R. A. ニコルソン教授の解説によれば、『マスナヴィー』2巻2166行目前後から2210行目前後にかけて語られた「果樹園の主と三人組の盗人」という物語については、13世紀初頭に著されたとされる書物『Jawami’u-l Hikayat』に非常に良く似た物語が収録されているとのことです。
『Jawami’u-l Hikayat』というのは「逸話集」「説話集」とでも訳せるでしょうか。著者はムハンマド・アウフィー(1171-1242)という歴史家・著述家です。ブハラ生まれのペルシャ人で、広くインド大陸や中央および西アジアを旅行したのちに、数多いイスラム王朝の中でも、初めてインドの支配権を握ったとさ れるゴール朝の宮廷に伺候し、講義や著述などをしつつ余生を送ったと伝えられています(イスラムの、いわゆる「黄金時代」の申し子みたいな人ですね)。
『Jawami’u-l Hikayat』は、全4巻2500ページに及ぶ大著であり、19世紀末〜20世紀初頭に抄訳集が出版されています。訳者のH. M. エリオットによれば「歴史ロマンス」とも呼ぶべきものだということですから、ペルシャ・インド版ローマ史のようなものなのでしょう。アウフィーが旅行中に蒐集した民間伝承や物語などが、実在する人名・地名もふんだんに交えてペルシャ語で紹介されています。
以下は『Jawami’u-l Hikayat』で語られているバージョンです。
神学と法学の大家、アリーの末裔、兵士、そしてバザールの仲買人の四人が、連れ立って果樹園に入り、果物を楽しんでいるところへ果樹園の主がやってきた。彼らがたいそうな量を食べてしまったことを知り、彼(果樹園の主)は彼らに罰を加えてやろうと決心した。しかし彼らは四人、対する自分はたった一人であることを考えて、彼はまず神学と法学の大家に向かって賞賛の言葉を浴びせた。
「これはこれは」、彼は言った、「神学者さまではありませんか。同時にあなたは、私たち全員の手本となるお方。神学者さまが研鑽の末に学問を体得して下さっているおかげで、私達は現世でも来世でも豊かに過ごせるというものです。そしてこちらは(と、彼は話し続けた)、預言者さまのご家族に連なる傑出したサイイドさま。私達は皆あなたにご奉仕する者であり、あなたを愛することは私達の務め*です。
そしてこちらは兵士さま、剣を自在に操るお方だ。彼らの奮迅努力のおかげで、私達の家も家族も破滅を免れ守られているのです。さあ、あなた方のような貴紳が私の果樹園に足を踏み入れて、それから非合法なやり方で私の果物を食べたとしても、私はあなた方を恨んだりしませんよ。
ですがこいつはどうでしょう?市場をうろつく商人だ。一体、こいつにどんな美徳があるというのですか?私の果樹園で盗みを働いて、どんな言い訳が立つというのですか?」。そう言うと、彼は仲買人の襟首を捉えて彼をひどく乱暴に扱った。助けのあてもなく、やがて彼は力無く地面に倒れ込んだ。
次いで兵士を振り向くと、彼(果樹園の主)は次のように言った。「私は最も卑しいしもべです、ただし神学者さまと、サイイドさまのね。私はあんたのしもべじゃないんですよ。私はこの果樹園については、銅貨一枚だって誤摩化さずにきちんと税金を納めているんだ。あんたはそれを知っているのかね?宗教の学者さまがこうと判断なすったら、私は自分の罪を認めて従いますとも。しかしあんたは何さまのつもりだい?一体あんたに何の権利があって、私の果樹園に入って来たんだい?」。そう言うと、彼は兵士に襲いかかり、棍棒を振るってぶちのめし、彼を手際良く縛り上げてしまった。
その後、彼は神学と法学の大家に向き直った。「世界の誰もが」、彼は言った、「サイイドさまに敬意を捧げることには異存ないでしょう。しかしあんたに対してじゃあない。知ったかぶりの大嘘つきめ、あんたときたら、持ち主の許しも無く果樹園に入り込んではいけないということさえ知らないじゃないか。私はね、私も私の財産も、サイイドのためなら全てを犠牲に捧げるさ。だがあんたのような無学なやつを、私は神学者だなどとは認めないね。ムスリムが築いた財を、代価も払わず好き放題に食い散らかすようなやつには、相応の罰が下されるべきだと私は思うね」。
そう言うと、彼は自らの言葉をそっくりそのまま実行した。神学者を縛り上げると、たった一人残されたサイイドと一対一で向き合った。「悪党め、詐欺師め」、彼は叫んだ。「長い髪だけが取り柄の、世間知らずの大馬鹿者め!言ってみろ、どうして私の財産に手をつけたのか?遺産が欲しければお門違いだ、私はまだ死んでもいないし、おまえにくれてやるものなど何も無い。預言者さまだって、彼に従う人々の財を、アリーの末裔が好きに使って構わないなどとは一度も言ったことはない*のだぞ」。
そう言うと、彼は素早くサイイドを縛り上げ、こうして四人全員に、彼らが盗み食いした果物に相当する代価を支払わせたのだった。
*注 コーラン42章23節:これが、信じて善行を行う僕(しもべ)に髪がおつげになった福音である。言え、「私は、そのことで、おまえたちに報酬を求めているのではない。ただ近親者としての情愛を求めているだけのこと。だれにせよ善行で稼ぐ者には、われらもよい結果をふやしてやる。まことに神はよく赦したもうお方、よく恩に報いるお方である」
こうして読み比べてみると、ルーミーの方は登場人物からして宗教色を強く前面に出しており、ちょっとしたイスラム史概説のような趣きさえ添えられています(どちらが良いとか悪いとかということではありません)。
ところで、ひとつ面白い違いがあります。登場人物は皆が皆、「法学者」であるとか「サイイド」といった社会的属性でしか呼ばれていないのに、ルーミーの再話バージョンには一人だけきちんとその名を呼ばれている人物がいます。「下男のカイマズ」です。「カイマズ」という名を使ったのは、これは単に韻文を作成する上で語呂合わせが良かったから、というようなことばかりでもなく、何か意味があってそうしたのではないかという気もします。たとえば、彼がトルコ人(と、いうかアナトリア人)であることを暗に知らせるために、このような名前(いかにもアナトリアな趣きを感じさせる名前)を出したのではないか、という具合に。
そんなふうに考えつつ再び『マスナヴィー』に戻ってみると、大暴れする「果樹園の主」を中心とした物語の背後に、スーフィー、法学者、そしてサイイドといった人々の「仲間割れ」には関わることもなく、巻き込まれることもなく、少し離れたところに立っている「下男のカイマズ」=アナトリア人、すなわち前述の人々の争いとは直接の利害関係を持たないイスラム改宗者達、といった、もうひとつの物語が浮かび上がってくるように思えるのです。
何の根拠があるわけでもありません。それでも、こんなふうにあちこち寄り道しながら深読みしてみると、またちょっと面白いものが見えてくるような気がします。
ルーミーが『マスナヴィー』2巻の執筆に着手したのは西暦1264年、既にセルジューク朝も滅亡し、コンヤを中心に地方自治圏として生き存えていたルーム・セルジューク朝もそろそろ命運が尽きかけていた頃です。それから約30年後、アナトリア辺境の地に生まれたオスマン一世がコンヤに隣接するエスキシェヒルを征服した1299年、大オスマン帝国時代が始まりを迎えます。