたもう。神はいっさいのことをよくご存じである。高々と建てられ、御名が唱えられることを神がお許しになった家々では、早朝にも夕にも賛美の声がする。この人々は、商品や取引きのために、神を念じ、礼拝を守り、喜捨を行なうことがおろそかになることなく、心と目が転倒する日を恐れる。自分たちの行ないの最善のものに神が報い、さらにみ恵みを加えたもうためである。神は欲する者には計算ぬきに下賜したもう。信仰なき者の行ないは、広野の蜃気楼のようである。渇く者が水かと思い、やっとそこに来れば、なにも見いだすことができないで、神をそこに見いだす。そこで神は計算をすませたもう。神は計算の早いお方である。あるいはまた、深い海の暗黒のようである。波がこれをおおい、その上から波が、その上から雲がおおい、暗黒が重なりあう。自分の手を出しても、ほとんどそれを見ることができない。神が光を与えたまわない者には、いかなる光もない。天と地のあいだにあるいっさいのものが、翼を張って飛ぶ鳥まで神を讃美するのが、汝にはわからないのか。いずれも礼拝と讃美を知っている。神は彼らの所業をよく知りたもう。神は彼らの所業をよく知りたもう。天と地の主権は神に属し、すべての行き着く先は神のみもとである。14

神はすべての預言者に関する、遠い昔の物語を順番に告げている。それぞれが、それぞれの特別な恩寵のしるしに従っている。「モーセとアロンには光明と、神を畏れる人々のための光と訓戒を授けた。」15 「アブラハムには正しい悟りを授けた。われらは彼を、それにふさわしいと知っていたからである。」16 「そして、ソロモンにはものごとの判断を悟らせたのである。われらはめいめい(ダビデとソロモン)に知恵と知識を与えた。ダビデといっしょに山々や鳥どもを駆使して神を讃美させたのもわれらである。また、ソロモンのために疾風を備え、彼の命令に従って、われらが祝福した地へと走らしめた。」17 神は燃える柴の奇跡を通してモーセに語りかけた。18 「モーセがわれらと約束した時に来て、主が語りかけたもうたとき、彼は言った、『主よ、私に見えるよう、お姿をあらわしてください。』主は言いたもうた、『いや、おまえはわしを見ることはできない。しかし、あの山を見よ。もしその場にじっと動かないなら、きっとわしを見ることができるだろう』。主は山に姿をあらわしたもうや、それを崩壊させたまい、モーセは気を失って倒れた。」19

このようにしてムハンマドも、やがて時がきて神の恩寵の素晴らしいしるしを証明することになる。「(メッカの)聖なる礼拝堂から、周囲を祝福した遠隔の(エルサレムの)礼拝堂まで、神はそのしもべを連れて旅をした、われらがしるしを示すため。」20 この奇跡的な旅に関しては、信心深い伝説が豊富に語られるようになるが、それらについては後に参照する。現時点では、コーランにおけるもうひとつの章句を参照するだけで良い。これは一般に、先の短い引用が暗示するものの詳述であり、ムハンマドが経験した、二つの異なった場面におけるガブリエルのヴィジョンについての解説とされている。「それは、まぎれもなく彼に黙示される啓示である。彼にそれを教えたのは、恐るべき力の持ち主、すぐれた知力を持つお方。立ってその姿を、もっとも高い地平線にあらわした。ついで、下って接近した。弓二つほどの近さか、もっと近いところへ来て、そのしもべに神の啓示をつげた。彼の心が、見てしまったものを偽るようなことはない。おまえたちは、それでも彼が見たものをめぐって、彼と論じあうのか。彼は、いま一度そのお方のご降臨を見たことがあった。人知のきわまるところのスィドラの木のそばのことであった。その木のそばには、住まいとなるべき楽園があった。おおうものがスィドラの木をおおっていたとき、彼は目をそむけなかった。度を越すこともなかった。そして、はっきりと主の偉大なみしるしを眺めた。」21
神秘に包まれたこれらの言葉が意味するものとは何か。一部の解説者たちは、神の実際のヴィジョンであると捉えた。しかしこの問いは神学上、重大な問題を孕んでいる。そのため理論としては、これは天使たちか、あるいは黄金の覆いを指すものであるとする、より慎重な見解へと傾いた。この驚異的な光景を目にしたとき、ムハンマドは肉体を保持していたのか、あるいは精神だけが存在していたのかについては、重大な論争の対象として残されたままである。

前述の驚異が、その他の人間よりも優れた特権を有するものと定義される預言者のみにゆるされるものであるとしても、 –– しかもムハンマドは預言者たちの封印であり、彼の後には誰ひとりとして、神から彼同様の恩寵をもって遇される望みはない –– コーランは確かにあらゆる個人を鼓舞するメッセージを有しており、それ以外の何ものでもない。人間とはアダムの末裔であり、天使よりも高いものとして造られた。すべての創造が、まさしく人間のためになされたのである。「まことに神こそ、おまえたちのために地にあるものをすべて造りたまい、それから天に昇ってそれを七つの天に造りあげたもうお方。神はすべてのことをご存じである。さて汝の主が、『われは地上に代理者(khalifa ハリーファ)を置こうと思う』と天使たちに言いたもうたとき、『私たちがあなたの栄光をほめ讃え、あなたを崇めておりますのに、どうして害をなし血を流す者を地上にお置きになるのですか』とみなが言った。神は答えて言いたもうた、『われはおまえたちの知らないことを知っている』。かくて神は、もろもろの名まえをすべてアダムに教えたまい、それから天使たちにそれらを示して言いたもうた、『もしおまえたちが真実を語っているのなら、これらのものの名まえをわれにつげよ』。天使たちは言った、『畏れ多いこと。あなたがお教えくださったもののほかは、私たちにはなんの知識もありません。まことにあなたは全知にして聡明なお方です』。そこで神は言いたもうた、『おお、アダムよ。彼らにそれらの名まえを知らせてやれ』。彼がそれらの名まえをみなの者に教えてやったとき、言いたもうた、『われがおまえたちに言ったとおりではないか。われは天地の見えないものに通暁し、おまえたちがあらわすことでも隠していることでも、すべて知りつくしている』。かくて、われらが天使たちに、『アダムに跪拝せよ』と言うと、彼らはすべて跪拝したが、イブリースだけは別で、傲慢不遜な態度に出て、不信の徒となってしまった。」22

人間が造られたのは、地上における神の代理者となるかもしれないというだけではない。人間やその他が造られる以前においてさえ、人間は神を唯一の主として崇拝するよう、永遠の契約(mithaq ミーサーク)をすでに結んでいたのである。「また、主がアダムの子らから、すなわち彼らの腰から、つぎつぎと子孫をとりだして、彼らに自分自身について証言させたもうたときのこと。『われはおまえたちの主ではないか』。彼らは言った、『そうです、私たちは証言します』」。23 後代においてこの章句が、どのようにして時間を超越した出来事を指すものとして解釈され、精緻な接神論の中心に据えられるようになったのかをひも解いてゆこう。

「崇拝し、主に近づけ。」24 これは例の声を通して最初の啓示が下された際、しめくくりに告げられた言葉である。コーランのその他の箇所においては、人間のあらゆる敬虔な行為には、人間に対する神の恩寵の行為が先行すると告げられている。「神は彼らを悔い改めさせ、その悔い改めを容れたもう。」25 以前の望ましくない生活へと後戻りしたものの、悔悟してムハンマドの許へやってきた信仰者三人について、神はそう述べている。「神は彼らを喜びたまい、彼らも神を喜ぶ。」26 楽園に住まう祝福された聖者たちについて神は述べ伝える:「神に愛され、神を愛する人たち。」27 最後に引用したこの章句は、スーフィーの愛の教義(mahabba マハッバ)を支え、愛する者、愛される者、愛による三位一体の思想に究極の権威を与えるものとして非常に重要である。超然として冷淡な全宇宙の支配者という概念は、この慈悲深き神(Allah アッラー)という描写によって完全に覆される。それは自らの被造物の中から人間を選び、強力な愛のコードをもって自らの方へと引き寄せるために、最初の一歩を踏み出す神である。

それだけではない。バドルの戦いにおける勝利に関連して、神がこう述べるくだりがある。「おまえたちが彼らを殺したのではなくて、神が彼らを殺したもうたのである。おまえが射とめたとき、射とめたのはおまえではなくて、神が射とめたもうたのである。」28 絶えず熟考されたこれらの言葉は、スーフィーには、自らの道具とするにふさわしい人間を見出したなら、神は人間を手段として行為をなすことさえあるという決定的な証拠と思われた。バドルにおけるメッカの人々の目の中に、神がまき散らした砂埃と砂塵の奇跡が、信仰と不信仰の戦いという問題に決定的な影響を及ぼしたのとちょうど同じように、いつどのような時であろうとも神は自らの聖者を通し、人の中において、真の宗教が何であるかを証明するために奇跡の数々を行う準備ができているのである。

以上の通りコーランには、その中にスーフィーたちが神秘的な意味を読み取る数々の章句が存在する。これ以外にもその他の多くの章句があり、スーフィーたちの著作群のページというページに、彼らの教えの根拠として散りばめられているが、全てを引用するにはあまりにも夥しい数であり、また通常のやり方ではあまりにもとらえどころが無さ過ぎる。「常に神を想起せよ」とは、コーランにおいて絶えずくり返される警句である。それ自体の文脈においてはニュートラルであることが明らかなこの言葉を、しかしスーフィーたちは特殊な方法で解釈した。間もなく「想起(dhikr ズィクル)」という言葉は、非常に具体的な、特別の響きをもたらすようになる。「地上にあるものは全て滅びる、主の御顔を除いては」29 とは、一見すればその意図するところは明白であり、それ以外に何の含意もない。この句はスーフィーたちにとり、彼ら独特の教義を吊るすための鉤となった。神との合一を通して人間としての属性を捨て去る(fana ファナー)ことにより、神秘主義者は、神の裡における精神的な生命の永遠の存続(baqa バカー)を成就するのである。

自らの聖典における非常に単純な言語の中に、深遠な意味を読み取る下地がスーフィーたちに備わっていた点を理解するには、コーランが、深く宗教的なすべての男女により暗記され、声高く、あるいは心の中で絶えず暗誦されてきた書物であるという全体としての背景について思い出しておかねばならない。神秘主義者もまた、聖典について途切れることのない瞑想の状態にあったのである。従って、ともすれば特に注目されることもなく読み過ごされたかもしれない章句も、厳粛な規律と厳格な内的生活によって鍛えられ、すでに完璧なまでに怠りなく研ぎすまされ、想像力も敏捷となっている彼らの注意を引くこととなったのである。生まれもった繊細な感覚 –– アラブ人とペルシャ人が、アリストテレスとプロティヌスの優れた弟子たちであったことはすでに証明されている –– の所有者には、フィロがモーセ五書に施した哲学的解釈と同じ手法をコーランに適用することに何の困難もなかった。最後にムスリムの諸聖典 –– 熱狂的で興奮に満ち、大いに修辞的な –– の持つまさしくその様式が、こうした奢侈と呼べるほどの膨大な解釈を注ぐにふさわしく理想的でもあった。ところどころに現れる曖昧模糊として純然たる不明瞭さは、正統派の釈義学者たちにとり自らの辞書辞典的な学習能力を披露する機会でしかなかったが、神秘の熱情の炎に対しては更なる燃料となったのである。コーランの深遠な解釈は、スーフィーの厳しい修行における中心点となった。

 


1. コーラン96章1節.
2. コーラン74章2節.
3. コーラン1章3節.
4. コーラン2章256(255)節.
5. コーラン88章17節.
6. コーラン16章81(79)節.
7. コーラン16章71節.
8. コーラン2章159(164)節.
9. コーラン2章24(26)節.
10. コーラン2章182節.
11. コーラン50章15節.
12. コーラン29章19節.
13. コーラン2章109(115)節.
14. コーラン24章35-42節.
15. コーラン21章49節.
16. コーラン21章52節.
17. コーラン21章79,81節.
18. コーラン20章8-14(10-17)節.
19. コーラン7章139(143)節.
20. コーラン17章1節.
21. コーラン53章4-18節.
22. コーラン2章27-32(29-34)節.
23. コーラン7章171(172)節.
24. コーラン96章19節.
25. コーラン9章119節.
26. コーラン5章119節.
27. コーラン5章59(54)節.
28. コーラン8章17節.
29. コーラン55章26節.