『スーフィーの教え』
著 アル=カラーバーズィー
訳と解説 A. J. アーベリー
七. 神は創造を終えたもうか否かについての様々な見解
神が創造を終えたもうか否か、スーフィーたちの間の見解は様々である。彼らの大部分と、彼らの導師たちや傑出した人物たちの大部分は、神が永遠に値する権限を持たないとする時点で、ある属性を神に帰するのは不可能である、と述べる。神が「創造者」の名に値するのは神が被造物を創造したもうからではなく、「造りし者」の名に値するのは生けるものを生起させたもうからではなく、「形与えし者」の名に値するのは形あるものに形を与えたもうからではない。もしもそうなら、神は果てしなく不完全であり、創造の行為を通してのみ完全となる、ということになってしまう –– 神とはそのような状態からかけ離れ、いと高きにおわしたもう!
彼らは、神は永遠に創造者であり、造りし者、形与えし者、赦す者、慈悲ふかき者、恩寵あつき者、等々、であり、御自らに帰したもうこれらすべての諸属性を通し、永遠に先んじてそれらの諸属性にふさわしく在られると考える。神が知識、力能、権能、威力において認められる通り、望み、優しさ、赦し、報恩は無論のこと、造り( takwin )、形を整え、形を与えることにおいても同様に認められる。彼らは行為としての資質と、偉大、壮麗、知識、強さといった、行為とは言いがたい資質との間を区別しない。同様に、神が全てをお聞きになり、全てをご覧になり、力強く、創造したまい、造り、形を与えたまい、また称讃されし者であることは既に確定しており、かと言ってもしも神が、被造物や形を授かったもの、造られたものがあるからというだけでそれらの名にふさわしい権限を有するのだとしたら、やはり神は創造を必要としていたということになる。そして「必要」とは、現世のしるしである。加えてこれは変化を意味し、ある状態からもうひとつの状態への通過ということになる。神は創造者以外の存在であったのが、そののちに創造者になった。あるいは望む者以外の存在であったのが、そののちに望む者になった、という具合である。これでは、神の友であるイブラーヒーム(彼の上に平安あれ!)が、かつて「私は沈む神々を愛さない」と述べて拒んだ「沈む」にも似た何かになってしまう。新たに創造し、造り出すことは神の属性であり、それにより神は永遠に先んじてそれらにふさわしく在られたもう。行為と成し遂げられた物事はまったくの同一ではなく、それは形を整えることも造ることも然りである。しかし、もしも行為と成し遂げられた物事のどちらもが同一であるとしたら、被造物は自分で自分を存在たらしめたということになる。なぜなら被造物が無から有になったのでない限り、神と彼らの間には関わり ma’na がなかったことになるからである。
彼らのうち幾人かは、しかしながら上述の教えを否定し、創造は永遠に先んじて神と共に存在したという解釈を保持している。
彼らは、被造物ないしは僕(しもべ)がなくとも、神が支配者、神、主たることを終えたまわないことについては同意している。すなわち、それは創造されたり、造られたり、形与えられたりする物事が何ひとつなかったとしても、神は創造者であり造る者であり、形与える者である、と述べているも同然であると言って差しつかえない。
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