番外編:イブラーヒーム・アドハムに関する引用

『マスナヴィー』2巻3210行目から語られているイブラーヒーム・アドハムについて、以下は諸々からの抜粋です。ご参考に。

 


新イスラム事典

イブラーヒーム・ブン・アドハム
Ibrahim b. Adham ?-ca.777/8
イスラム神秘主義成立期の禁欲家・神秘主義者。バルフに移住したアラブの家系に生まれ、アッバース朝の成立直後にバルフを出奔。シリア各地を放浪しながら、ビザンティン帝国領へのガズワ(異教徒との戦い)に加わり、没後その遺体はジャバラに葬られたとされる。10世紀ころからその伝説化が始まり、11世紀半ばころまでに、神の戒めの声によって改心し、バルフのスルタンの地位を捨ててからは、清貧を旨とする生活を送り、自らの労働によって糧を得るという敬虔で禁欲的な聖者像がつくられた。

 


岩波イスラーム辞典

イブラーヒーム・イブン・アドハム
[ Abu Ishaq Ibrahim ibn Adham al-Balkhi ] 728/9-77
イスラーム初期の禁欲家。そのタウバ(改心)の軌跡と数奇な生涯は、後世にさまざまな逸話を生み出した。イスラーム世界に流布した聖者イブラーヒーム伝説はその典型。生地であるホラーサーンのバルフ(現アフガニスタン西北部)が仏教の影響が伝えられる地域であったことから、彼の改心の軌跡をブッダに喩える向きもあるが、逸話の域を出ない。富豪の家に生まれたが、神への帰依に目覚め、私財を捨て、放浪の身となったという。ホラーサーンを出立してシリアに向った理由については、信仰上の動機とともに、当時ウマイヤ朝打倒運動を展開していたアブー・ムスリムの蜂起によるホラーサーン地域の騒擾・混乱への嫌悪があったとされる。マッカでハディース学者や禁欲主義の徒と親交を結んだのち、シリアや小アジア(アナトリア)地方でジハードに加わったとされる。その勇猛な戦いぶりから”禁欲主義者の英雄”の逸話が生れた。

 


イスラーム神秘主義聖者列伝

イブラーヒーム・アドハム(〜777/782)
アブー・イスハーク・イブラーヒーム・ビン・アドハム・タミーミー・バルヒーは、高名な禁欲家、神秘家であった。バルフ(現在のアフガニスタン西部の町)の王族であったといわれるが、王位、財産を放棄し、バグダードに行き、イラク、シリア、ヘジャーズを経巡り、各地の学識ある者たちから多くを学んだ(その生涯から、しばしば、仏陀を想起させることで知られてもいる)。途中、畑の刈入れや見張り、粉ひきなどをしながら暮らしたという。また、アナトリア(小アジア)でのビザンツとの戦いに参加したという逸話も伝えられている。夏は、裸足に無帽、冬は、祖末な羊毛の衣のみを身につけたという。正確なアラビア語を話したといわれ、高名な法学者のソフィヤーン・サウリー(七七八年没)の説教の場に彼が来ると、この法学者は、言い間違いをすることを恐れ説教が短くなったとまで言われる。父親の奴隷の一人が一万ディルハム(銀貨)の大枚を手に、小アジアにいた彼の所まで来て、父親の死に伴い莫大な財産が遺産となったと伝えると、彼は父親の遺産には目もくれず、下僕を自由の身とし、金もそのまま与えた。旅にあっても、居を定めても、断食を忘れず続けた。彼の血縁、出生、死去の場所については、意見が分かれるが、小アジアのとある砦で亡くなり、その地に埋葬されているという説が有力である。

 


聖者イブラーヒーム伝説 (角川叢書)

聖者イブラーヒーム廟への参詣の慣行を最初に記したのは、おそらくシリアの知識人ハラウィー(一二一四年没)であろう。ハラウィーは、自ら禁欲家としての生活を送り、イスラーム世界の聖地や墓所を巡り歩いた末に、アイユーブ朝治下のアレッポで余生を過ごした著述家として知られる。その経験を生かして書かれたのが『参詣指南の書』であり、そこには、ベイルートやジャバラなどについて、

ベイルートには、アウザーイーの墓がある。
ジャバラの町には、海岸にイブラーヒーム・ブン・アドハムの墓がある。
ナーブルス道に戻ると、ここのラッジューン村には、神の友イブラーヒーム(アブラハム)のお立ちどころ(マカーム)がある。

と簡潔に記されている。また、さらにくり返して、

イブラーヒーム・ブン・アドハムの墓、それがシリア海岸のジャバラにあるのは本当である。

とも述べて、その正しさを追認する一文を残している、ちなみに、イブラーヒームが似ているとされたアブラハムのお立ちどころが、イブラーヒームの墓所に続いて記されているが、これは意図的なことではなく、墓所や聖地の記述が参詣の道順にしたがって配列されているためである。

また、アレッポの君主マリク・アンアースィル(在位一二三六〜六〇年)に行政官として仕え、フラグ配下のモンゴル軍と折衝した経験をもつイブン・シャッダード(一二八五年没)は、シリアの歴史と地理を総合した『シリアのアミールたち』のなかで、次のように記している。

ジャバラ、そのはずれにイブラーヒーム・ブン・アドハム・マンスール・ブン・ヤズィード・ブン・ジャービル・アルタミーミーあるいはアルイジュリーの墓がある。……<中略>……彼の出身はバルフ、父は王侯であった。イブラーヒームは現世を捨てて苦難[の道]を選び、シリアの辺境を住みかとした。

ハラウィーやイブン・シャッダードの記述は、イブラーヒームの墓所が、十二世紀末から十三世紀はじめ頃には、人々によってすでにジャバラの町にあると認定されていたことを示している。またハマーの領主であったアブーアルフィダー(一三三二年没)も、その著『地理学』のなかで、「ジャバラは小さい町であるが、そこにはイブラーヒーム・ブン・アドハムの墓として名高い参詣所(マザール)がある」(p255)と述べている。