吟遊詩人の物語

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

吟遊詩人の物語

昔々、ウマルが治めた時代のこと。素晴らしい吟遊詩人がいた。この吟遊詩人、竪琴の名手でもあった。彼の声の見事なことときたら、ナイチンゲールですら我を忘れてうっとりと聞き惚れるほどだった。その美しい歌声に、ひとつの恍惚が百にも二百にも増えるほどだった。彼の吐息には香気が漂い、集まった聴衆達の感覚を心地よくくすぐった。彼が歌えば、死者ですら眠りから目覚めるほどだった。

彼はまるでイスラーフィール(セラフィエル)のよう。その声は、死者の魂を巧みにあやつり、もとの肉体へと呼び戻す。あるいは、彼は本当にイスラーフィールの伴奏者であったのかも知れない。彼が紡ぎ出す音楽には、象の背中に翼を与えるほどの力があった。

イスラーフィールが、手にしたラッパを鋭く一吹きすれば、百年前に朽ち果てた肉体であってもたちまちのうちに生命を取り戻して動き出す。預言者達もまた、イスラーフィールと同じくその体内に特別な音感を持つ人々であった。預言者とは、いわば特別な音感を用いて、現世の生を超えたいのちそのものの価値を探求した人のことだ。

肉体に備わる耳、諸感覚のひとつとしての聴覚を用いても、その旋律を捉えることは出来ない。肉体の耳には、「自分の聞きたいところのみを聞く」という罪が常につきまとうからである。人間には、精霊達の旋律を聞き取ることが出来ない。人間には、内的音楽の神秘を、これ、と指し示すことも、捉えることも出来ない。

かと言って、精霊達の奏でる内的音楽が現世に存在しない、ということではない。それは現世にも流れている。ただしその旋律は、人間の奏でるそれとは明らかに違う。その旋律は呼吸と呼ぶにはなお近く、心音と呼ぶにはなお遠い。

精霊達も人間達も、ふたつながらにして囚われの身。それぞれが、それぞれの無知に囚われている。それで、内的音楽とのすれ違いが生じる。「おお、ジンと人間どもよ、おまえたち、天地の境界を飛びだせるなら出てみよ。どんな権威もなくして、おまえたちに飛びだせるものか。おまえたち双方は、主の恵みのいずれを嘘だと言うのか1」。

聖者達は、内的音楽の優れた演奏者だ。彼らは言う、「『否』のかけらたちよ。聞け、『否』という非存在から抜け出せ。否定形の殻を突き破れ。頭に詰め込まれた幻想を振り払え。空虚な妄想遊びを捨てよ。たった今、これに夢中になったかと思えば、次の瞬間には別のものに夢中になる。はやりすたりの残骸にまみれ、折り重なって朽ち果てていく。

「魂は永遠であるのに、あなた方は学びもせず、また生まれ出ようともしない。肉の耳を塞げ。魂の耳で聞け。内的音楽の、ほんのさわりだけでもふれたなら、魂はその頭をまっすぐに上げて肉体の墓から飛び立つだろう。耳を澄ませてみよ、旋律が聞こえるはずだ。それはさほど遠くはないところから流れてくる - それを耳にすることが赦されていればの話だが」。

聖者達とは、現世に遣わされたイスラーフィールだ。彼らに出逢えば、死者も再びよみがえって新しく道を歩み始める。彼らの声を聞けば、よどんだ魂も肉体の墓場を揺らさずにはおられない。「この声は他のどの声とも違う。死者を生き返らせるとは、神の声に違いない」、死衣の裾を揺らしながら、呼び覚まされた者達が言う -

「我らは遠い昔に死んだはず、肉体もとうに朽ち果てたはず。それが、これ、この通り。神のお呼びを聞いて姿を現すこととなった」。神のお呼びというもの、隠されたものであれ顕されたものであれ、それは神の御胸からじかに下される。ちょうどマリアが、そのようにして神の御胸から(子を)授けられたように。

生きながらにして死した人々よ。その肌の下には、生きながらにして朽ちた心臓と死した血が流れる人々よ。虚無から還れ、あなた方の真の友である神の声を聞け!あなた方は皆、生まれながらにして王の中の王を友に持つ者。あなた方に、真の友の声が聞こえないはずがない。時として、それは神のしもべの喉を通して顕されることもある。絶対に、本当に、あなた方が聞くべき召喚の声というものがある。耳を澄ませるのだ。

御方はしもべに言いたもう、「われは汝の舌となり、汝の目となろう。われは汝の意識となろう、汝の喜びとなり、汝の怒りとなろう。汝、われを通して聞き、われを通して見よ」。行って探せ、そのような人を。あなた方の意識を、御方の顕現の場とするためにも。

- さて、「御方の顕現の場」としての意識とは、一体どのようなものだろうか。それを正しく識別することは可能だろうか。当惑するのはごく自然なことだ。御方に属する、ということは、すなわち御方の秘密になる、ということだ。主客については問うてはならぬ。古語にもある通りだ、「われは汝のもの、汝はわれのもの」 -

われは汝なり。汝はわれなり
時として『われ』は『汝』となり
また時として『汝』は『われ』となる
地上を照らす太陽のように
全てを白日のもとにさらけ出す

壁龕にそなえられたランプの光が
暗がりを明るく照らし出すように
わが言葉をもってすれば
この世に解き明かせぬ困難も障害もない

天空を走る太陽の、光が届かぬ暗闇であってさえも
わが息をもってすれば
たちまちのうちに夜明けは訪れ
澄んだ明るさが取り戻される

- アダムに対し、御方は御自らものごとの名前すなわち知識を示したもう。そしてその末裔には、アダムを通して知識を示したもう。知識という光、あなた方はこれをアダムを通して受け取り、また御方からも受け取る。ぶどう酒を、樽から受け取るか、ひさごから受け取るか。ひさごに注がれたぶどう酒も、元を辿れば同じ樽。ムスタファ(ムハンマド)は言った、「私とじかに出会った者達は幸福である。彼らに出会った者達も、幸福である」。

ろうそくの灯されたランプを見れば、誰でも明かりの原因はろうそくであると理解するだろう。百のランプに次々と明かりを灯せば、最後のランプに灯された明かりは、最初の明かりと同一だ。光はランプが放つのではない、灯されたろうそくが放つのだ。いつでも、最も新しい光を受け取れ、魂という名のろうそくよ。ランプが百あろうとも誤るな、光そのものを受け取れ。

生きた光を受け取れ、魂という名のろうそくよ。すでにこの世を遠く離れて先立った、過去の幻の中に探すな。今、ここ、目の前にある光を受け取れ。