信じる者の長ウマルとローマからの使者

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

信じる者の長ウマルとローマからの使者

広いひろい砂漠を渡って、皇帝の使者が、はるか彼方のローマ(ビザンツ)からメディナに住まうウマルに会いにやって来た。メディナに辿り着くと彼は言った。「メディナの人々よ、教えて欲しい。あなた方のカリフがお住まいの宮殿は何処だろうか?場所さえ分かれば、私の馬でそこへ辿り着けるのだが」。

人々は口を揃えて答えた。「宮殿だって?あのひとはそんなところにはいらっしゃらないよ。第一、宮殿などお持ちではないもの。我らのウマルがお持ちの宮殿は唯ひとつ、金色に輝く彼の魂だけ - 信じる者達を指揮する偉大なおひととして、そりゃあお名前だけは地上に広く知られることにはなったけれど、住んでおられるのはあばら屋だよ、貧者でさえ住まないような祖末な小屋さ。

長旅でお疲れのようだね、それに髪がそんなに伸びて。手入れを怠けていると、まぶたに髪が被さって見えるものも見えなくなってしまうよ。手入れを怠けて伸び放題の髪の毛は、やがて心のまぶたにも被さってしまうよ。まずは切り揃えて整えなくちゃ。そうしなくっちゃ、あのひとの宮殿だって探し当てることも出来ないだろうよ」。

- 見るならば、心の眼で見なくては。探すならば、心で探さなくては。誰であれ、心の眼を覆う髪を取り除いた者ならば、魂を覆う欲望のヴェイルを取り除いた者ならば、たちまちにして自分の姿を「存在」の御前に見出すだろう。「存在」の住まう宮殿の、前庭に立つ自分の姿を見出すだろう。

ムハンマドは、欲望の炎と立ちこめる煙から自らを浄めた。そしてそれ以降は、「どこを向いてもそこに神の御顔がある」と知った。1だが悪意ある者(シャイターン)を友として、悪意ある言葉に耳を傾けている限りは、「どこを向いてもそこに神の御顔がある」という言葉の意味を知ることはない。

心の門を開け放てば、世界のどこであろうとも、同じひとつの太陽が光を放って輝いている事を知るだろう。心の門を開け放てば、眼に映るありとあらゆる全てに神を見るのは雑作もない。夜空にきらめく星々の中にあって、月が格別であるように。愛をもってすればたやすいことだ、だが両眼を指で塞いでいたのでは、世界を見ることなど出来るはずもない。

見えないからといって、無いはずもない。見たくないからといって、無くなるはずもない。見て見ぬふりがいつまで続くものか。指先で、過ちを消し去れるものか。両眼を覆うその髪を除けろ、塞いでいるその指を除けろ、心の底から「見たい」と真に欲するならば。見るならば、あるがままに見なくては。

かつてノアの一族が彼に尋ねた、「おまえが呼ぶ神様からの報奨は一体どこにあるのか」。ノアは答えた、「報奨から逃げているのは、あなた達の方ではないか。『強情の衣で全身を覆い、傲慢に振る舞う』2のは、あなた達の方ではないか。衣を脱がない限り、報奨など夢のまた夢。顔も頭も、自分勝手の衣で覆い隠して包み込む。これでは、報奨どころか何ひとつ見えないのも当然ではないか」。

眼というものは、愛する者を見るためにある。愛する者を探す時、人の全身は眼になる。探して、見つけ出して、そして終には愛する者の眼を通して見るようになる。愛する者の見るものを見ずして、「見る」ことに何ほどの意味があろうか。愛する者の見るものを見ずして、一体「見る」などと言えたものだろうか。

- 思いがけない言葉の不意打ちをくらって、ローマの使者は戸惑った。だが注意深く耳を傾けるうちに、新鮮な水でひたされたような思いがした。何としてでもウマルに会わねばならぬ。彼の胸は熱望で満たされた。彼は馬から降りた。旅の荷物も、荷物を乗せた馬も迷うにまかせることにした、それらは自分のものではないのだ。皇帝に命ぜられたから会うのではない。自分が会いたいのだ。自分の眼で彼の姿を確かめようと、自分の足で一歩づつ歩き出した。

景色のそこかしこにウマルの辿った足跡を感じながら、彼は足跡の主を求めて、ひたすら狂ったように歩き続けた。「人々が私に語って聴かせたような、そんな男が果たして本当に居るだろうか?そんな男が、この世に居るだろうか?居ながらにして不可視の魂のように隠れ仰せる - そんな男が!」。

彼はウマルを探し求めた、主人を探す奴隷のように。このような探求者のみが、やがて探しものを見出すのだ。奴隷のように主人を探せ、やがて主人の方から姿を表わすだろう。かしずく奴隷無しには、主人も無い。砂漠を渡る見慣れぬ訪問者に眼を留めたアラブの女があった。「旅のお方」、彼女は話しかけた。「もしやウマル様を訪ねておいででは?ご覧なさい、あの椰子の木を」。


そうして、彼はウマルに辿り着いたのだった。ウマルは人混みを避け、共も連れずにたった一人で椰子の木の根元に身体を横たえていた。眠るウマルを、葉陰が、まるで神の庇護のように覆っていた。彼はウマルに近づいて行き、だが近づき過ぎることなく、少し離れたところに立った。

彼はウマルを見、それから自分が震えていることに気付いた。眼の前で、屈託無く眠り続けている男の顔を見た。彼は自分が畏怖していることに気付いた。同時にこの畏怖が、決して苦く不快なものではなく、むしろ陶酔にも似た甘く心地よいものであることにも気付いた。愛と畏怖は互いに両極をなす。彼はウマルを見、自分の心の中を見た。愛と畏怖、二つの相反するものが、心の中で互いの手を取りひとつになるのを見た。

彼は心の中で呟いた。「私は有能な使者として、多くの王達に拝謁した。出会った君主達の誰もが、私の仕事ぶりを認めて褒美を下されたものだ。 - だが王達のうち誰一人として、私に畏怖を抱かせる者は無かった。その私が怯えている。眼の前のこの男は、ただ眠っているだけで私を震えさせ、私の機智を奪い去ってしまった。

かつて私は、獅子は豹の棲まう密林であっても踏み入ることを怖れなかった。暗がりから聴こえる獣達の唸り声にも、顔色ひとつ変えることは無かった。かつて私は、武器を手に戦場へと赴いた。戦場で私は全身に力が漲るのを感じた。戦いがし烈であればあるほど、私は獅子のごとく勇敢になったものだ。傷を負ったのも一度や二度ではない。だが傷が深く痛むほど、苦しむほどに私の心は他の誰にも増してより強く、より堅固なものとなったはずだ。

見ろ、この男を。武器ひとつ持たずに大地に臥して眠り込んでいる。だがそれでいて、見ろ、私の手も足も、あばら骨までもが震えて止まらない。これは一体どうしたことだ。 - いや、違う。これはこの男のせいではない。これは創られし者の為せることではない、創りし者の為せることだ。神だ。修行僧のような風体のこの男を前にして、私の身体が神を畏れて震えているのだ。

どうやら私は、神を畏れているらしい。どうやら私は、神を信じているらしい。誰であれ神を信じる者ならば、神を畏れることを自らの道として選び取る者ならば - それがヒトであれジンであれ - 、今私の眼の前で眠る男を見て、神を想わずにはおれないだろう」。

使者は眼を閉じてじっと考え込んでいた。それから両手を組み、胸に当ててただ立っていた。それからしばらく、微動せずそうしていた。やがてウマルが眠りから覚めて跳び起きた。


使者はうやうやしくウマルに一礼し、それから「サラ一ム(平安あれ)」と挨拶した。それは預言者の申されたことでもある、「最初にサラ一ムを交わせ、それから話をせよ」。「サラ一ム、貴方にも」、彼に答えてウマルは言った。それから、もっと近くへ、と彼を呼び招いた。彼を安堵させ、隣に座るように言った。

見知らぬ人を、ただ見知らぬがゆえに恐れぬこと、怖じ気づく人を避けぬこと。それこそが最も優れたもてなしであり、歓待と呼ぶにふさわしい。誰であれ、怯える者があれば怯えを取り除いてやれ。安寧を与えてやれ。傷つけられはしまいかと、恐怖でいっぱいになった心を落ち着かせてやれ。平安を分け与えてやれ。

恐れる者に「恐れるな」と言うのはたやすい。だがそれで恐れが取り除けるものだろうか?恐れから自由な者にしてみれば、「恐れるな」という言葉は無駄なものだ。勇気ある者達よ、勇気をもって平安を分かち合え、恐怖ではなく。

ウマルの心に、不安と恐怖の入り込む隙は無かった、彼の心が、常に勇気と幸福に満ちていたからだ。孤独な者に分け与えても、彼の勇気と幸福は決して減ることが無かった。ウマルは使者に語りかけた。言葉は尽きなかった、やがて彼の語る言葉は、理解する者の少ない繊細玄妙な話へと移っていった。愛について、道について、聖なる御しるしの数々について - それから、人にとり最も良き友である御方についても。

ウマルは、友である御方の愛と優しさの助けを借りて語った。それで使者も、御方の愛と優しさの助けを借りてウマルを理解し、ウマルの言葉を理解した。愛について、道について。階梯について、過ぎ去るものと永遠に残るものについて - 過ぎ去るもの、消え去るものとはヴェイルを垂らした美しい花嫁のよう。そして永遠に残るものとは、ヴェイルを垂らした美しい花嫁を娶った王の喜びのよう。

花嫁の、ヴェイルを垂らした姿ならば、王だけではなく他の誰もが目にするだろう。だがヴェイルを取り去った花嫁の姿を目にするのはただ王のみ。否、ヴェイルを取り去った花嫁の姿ならば、王だけではなく王の朋友も目にするだろう。だが婚礼の部屋で、花嫁と寛ぐのはただ王のみ。

与えられた階梯を楽しみ、それで満足するス一フィ一達は多い。だがそれが単なる階梯のひとつに過ぎず、達したからには次なる階梯を目指して早々に立ち去るべきことを知っているス一フィ一はほんの一握りだ -

ウマルは彼に、魂の辿る旅路について思い起こさせた。精神の辿る旅路について思い起こさせた。時という時を、はるか超えたところに流れる別の時があることを思い起こさせ、高みという高みを、はるか超えたところにそびえる別の頂上があることを思い起こさせた - 聖なるものと呼ばれるもののうち最も神聖で、最も気高い「それ」を。

シ一ムルグと共に飛び回っていた頃の記憶がよみがえる。形ある、それゆえに限りあるこの世の生を諾うはるか以前の記憶。御方の恩寵をじかに味わった記憶。水平線よりももっと遠く、地平線よりももっと遠く。魂の飛翔に限りというものは無い、恋人達が互いを求め合う喜びの混じる嘆きのように。

眠りから覚めた時、ウマルは異邦人が自分を見ているのを見た。同時に、ウマルは親しい友人が自分を見ているのを見てもいた。使者の魂が欲するものは、まさしく自分が欲するところでもあった、使者の魂が探し求めるものは、まさしく自分の探し求めるところでもあったのだ。

およそ優れた導師と優れた弟子は、常にこのようにして出会うもの。弟子(使者)は学ぶことを強烈に欲していたし、導師は(ウマル)は惜しみなく与えうる精通者だった。導師は、弟子が教えを受けるのに十分な素質のあることを悟った。それは、念入りに耕された良い土壌のように柔らかだった。そこで彼は、この良い土壌に良い種子を植えることにしたのだった。


使者はウマルに尋ねた。「信じる者達を統べる方よ、教えて下さい。天上を翔る魂が、一体どうして地上などへ降りてきたのでしょう?一体どうしたことでしょう?永遠の小鳥でいられたものが、鳥かごに捉えられるとは」。

ウマルは答えた。「神が魂の耳元で、コトバの秘儀を語り給うたのだ。目も耳も持たない『無』に向って、神はコトバの秘儀を語り給うた。それで初めて、『無』はゆうるりとうねって動き出した。神が語りかけ給うたまさにその瞬間、『無』は歓喜の踊りを踊って『無』から『有』に転じ、『不在』は『在』に転じたのだ。

それから再び、御方は『在』にコトバの秘儀を語りかけ給う。『在』はこれを聴くと、大急ぎで再び『不在』へ、『有』から『無』へと還る。御方が薔薇の耳元に語れば、硬いつぼみもたちまち開いて咲き誇る。御方が岩石の耳元に語れば、たちまち結晶して紅玉の鉱山となる。

御方が語れば、離ればなれになった肉体と精神は統一される。御方が語れば、暗い星であった太陽も燦然と輝いて光を振りまく - さて、謎かけをしよう。御方が雲の耳元で語ると何が起こるだろうか? - そうだ、雲の瞳から涙がぽろぽろとこぼれて雨になる。雲の流す涙が、雨になって大地に降りかかる、まるで革袋をひっくり返したように。

- さて、謎かけをしよう。御方が大地の耳元で語ると何が起こるだろうか? - 大地は注意深い。一言も聞き逃すまいと静かに耳を傾けた、そしてそれ以来ずっと、大地は注意深く沈黙を守り続けている」。

誰であれ困難にある者、苦悩にある者とは、神がその耳元で語りかけた者だ。神が謎を語りたもうのを聞いてしまったのだ、決して簡単には解き明かせそうにもない謎を。謎をかけられた者の心にはいくつもの疑問が生じる、そして戸惑う。だが深く考えれば、自ずと答えが導き出される。そのような訓練を経て、謎をかけられた者は、いくつもの疑問からひとつの答え、ひとつの思考へと辿り着く。

苦悩を避けるな、困難を恐れるな。心の耳を澄ませば、問いの答えは必ず見つかる。精神の耳を閉じるな、問いの答えを聞き取るためにも。苦悩を嫌い、困難を嫌う者は、やがて謎を語りかけられることをも嫌うようになる。精神の耳に綿を詰めて、それらを遠ざけようとする。精神の耳に綿を詰めるな。御方の語る謎に、自らすすんで耳を傾け理解せよ。隠された秘密の御しるしを精神の耳に捉えよ、知識の扉を開くのだ。

精神の耳とは何か?それは天啓を聞き取るためにある。天啓とは何か?それは肉体の感覚で捉えることは出来ない。肉体の感覚に還元して説明することなど出来はしない。精神の目、精神の耳は肉体に備わる感覚とは全く別のものだ。肉体の耳、理性の耳、論理の耳、常識に乗っ取られた耳では、天啓を捉えることは出来ない。

「Jabr(ジャブル:強制)」という言葉が嫌いだ。あれには我慢がならない。「強制」という言葉を聞くと、私は矢も盾もたまらなくなる。私は、愛について話しているのだ。愛は強制ではない。愛は他律ではない、自律であるものこそ愛であるはずだ。愛は牢獄ではない。力づくで牢獄に押し込める者、押し込められる者を恋人とは呼ばないだろう。神と共に在ること、神とひとつになることの、一体どこに強制の余地などあるだろうか。

神との合一、それは輝く満月のように全てにおいて完璧だ。「強制」という名の雲など、満月の輝きの邪魔になるだけだ。たとえ仮にそれを「強制」と呼ぶにしても、その「強制」は苦痛を伴うものであってはならぬ。苦痛からの逃避であってはならぬ。肥大した、傲慢な自我によるものであってはならぬ。悪しき衝動によるものであってはならぬ。

年若い友よ、我が息子よ。「強制」という語の真の意味を知る者とは、神によりその胸を開かれ、また心の目を開かれた者のみ。彼らの目には、不可視の未来が見えている。彼らは過去に執着しない。記憶など、何ほどの価値も無いことを知っているからだ。

彼らの言う自由意志も定命も、常人の言うそれらとは全く異なる。「しずく」という語の意味が、真珠貝の殻の、外と内では全く異なるように。真珠貝の、殻の外で落ちる「しずく」は、大であれ小であれ雨のしずくであり水の一滴だ。だが真珠貝の殻の内で落ちる「しずく」は、大であれ小であれ真珠を意味する。

彼らのような人々は、その体内に自ずと麝香腺を備えている。何も知らない者が見れば、それは血の巡る筋のひとつに過ぎない。だが物事を知る人々にとって、それは麝香を放つ貴重な腺であり、彼らはその芳香を嗅ぎ分けるのだ。

「今のところ、これは単なる血に過ぎない。これを麝香に変えるには、何と何を足せば良い」などと考えるのは本当に愚かしいことだ。「今のところ、これは単なる銅に過ぎず、このままでは何の価値も無い安物だ。だがこれに何と何を足せば、不老長寿の薬に変えられる」などと考えるのは本当に、本当に愚かしいことだ。

自由意志も定命も、それについてただ考えている間は単なる観念、単なる妄想に過ぎない。御方の聖なる光にじかに触れて知る、というのでなければ何の意味も無い。布に包まれている間は、パンは動きもしないただの物体に過ぎない。食べられ、身体の中に取り込まれて初めて、パンは生命そのものとなり、喜びの源となるのだ。布に包まれ置かれている間は、パンが別の何かに変容することも無い。変容させるのは魂だ。

魂のみが、ただの水を楽園の泉水に変容させる。それが魂の役割であり、魂のみが持つ力でもある。ならば我が友よ、我が言葉を正しく解する読者よ。魂の王、魂を統べる御方の力は、一体どれほど偉大なものであろうか。人間など、言うなれば血と肉で出来たちっぽけな塊に過ぎない。だがこのちっぽけな塊に、知性と魂が与えられた時、人間は岩を砕いて海を制し、やがて山の頂上を、空の高みを目指すようになったのだ。

人間は - 人間の魂は、山に坑を穿って岩をも砕く。魂が持つそうした力について語った「月は裂けた」3という言葉には微塵たりとも嘘が無い。秘密を覆うヴェイルを取り去れ。心の扉を閉じてはならない。心の扉を開け放てば、魂はあっと言う間に飛び立つだろう。あっと言う間に最も高い楽園へ辿り着き、あなた方をそこへ案内するだろう。

 


*1 コーラン2章115節。 「東も西も神のもの。おまえたちがどこに向きを変えても、そこに神のお顔がある。まことに神は広大無辺にして、よくご存じのお方。」

*2 コーラン71章5〜7節。 「ノアは言った、『主よ、私は、私の民に、夜と言わず昼と言わず呼びかけてきました。しかし、私の呼びかけでふえたのは逃亡だけです。彼らがあなたをお赦しになるように、と私が彼らに呼びかけますと、彼らは指を耳にあて、着物をかぶり、強情になり、傲慢<ごうまん>な態度をとります。』」

*3 コ一ラン54章1節。 「その時は近づいた。つきは裂けた。」

*4 コーラン24章26節。 「悪い女は悪い男のために、悪い男は悪い女のためにある。善良な女は善良な男のために、善良な男は善良な女のためにある。こちらの人々には、他人の言うことなどあたらない。この人々にはお赦しと貴い賜物<たまもの>がある。」