五. 一性についての教え

『スーフィーの教え』
著 アル=カラーバーズィー
訳と解説 A. J. アーベリー

 

五. 一性についての教え

スーフィーたちは、神が<ひとつ>であり、唯一であることに同意している。神は独在し、永遠であり、永在であり、全知であり、全能であり、現存する。聞く御方であり見る御方であり、堅固であり強大であり、壮麗であり偉大であり、寛大であり寛容であり、誇り高く厳かであり、永続し、随一である。神であり主であり、支配者、統治者であり、慈悲深く、慈愛あつく、望む御方、語る御方、創造する御方、維持する御方である。主は御自らにまといたもうあらゆる属性を有するにふさわしく、また御自らに名づけたもうあらゆる御名をもって称されたもう。永遠にかけて、主がその御名と属性の存続を絶たれたもうことはなく、いかなる点においても被造物と類似するところもない。主の<本質>は諸々の本質と類似せず、また主の<属性>も諸々の属性と類似するものではない。被造物に対して用いられ、またそれらの被造物が時間の中に創造されていることを示す言葉は、ただのひとつとして主には通用しないのである。主は何よりも常に導かれる御方であり、時間の中に生じるあらゆるものの最初であり、またあらゆる存在に先在したもう。何故なら主をおいて永遠は他になく、主を置いて他に神はない。主は肉体や姿態に非ず、形態に非ず、人称に非ず、要素に非ず、偶然に非ず。主なくしては交差も分離もなく、動も静もなく、増加も減少もない。主には部分も分子もなく、肢体も四肢もなく、相も場も持ちたまわない。主には欠けたるところもなく、眠りに妨げられることもなければ、時を経て交替したり、暗喩によって特定されることもない。主は空間に納まることもなく、時間の影響を受けることもない。主と接触する、あるいは断絶する、あるいは諸々の所に「おわす」と言うことは不可能であり、思考によって指し示すことも、ヴェイルで覆うことも、視覚によって捉えることもできない。

ある偉大なスーフィーの一人は、講話の中で次のように語った。「『前』が主を追い越すことはなく、『後』が主をさえぎることもない。『……の』は主と序列を争わず、『……から』は主に適わず、『……へ』は主に加わらず、『……の中に』は主に諮らず、『……の上に』は主を覆わず、『……の下に』は主を支えず、『反対に』は主に面さず、『共に』は主を圧せず、『後ろに』は主を捉えず、『前に』は主を制さず、『先の』ものが主を現したのでもなければ、『後の』ものが主を去らせることもなく、『一切』に主は納まらず、『有る』が主を存在させるのでもなければ、『無い』が主の存在を消失させるのでもない。隠蔽は主の覆いとはならない。主の先在は時間に先行し、主の存在は不在に先行し、主の永遠は限界に先行する。汝が「いつ」と言うなら、主の存在は時間を超越している。汝が「前」と言うなら、前は主の後にある。汝が「存在」と口にするなら、「存」も「在」も主の創造である。汝が「どこ」と言うなら、主の存在は空間を超越している。汝が「真我」と口にするなら、主の真我は諸々の事物から離れる。同時に二つの相反する性質を有することができる者は、主をおいて他にいない。しかもそれらは主においては、何ら矛盾をきたさないのである。主は主の顕現に隠されており、顕現は主の隠蔽にある。主は外側にも内側にも、近くにも遠くにも。この点において、主は被造物とのあらゆる類似を除外し超越する。主は触れずして行ない、会わずして授け、示さずして導きたもう。願望は主と争い合わず、思考は主と混じり合わぬ。主の本質は限り takyif なく、主は労 taklif せずして行ないたもう。」

彼ら(スーフィー)は、主が目によって知覚されることもなく、思考によって攻め落とされることもないと同意している。そしてまた、主の属性は不変であり、主の御名が改められることもないということについても。主がかつてこのようでなかったこともなければ、この先も決してこのようであることを終わらせたまわないことについても。主は最初にして最後であり、外在にして内在であることについても。主はすべてを知りたもう。比類なき御方、すべてを聞き、すべてを見る御方。

 


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