ヨセフと客人、旅の土産

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

ヨセフと客人、旅の土産

愛すべき友人が最果ての地からはるばる旅をした。訪れる先はヨセフ、かの「信頼に足る者」の住まいである。彼らは幼なじみであり、お互いに子供の時分から良く知っていた。「信頼に足る者」ヨセフは、友人をこの上ない客としてもてなした。思い出話という名の枕ひとつを、二人で分かち合い共にゆったりとくつろいだ。

友人は、ヨセフの兄弟達の不正や妬み、そねみについて尋ねた。ヨセフは言った、「譬えるなら、あれは鎖のようなもの、そして私はライオンのようなもの。鎖につないだところで、ライオンを辱めることは出来ないよ。私は、神の定めたもう運命に不満はない。首に鎖を巻き付けられようが、ライオンがライオンであることに変わりはない。鎖を作る者達と、ライオンとでは、真の王者がどちらなのかは言うまでもないだろう」。

友人は尋ねた、「牢獄や井戸に閉じ込められたこともあっただろう。あの時、君は何を考えていたんだい?」。「月のことを考えていたよ」、ヨセフは言った。「月が欠け、ちょうどその姿が見えなくなった頃合いなのだ、などと考えていた」。月が欠け、その影が二重に折れ曲がろうとも、新月はやがて今来た道をたどり、再び満月となって空に昇る。

真珠の粒も、乳鉢ですりつぶされ粉々になろうとも、やがてコフルとなって目を縁取り、その目に、その心に、光を招く呼び水となる。小麦の種も、一度は蒔かれて大地の下に埋められる。それから芽を出し、大地の上に麦の穂を実らせる。実った麦は再び砕かれる。石臼で挽かれて粉となり、心なごませるパンとなる。 - こうして、ひとつの過程を通り抜けるたびに、価値というものはますます高まってゆく。

さらに再び、パンは噛みちぎられ奥歯ですりつぶされる。さあ、今やパンは血肉となった。知性の裏打ちある者の、魂となり心となり、理解の一部となったのだ。愛ゆえに心乱され、愛ゆえに彷徨う者、彼らに用意されているものは、種を蒔く者の、収穫の喜びそのものである。これを語り始めると終わりがない - 本筋に戻ろう、ヨセフと友人の会話はどのようであったか。友人の質問に答え終えると、ヨセフは言った。「君の番だ、友人よ。君が持ってきてくれた旅の土産は何だろう?」。

手ぶらで友人の扉をたたくというのは、小麦も持たずに石臼の許へ出向くようなものだ。全ての賞讃は神に属する。人々の集う(審判の)日に、神は言いたもう、「この復活の日、汝らが手土産に何を持参したのか見せてみよ」と。

「それとも、汝らはわが許に身ひとつで還ってきたのか。われが汝らを創った時と全く変わらぬまま、何ひとつ覚えもせず学びもせずに戻ってきたのか。あきれた者どもめ。よく聞け、汝ら、何を持ち帰ったのか。死の底から復活し、故郷へ還るのに、汝らは何を手土産に持ち帰ったのか?それとも汝ら、還されるとは思わなんだか。汝らの胸に、望郷の念は無かったのか。われに再び会うことなどあるまいと、今日の今日までたかをくくっていたのか」。

読者諸賢よ、御方が主ならばあなた方は客である。それともあなた方は、御方の約束を疑っているのだろうか?だとすれば、客が主から振る舞われるものは、台所の塵と灰ばかりになろう。それともあなた方は、御方の約束を信じているのだろうか?だとすれば、代えがたい最良の友を訪れ、その館に足を踏み入れるのに、手ぶらで出かけようなどとは一体どうしたことか。

睡眠と食事を、少しばかり控えめにせよ。自制を学ぶのに、これほど良い方法はない。睡眠と食事を、少しばかり控えめにせよ、それが御方への、あなた方からの手土産となる。眠るなら、少しばかりの夜を眠れ。神の赦しを請う者達にとり、夜明けの時間に優るものはない(コーラン51章17、18節)。ほんの少しかき混ぜてみよう、凝(こご)る胚のように - そら、光を感知する器官が芽生えてくる。それを得て、初めてあなた方は子宮のごとく閉じた世界の外へと踏み出す。土塊の世界から、広い宇宙へ旅立ってゆく。

「神の大地は広大である(コーラン38章10節)」という御言葉の意味を知れ。広大な大地を渡った先人達を想え。我らが預言者達の精神は天をつくほどにも高く、故に神の大地の広大さに物怖じすることもなかった。椰子の木の、若く新たな枝はしっかりと水気を含んで枯れることがない。かたやこちらの枝は疲弊し、消耗し切っている。

閉じられた感覚は重荷にしかならない。重荷を捨て去ることの無い限り、今すぐにも折れて、まっさかさまに落ちてしまう。眠りについて考えてみよう。眠る時、私達は感覚の重荷を脱ぎ捨ててふわりと高く飛んでいる。苦痛も、苦悩も忘れている。眠りのもたらすこの感覚、この味わい。そこには聖者の生まれる瞬間というもの、あるいは聖者の階梯というものの、あの味わいと通じる何かがある。

聖者というのは、かの洞窟の仲間達(コーラン18章)のようだ。立っていようと、座っていようと、あちらこちらへ動きまわろうと、常に眠り続けている。眠り続ける彼らを立たせ、座らせ、動かしているのは御方だ。彼ら自身が何かを探したり、避けたりしているのではない。御方が、右へ、左へ、彼らの手を引き導いている。彼らが眠っているあいだ、われらが彼らを右に左に寝返りを打たせ(コーラン18章18節)」、とある通り。

右とは何か?善へと向かう意志だ。では左とは何か?身体の諸感覚だ。これら二つの働きが、聖者達を動かしている。彼ら自身は意識してそうしているのではない。どちらの働きも御方によるもの、彼ら自身はこだまのように反射するだけだ。こだまは善悪の線引きをしない。響くものは何であれ響かせる、それがこだまだ。善悪の線引きはこだまを聞く者の裡にある。こだまを聞く者がそれぞれに判断し選別する。そして善悪どちらのこだまを響かせようが、山は常にそこにあって不動である。

ヨセフは言った、「さあ、君の土産を出しておくれ」。求められて客はうろたえ、すすり泣きの声をあげた。「一体どれほどの贈り物を」、彼は言った、「君のために私が探してまわったことか!けれど君にふさわしいと思えるような贈り物は、結局ひとつも見つからなかったのだ」。

砂金を一粒、金鉱に持ち込んだところで何となろうか

水を一滴、ウマーンの湾に持ち込んだところで何となろうか

私の心、私の魂を贈り物にしたところで、

ケルマンに向かってクミンの種を蒔くようなもの、

これほど無用で役に立たぬことも無かろう

比類無き君の美しさの他に、この倉に必要な種子は無い -

そこで私が持ってきたもの、それはこの鏡だ

胸の光のようなこの鏡こそ、唯一、君にふさわしい土産と考えて

これがあれば、君は鏡の中に君の美しい顔を見ることが出来る

太陽のような君よ、大空に灯された蝋燭の炎のような君よ

さあ、鏡を受け取っておくれ

これが私から君への土産だ、我が目を照らす光よ

そして鏡の中に君の顔を見る時には

どうか思い出しておくれ、この私のことを -

その腕の下に抱いていた鏡を、彼はそっと前に差し出した。

贈り物をするならば、有るものよりも無いものを選べ、よほどの愚か者でも無い限り。正直で公正な者が仕事を為すとき、その傍らにはいつも鏡がある。有を知るためには、無を映し出す鏡が必要だ。不在こそは、在の真の姿を知らしめる最良の鏡である。いや、不在「のみ」としても過言ではないだろう。

富める者は貧しい者に施しを与える。与えぬうちは「寛大さ」など不在も同然だ。空腹を抱えた者こそ、パンを最もはっきりと映し出す鏡となる。同様に、火打石こそ、炎を最もはっきりと映し出す鏡となる。どのような場合においても同じことが言える。欠落と不足こそは、完成と充足を知らしめる鏡である。

この世の衣裳の全てがぴたりと身体に馴染み、縫い目も美しく揃っていたなら、仕立て屋の出番もあったものではない。大木の幹も枝も、ごつごつと瘤だらけで粗野であってこそ、木こりの腕前の見せどころもあるというもの。骨接ぎの出来る医者は、骨折した患者のいるところならばどこへでも出向くだろう。やせ衰えた病人が一人も居ないのでは、医術の素晴らしさが知られることも無いだろう。銅貨の祖末さ、陳腐さが、広く知られることが無ければ、錬金術の価値を示すことも出来ないだろう。

完成の質を知らしめるのが欠落という名の鏡ならば、権力と名誉の質を知らしめる鏡の名は腐敗であろう。あらゆる物事はその対極によって知らしめられる。蜂蜜の本質を最も良く知らしめるものが酢であるように、何ごとかの本質を知りたければ、その反対側にあるものは何かを観察することだ。自分自身を良く知る者とは、自分自身に欠けるものは何かを知ろうとする者である。欠けているものが何かを知り、それを補い、完成に向かって歩みを進める。進歩と発展をもたらすもの、それは不足と欠落だ。

栄光の主の御許を目指して歩む者もいれば、そちらには目もくれず、一歩も進まず、飛ぼうともしない者もある。そうした者というのは、今の自分自身を完全であると思い込み、すっかり自己満足し切っている。魂の病のうち、これほど厄介な病はない。この種の傲慢さは、完成がもたらす自惚れよりも悪い。心からも瞳からも、もっと多くの血を流さねばならぬ。そうすれば流れる血と共に、忌まわしき病を捨て去ることも出来よう。

イブリースの過誤は「私の方が優れている(コーラン7章12節)」という言葉の中にある。この種の過誤、この種の病は、全てのヒトの魂の中にあるものだ。気持ちの上では「私は優れてなどいない」とへりくだっているつもりかも知れない。だがそれが既に間違っている。魂というものを見誤っている。

水面が澄んでいても、水底には汚泥が沈んでいる、それが川の流れの常というもの。ふとした折りに、川の流れをかき回す何かが起こってみろ、水底に沈んだ汚泥はたちまち浮かび上がって水面を濁らせるだろう - だから我が友人よ、油断するな。たとえあなた方の目には清らかな水面と見えても、水底には想像もしなかった汚泥が溜まっている。それがヒトというものなのだ。私も、あなた方も例外ではない。

知恵に満ちたピールならば、これを解決する術を知っている。彼らは穴を穿ち、水の流れを変える。魂と身体を別の大いなる流れへと導き、溜まった汚泥を新たな水によって浚ってしまう。汚れた水で、汚泥を洗い流せるだろうか?自分自身の知識「だけ」で、自分自身の無知を、自分自身という問題を解決出来るだろうか? - 剣には、自らの柄を握ることなど出来はしない。行け、行って外科医を探せ。傷の治療は外科医に委ねよ。

傷を放っておけば蠅が群がる。傷は隠され、見ることも出来なくなる。ここで言う蠅とは、自分自身の勝手な思案、自己満足の感情だ。そして傷とは、自分自身の中にある暗がり、自分でも知ることのなかった精神の闇の部分だ。そしてピールは優秀な外科医だ。傷に薬膏を貼付けて治療を施す。瞬く間に、痛みと悲しみが鎮められる。

しかし待て!痛みと悲しみが去ったからといって油断するな。物事のひとつひとつを、軽々しく侮るな。傷は未だにそこにあり、そして癒えるのには時間がかかる。薬膏はそのまま貼付けておけ、剥がれぬように良く見張っておけ。そしてその下に何があるのかを良く考えるのだ。自分の水底から目を背けるな、自分の傷から目を離すな。それもまた、治療の一部なのだから。