ザイドの見た光景

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

ザイドの見た光景

ある朝のこと。預言者がザイドに尋ねた。「おはよう、わが誠実なる同胞よ。今朝の気分はどうだね」。彼は答えた。「今朝の私は、この上無く信仰深き神のしもべです」。これを聞いて、預言者は再び言った。「ふむ。信仰の庭に、花が咲いたと言うのか?では、そのしるしは一体どこにあるのか見せてごらん」。

彼は言った。「昼は昼で渇望の裡に、夜は夜で愛と悲嘆の裡に、 - 一睡もせずそのように過ごしておりましたところ、いつしか私は、昼と夜とを分かつこと無きその先へと通り抜けていたのです、まるで槍の穂が楯を貫くがごとく。あちら側は、こちら側とはまるで相容れぬ領域。あちら側においては、生まれ出づるものと育ち続けるものに隔てはありません。

あちら側の世界にあっては、永遠なる属性と、永遠そのものが、分かちがたくひとつになっているのです。どれほど知識を追い求めたところで、あちら側の領域は私達の理解の範疇を超えています」。

預言者は言った。「その旅から、おまえがこちら側へ持ち帰った旅の土産はどこにあるのか。隠さずに出してごらん。全きあちら側の世界から、おまえが持ち帰った至誠のしるしを、包み隠さずに見せてごらん」。

ザイドは言った。「人々が見上げるのと同じあの空を見ても、私には、最も高い天とそこに住まう人々の姿が見えるのです。八層の楽園と、七層の煉獄が、偶像崇拝者の偶像のようにはっきりと私の目に見えるのです。こちら側にいる人々の一人ひとりが、石臼の中の大麦のように見分けがついてしまいます。

誰が楽園にふさわしく、また誰が招かれざる者であるのか、その違いが魚と蛇のようにはっきりと見えるのです」。 - 「人々の顔が白くなったり黒くなったりする日(コーラン3章106節)」、すなわち終末の日こそは、アナトリアの民、エチオピアの民、ありとあらゆる民にとり真の誕生の日となる。

この(誕生の)日が訪れるまでの間、ある者の精神がどれほど罪深くあろうとも、肉体という名の子宮がその他の人々から隠してしまう。その日いきなり煉獄に落とされるわけではない。子宮にいたころから、煉獄行きは煉獄行きと決まっている。彼ら全員に、神のしるしがつけられている。

魂という子供を宿した肉体が、まるで母のそれのように重たげに膨らむ。やがて月満ちて訪れる死は、誕生がもたらすのと同じ痛み、苦しみをもたらす - それを通り抜けた全ての魂達が、あちら側で待っている。我ら誇り高き魂は、果たしてこの先どちらの世界に生まれ出でるのだろうか?

かつてエチオピアの民であった魂が言う、「楽園は我らに属する」。かつてアナトリアの民であった魂が言う、「否。楽園は我らの許へ来たり」。死によって現世を去り、魂と神の領域に生まれるが早いが、現世における白さ、黒さの違いなど何の意味も為さなくなる - あるのはただ魂そのものの違いのみ。

祝福される魂は祝福を運び、懲罰を受ける魂は懲罰を運ぶのである。このようにして来世に生を受けるまでの間、現世にある限り全ては謎に包まれたままだ。ヒトの目はそれを見ることは出来ない - 神の光を通して物事を見る者達を除いて、胎児の運命を知る者はいない。

現世において、神の光を通して物事を見る者達はごくわずかだ。だが彼らの目は肌の色よりも、肌の色の下に何が隠されているかを見抜く術を心得ている。精液を見よ、私達の起源の姿を見よ。これほど純粋かつ清いものはない。これを汚濁と看做すのは精神の仕業だ。肉体は本来清いものだ。だが長じるに従い、精神の反射が肉体を曇らせてしまう。

アナトリアの民であろうがエチオピアの民であろうが同じこと、自らの肌の色を最も優れたものとし、その他の肌の色を貶めるというのは、肉体に関わる問題ではなく、精神に関わる問題なのである。これについては、議論し尽くせるものではない。急いで引き返そう、カラヴァンに置き去りにされてしまう。ラクダの隊列から取り残されてしまう -

「人々の顔が白くなったり黒くなったりする日(コーラン3章106節)」、一体、どこの誰がテュルクだ、ヒンドゥーだなどと気にかけるだろう?産み落とされるより以前の子宮の中では、テュルクもヒンドゥーも見分けがつかぬ。

だがそれぞれ来世に生まれるその時には、いずれが喜ばしき者か、いずれが哀れむべき者かが明らかになる - 神の光を通して物事を見る者には、それがはっきりと見えるのである。

- 「まるで審判の日にいるみたいです。男だろうが女だろうが、私の目には彼らのありのままの姿が見えてしまうのです。ああ、どうしたものか。話すべきでしょうか、それとも沈黙するべきでしょうか?私に、息をするなと?」。「十分だ」、と言わんばかりに、ムスタファはザイドの唇をつまんだ。

「ああ、神のみ使いよ!(審判の日の)召集について、その秘密を語るべきでしょうか?たった今この場で、復活の日とは何かを明らかにするべきでしょうか?好きにさせて下さい、私はこの垂れ幕をずたずたに引き裂きたい。そうすれば私の魂、私の本質があらわになり、太陽のように光を放つことでしょう。

私は太陽を曇らせて蝕を呼び、実り多きなつめやしと、果実を結ばぬ柳の違いを明らかにしましょう。復活の日について、それが何を意味するのか、本物の金貨と、混ぜ物入りの贋金の違いは何なのか。不義の人々の手首が切り落とされるその日について、私ははっきりと知らしめることでしょう。

信じぬ者の色、信じる者の色を示してみせましょう。瑕ひとつ無く、欠けることも無き満月に照らして、七つの亀裂(罪)から偽善を剥ぎ取り丸裸にしてみせましょう。羊毛の外套を身に着けてなお、地獄に堕とされる人々がいることを示してみせましょう。預言者達の太鼓の音をお聞かせしましょう。

信じぬ者達の目の前に、はっきりと示してみせましょう、煉獄と楽園の庭と、その間にある中有の域について。上下に波打つカウサルの流れる音、祝福された者の顔にかかる水のしぶきの感触。そしてカウサルを目の当たりにしながら、カウサルに近づくこと叶わず、喉の渇きに喘ぐ者達についても。

彼ら一人ひとりの名を呼んで、彼らが誰なのか、どこから来たのかを尋ねることも出来る。彼らの肩と私の肩は、そら、こうしてぶつかるほどの近さだ。すれ違うたび、彼らの叫び声が私の耳に響く - かたや楽園に住まう人々が、自由に手を取り合い、胸元に引き寄せるのも見えるのです。

誉れ高き者の住まう庭で、人々は互いを訪れたり、フーリーの唇から接吻を奪ったりして過ごしています。私の、こちらの耳は聞こえなくなりました。煉獄でひどい苦しみに苛まれる者達の叫び声がひっきりなしに響くので、耳の方が嫌がって閉じてしまったのです。

私がお話したことは暗喩です、ほんの一端をお見せしたに過ぎません。お望みなら、私の深奥からお話することも出来ます。けれど神のみ使いよ、あなたが不快に思うのではないかと、ただそれだけが気がかりです」。 - このように、ザイドは知恵に富む言葉を語った。彼はすっかり酩酊しており、忘我の状態になった。

預言者は彼の襟首をつかみ、ぐいぐいと引っ張った。「手綱を引け!おまえの馬は興奮し過ぎている、このままでは手に負えない。『神は真実を語ることを恥たまわぬ(コーラン33章53節)』。誰であれ心を撃ち抜かれれば、恥も遠慮も無くなるものだ、ザイドよ。仕舞われていた鏡が、おまえの衣の下から出てきたのだよ」。

どうして鏡や秤に嘘がつけるだろう?真実を告げるということは、鏡や秤にとり息をするのと同じこと。傷つく者があるかも知れぬ、恥をかく者があるかも知れぬと言って、鏡や秤に息をするなと命じるなど出来はしない。鏡も秤も、貴重で尊い試金石だ。

「真実を告げる必要はない、私の言う通りにすれば良い。多めに見せかけるのだ。足りない分は何が何でも隠せ」などと命じれば、彼らは答えて言うだろう、 -

「おまえの口ひげは飾り物か?あごひげを生やした大人が何を言う。片手に鏡と秤、片手に虚偽と詐欺を抱え込む気か。神が我らをいと高きところへと引き立てて下さったのも、我らを通じて真実が知らしめようとの思し召しからだ。真実を示すことも出来ないようでは、我らに何の価値があろうか?公正とは何か、我らが基準を示さずにどうせよと言うのか?」。

けれど預言者はこう告げた。「もしも神の光が、汝の胸をシナイの山のごとく照らしたならばその時は、 - 鏡は再びそでの中にすべり込ませ、そっと隠し持っておくように」、と。これを聞いてザイドは言った。「何故ですか?真実を照らす太陽を、永遠の太陽を、わきの下に仕舞い込めと言うのですか?

それで良いはずがないでしょう、バガル(baghal:わきの下)もダガル(daghal:詐欺)も、いっぺんに吹っ飛んで散り散りになってしまいます!そんなことになれば、狂気も、静謐も、理解も、何ひとつ残せるものが無くなってしまうでしょう」。

預言者は言った。「一本の指で片方の目を塞いでごらん。太陽無き世界が見えるだろう。太陽無き世界には、月の輝く余地も無い。たった一本の指が、月を覆い隠すヴェイルにもなってしまうのだよ。 - おまえに分かるだろうか。

一本の指とは、神が覆い隠すのに用いたもうヴェイルの象徴だ。たった一本の指でさえ、太陽に蝕をもたらしてしまえるのだ。おまえに分かるだろうか。たった一つの視点では、世界の全体を捉えることは出来ないし、むしろその視点こそが、捉えきれなかった残りの世界を覆い隠すヴェイルになってしまうことさえあるのだよ」。

唇を閉じ、海に目を向けてみよう。自分自身の内側にある海の深さに目を向けてみよう。楽園に住まういと高き者が、サルサビールとザンジャビールの泉を自在に操るがごとく、ヒトは内側にある海を制御することが出来る - 神がそのように創りたもうたからだ。

楽園を流れる四つの川もまた、私達の思うがままだ。私達の権能によって、ではない。神がそのように命じたもうたからだ。まるで魔術師の望みをかなえる魔法のように、私達は、私達がそう望む方向へと川の流れを差し向けることが出来る。そしてそれは、まさにこの「二つの泉」についてもあてはまる。

「二つの泉」、すなわち私達の両の目は、私達の心によって支配されている。私達の精神が命じれば、視線は命じられた通りの方向へ流れるのである。心がそうと望めば、視線は毒と蛇の方へ向かうだろう。あるいはまた、心がそうと望めば、視線は向上をうながす熟考の方へと向かうだろう。

そうと望めば、感覚的な事象の方へと流れ、またそうと望めば、「衣をまとうもの」、すなわち思想や想像といった感覚では捕えがたい事象の方へと流れるだろう。そうと望めば、普遍の命題へと歩みを進め、またそうと望めば、個別の命題に向けられたままになるだろう。

これは視覚に限ったことではない。機織り職人の手にある糸巻きと同じように、全ての五感は意志と心によって制御されている。まるで衣の裾のよう、全ての五感は、心が向かう先であればどのようなところへでもその後を追うのである。

手や足が、あたかもモーセの手に握られた杖のように、心の指揮下にあることは明らかだ。心が望めば、足はすぐさま踊り始める。不足から、充足へ向かって歩みを進める。心が望めば、手は指を操り書物を記し始める。手は、もうひとつの手と固く抱き合う  - 身体の手の内側に隠されたもうひとつの手と。それは身体の手にとり蛇のような敵ともなり、身体の手の友ともなって助けるだろう。

そうと望めば、ひと匙の食物のようになり、またそうと望めば、十マウンドもある棍棒のようにもなるだろう。身体に備わるそれぞれの器官に、心は何を命じ、何を告げているのだろう?私は不思議でならない。いずれにせよ心と身体にはつながりがある - 素晴らしきつながりが、隠された連関がある。

心はソロモンの紋章を得ているに違いない。だからこそ、五感の手綱を一手に握ってこれらを支配出来ている。外的な五感をやすやすと操り、内的な五感、内的な能力を指揮する。感覚は、十にも二十にも分類出来る。身体の器官も、七つとも、またそれ以上にも数えられる - ここで言及せぬものも含めて。

心よ、王国を統べるソロモンよ。妖精と悪魔めがけて、紋章入りの指輪を投げつけろ。この王国にあって、心よ、欺瞞とは無縁の汝ならば、三匹の悪魔も汝の手から指輪を盗みだすことは出来ないだろう。心よ、やがて汝は王国を征服するだろう。身体を支配するように、汝は二つの世界をも支配するだろう。

だがもしも悪魔が汝の手から紋章を奪うなら、心よ、その時汝の王国は過去のものとなり、汝の築いた富も潰えよう。そしてそれ以降は苦悩が汝の行く末を支配する - 神が私達を再び集めたもうその日まで。どれほど自らの虚偽を否定しようとも、その魂は、秤を、鏡を欺くことは出来ないのだ。