続)獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より

「うむ」、けもの達の言葉にライオンは答えた。「だが同時に、預言者達と真の信者達の努力についてはどう考えるのか? - 神にこそ称賛あれ!御方は彼らの努力を無には為さらなかった。彼らを苦しめた試練も迫害も、また昼の暑さも夜の寒さも、全ては御方の許から届けられたもの。

だが彼らは全てを乗り越えた。彼らは優れた人々だった。善い人が行なえば、全てが善だ。彼らこそは、天上の鳥をその罠に捕えた人々。彼らの不足は、それによって全て満たされたのだ。努力せよ、努力せよ!預言者達と聖者達の方法に学び、彼らの通った道を往け!」。

- さて、努力とは何か。それは運命に歯向かうことと同義ではなく、運命と闘うことを指すのでもない。見よ、運命それ自身が、努力を銀の盆に乗せて我らの眼前にうやうやしく掲げるのを。信仰もて誠実に道を歩むのみだ。この道において損を被ることなど一切ない。もしも損を被った人がいるのなら、その時こそは私を異教徒と罵るがいい。

おまえの頭は壊れてなどいないのに、包帯を巻き付ける必要がどこにある?ほんの少しだけで良い、善き事に励め。それが一番の治療だ。一生は短い。ほんの少し善き事に励むだけで、永遠に笑顔を絶やさずにいられよう。

悪しき者とは、現世を得ようとありとあらゆる手段を尽くす者。善き者とは、来世を得ようとありとあらゆる手段を尽くす者。現世を得ようと企てたところで、何の価値があろうか。だが現世を捨てようと企てるならば、それはまさしく(神の)鼓吹によるものだ。

正しい企てとは、すなわち自分を閉じ込める監獄に穴を掘って逃げ出すことだ。愚かな企てとは、その穴を塞いで監獄を完璧なものとすることだ。監獄とはすなわち現世であり、我らはその独房にばらばらに閉じ込められた囚人だ。穴を掘れ、おまえ自身を独房から、ひいては監獄から解放するために!

現世とは何か?それは神を忘却せしめる世界のことだ。品物は溢れ、貨幣が行き交い、何もかもが秤にかけられ値札をつけられる、何もかもが売り買いされる世界だ - 女までもが。

否、富を所有することの全てを否定しているのではない。信仰を伴わぬ富の所有を否定しているのだ。かつて預言者はこう語られた、「正しき人の手にある富の、なんと素晴らしいことか!」と。富と所有への欲望を心の中から投げ捨てたが故に、ソロモン王は彼自身を、他の何ものでもなくただ「貧しき者」とのみ名乗ったのだ。

舟の中に入り込めば、水は舟を沈めてしまう。だが舟の下にある限り、水は舟をどこまででも運ぶ。蓋をされた瓶を荒れ狂う波間に投げ入れても、瓶が風で満たされている限り(空っぽである限り)、水面より下に沈むことはない。心もこれと同じだ。不足を嘆く嵐が吹き荒れようとも、空の瓶ならばひたすら安らかに、ただ世界の水面を浮くのみだ。

たとえ現世の全てが彼の有する王国であろうとも、彼の心の眼を通して見るならば、王国など何ほどの価値もない。ならばおまえもソロモン王に倣い、心という瓶の口に蓋をして封印を施せ。心という瓶を、神の吐息で満たせ。

- いずれにせよ、努力は現に存在する、病と薬が同時に存在するように。疑り深く努力を否定する者でさえ、努力を否定すべく躍起になって「努力」しているではないか。

このようにして、ライオンは多くの証明をしてみせた。そのため、論破された宿命論者達はすっかり問答に疲れ切ってしまった。狐と鹿、兎とジャッカルは宿命論の教義を取り下げ、議論から退いた。たけり狂うライオンと、彼らは契約を交わした。取引においてライオンが損失を被らぬよう、日々の糧が滞ることなくライオンの許へ送り届けられるよう、また定められた糧よりも多くを求めぬよう。

それから毎日というもの、けもの達の間でくじ引きが行なわれた。くじ引きに負けた者は豹よりも速くライオンの許へと走り去り、二度と戻ることはなかった。やがて(死の)杯を飲み干す番が兎の許へ廻って来た時、兎は身もだえて泣き叫んだ - 「何故だ、何故だ!一体いつまで我々は、このような暴虐に耐えねばならないのか!」。

けものの仲間達は口々に言った。「今さら何を言い出すのだ。今日の今日まで、命を犠牲にして我々はこの契約を忠実に誠実に守り続けてきたのだ。我々の名を汚すよう真似は許さんぞ、この反逆者め!さあ行け、ライオンが機嫌を損ねる前に。行け、行け!速く、速く!」。

「ああ、友よ、友よ、」兎は言った。「少し時間をくれないか。私の知恵をもってすれば、あなた方は災難から逃れられるかも知れない。私の知恵をもってあなた方の命を救えば、それはあなた方の子孫への置き土産ともなるだろう」。 - ありとあらゆる災難と、それに続く解放の場面において、全ての預言者達もまた、このように人々に語りかけたものだ。

預言者達は物事を俯瞰する。天を通じて、危機からの出口を見出す。だが(彼の仲間達は)恐怖に怯え勇気を失い、瞳孔も縮み上がって何も見えなくなっている。人間は自分自身について非力で、無力な、瞳孔のようにちっぽけな存在だと思い込んでいる - 瞳孔の、偉大な働きもその価値も、本当のところは全く理解していないにも関わらず。

けものの仲間達は言った。「おまえ、一体いつから驢馬(愚か者)になったのだ?我々の言う通りにするんだ!兎なら、兎らしくしていろ!何を思いついたのか知らないが、そんなことは自慢にもならないぞ。

偉そうに、目上の者にその態度は何だ。おまえの思いつきなど、誰かが以前にも思いついたことと同じに決まっている。おまえが自惚れているのか、はたまたこれも運命か。いずれにせよ、おまえなど利口ぶった演説をするのに相応しい身分ではないぞ」。

彼(兎)は言った。「違う、違う。友よ、聞いてくれ。神が私に知恵を閃かせたのだ。『弱きものほど賢きもの、弱きものほど学ぶもの』と」。神は、それぞれに相応しい賢さと知恵を与えたもう御方。ライオンや、野生の驢馬に教え給う知恵と、蜜蜂に教え給う知恵は明らかに違う種類のものだ。

蜜蜂の住処を見よ。彼らは汁気たっぷりの甘い菓子を蓄えている。それは蜜蜂のみがなし得ることだ - 神が(蜜に関する)知識の扉を、彼らに開け放ちたもうたのだ。それと同じような知恵は、蚕にも備わっている。象を見ろ、蚕を踏みつぶせるほどの巨体ではあっても、象には蚕のように絹を紡ぐ知恵など一欠片も備わってはいない。

アダムは泥土によって創られ、神によって知識を学んだ。(彼の)出自は卑しくとも、その知識が放つ光は無上の天界をも貫くだろう。彼(アダム)は天使達の自尊心を粉々に打ち砕いた。中でも高慢な「あの者」の、神に関する無知を暴いた - 「あの者」とは、すなわち若い仔牛(アダム)の鼻輪とされた者(=イブリース)。神により、幾千の年月に渡って禁欲の苦行を強いられる者。

「あの者」は、宗教に関する知識の乳を飲むことも叶わず、そびえ立つ神の城の周囲を散策することも赦されてはいない。唯物論を支持する者にとって、肉体の感覚とは鼻輪のようなものだ。鼻輪に引き摺られて遠ざかり、崇高な知識の乳を受取ることも叶わない。

心臓の奥深く、中心に据えられたひと滴の宝石を見よ。それは御方がかつて海にも、空にも与えなかった秘宝の中の秘宝だ。それでいて、何故いつまでも外面に囚われ続けるのか?偶像を崇拝してやまぬ者よ。現実を直視することを避けるおまえの魂は、一体いつになればまやかしを離れるのか?もしも外見を形作る物質のみが人間の全てであったなら、アハマド(ムハンマド)とアブー・ジャフルの間に何の相違も無かっただろう。

アダムは壁に描かれた絵画のようなものだ。絵画は美しい、だが何かが欠けている - 欠けているのは何だ?精神だ、それ無しには如何に燦然と輝こうとも空っぽの絵画に過ぎぬ - 行け、宿るべき精神を探せ!探せ、またとない貴重な宝石を!

「洞窟で眠る若者達を思え(コーラン18章10節)」。彼らと共にあった犬を思え。神がかの犬を愛でられ、その御手を額に置き給うた時、世界中のライオン達は犬の前にその頭を低く垂れたのだ。外見で判断することの何という愚かしさか。神は若者達と共にあった犬の心をこそ愛で給うた。神の愛をもってすれば、獣であってさえも光の海へ通ずる。

書記達はおまえの外面になど興味を持たない。彼らの筆は、おまえが真に「学んだ」か、そして「正しい」かを記録する。「学んだ」か、そして「正しい」か。精神的な事柄の本質はこれに尽きる。そして本質とは、「あそこにある」だの「ここにある」だの、前だ、いや後ろだ、などとやっていれば見つかるような「モノ」などでは断じてない。

精神を照らす太陽の光は、「どこ」という場所を持たぬ方角から差し込んで来る。その太陽は、我らが見ているあの「空」に包含しきれるものでは断じてないのだ。

これは話し始めるとキリというものが無い。ええい、集中!無駄話はこの位にして、兎の話に耳を傾けてみよう。おまえの頭の横にくっついているそれ、その耳。そんな役に立たないものは売っぱらってしまえ。替わりにもうひとつ、別の耳を買って来い。肉の耳は愚かだ。この物語を真に「聞く」のは、肉の耳ではとても無理だ。

さあさあ、兎が仕掛けた狐のごとき策略を見てみよう。一体何を用いて、兎はライオンに一杯喰わせようというのだろうか。 - 知識だ。知識こそはソロモンの王国へと通じる鍵。世界は肉体であり、知識はその精神である。世界という器を、知識という水が満たしている。

知識ある者の前に、獅子も豹も鼠のように怖れて震える。 大河をわがものとする鰐が驚愕し青ざめる。妖精も悪魔も、知識ある者を見れば怯えて、 それぞれの隠れ処へと逃げ去り扉に鍵をかけて隠れる - 人間には隠れた敵があるというのはそのためだ、用心深い者ほど賢く学ぶのもそのためだ。

未だ明かされぬ知識には、善いものもあれば悪いものもある。それらの全てが絶え間なく、心めがけて力まかせにぶつかってくる。川へ赴いて、沐浴のために水に入る。おまえの足裏を、何かがちくりと刺す。棘が水底に隠れて眼に見えなかったとしても、足裏に伝わる痛みが棘の存在をおまえに知らせる。これと同じだ。

天使の霊感と悪魔の誘惑とが、 - ひとつではない、無数のそれらが - ありとあらゆる方角から、ありとあらゆる存在を通じて押し寄せてくる。気長に、だが怠ることなく感覚の全てを研ぎ澄ませて待て。捨て去るべきものを捨て去り、選び取るべきものを選び取れる、 もうひとつの感覚が育つのを、用心深く待て。(そうすれば)困難は取り除かれ、やがて聞くべき価値のある言葉と、拒絶すべき言葉の違いを知ることも容易になるだろう。

さて、さて、兎を取り巻く他のけもの達は言った。「ふん、小賢しい奴め。それなら、おまえの考えというやつを聞かせてもらおうじゃないか。分かっているのか?相手はライオンだぞ、我々は途方もなく大きな問題を抱えているのだぞ。さあ、さあ、おまえの計画を語ってもらおうじゃないか」。

助言はありがたく聞いておくもの、それは認識を矯正し理解を助けるもの。心は、常に(他の)心によって助けられるというもの。預言者は言っている、「お互いに助け合え、お互いに知恵を出し合え。そのようにして、最も信頼に足る言葉を探し出すが良い」と。

兎は答えた。「今ここで、全ての秘密を明かすことは出来ません。サイコロをご覧なさい。数ですら時には偶数、また時には奇数となって自らの秘密を守るじゃありませんか。ばか正直に、何でも喋れば良いというものでもありません。たとえ汚れを落とすためだとしても、息を吹きかければ鏡はたちまち曇って何も見えなくなる」。

出自、財産、それから宗教。この三つに関しては、何も言わずに唇を閉じて黙っているのが最も良い。この三つに関して語るには、あまりにも敵が多過ぎる。彼らは常に、誰かが口を開いて(この三つについて)何か言い出すのを、今か今かと待ち構えている。ほんの少数の者にだけ、こっそりと打ち明けたつもりでも無駄なことだ。次の瞬間には、秘密に別れを告げることになろう。

秘密は一人で守るもの。二人以上が秘密を知れば、たちまち海の向こう側まで知れ渡ることになる。二、三羽の鳥をひとつ処にくくり付けてみると良い。おとなしく、罠にはまってじっとしているように見えるだろう。だが実際には、ただそのように見せかけているだけだ。油断させておいて、どのように罠から逃れるのかをこっそり算段している。

預言者に学べ。彼の振る舞いにはこれと良く似ている。物事を話し合う時はあたかも何も知らぬかのように人々に尋ね、決して真意を悟らせる事は無かった。話す時は、言葉ひとつにも二重、三重の比喩と暗喩を用いた。潜んでいるかも知れぬ敵に、全てを知られることの無いようにと考えてのことだったのだ。そのようにして、彼(預言者)は敵からすらも答えを引き出したのだった - 知ろうとするところを、誰にも悟られることも無しに。

兎はしばらくの間、あちらこちらをぐずぐずしていた。それから、遅れに遅れてようやくライオンの許へ辿り着いた。ライオンは、その仲間達と奪い合って餌食を引き裂いていた。兎がなかなか姿を見せなかったせいで、ライオンは怒り狂っていた。餌食どころか大地に深々と爪を立てて咆哮した。

「だから言ったのだ」、ライオンは叫んだ。「下劣な連中の約束など下劣に決まっている - 下賎で惰弱な連中が約束を果たすことなど無いのだ。奴らの甘言に、俺はまんまと騙された。奴らの次は、『時』が俺を騙そうとしている。だが『時』め、俺を甘く見るなよ。どれほどの間、この俺を騙し仰せると思うのか?」。

こうなると、せっかくのたてがみさえ何の役にも立たなかった。立派な顎髭以外には、見るべきものも無い哀れな王子。我を忘れた愚か者は、その愚かさゆえに自らの後ろにあるものも前にあるものも見ようとはしない - そしてそれゆえに、『時』に取り残され置き去りにされるのだ。

物事の、上っ面だけを見る者にとって、道は平坦に見えるだろう。だが落とし穴がその下に隠されている - 名とは空っぽの器だ。名という器を覗いても、見つかるのは意味の欠落のみ。

言葉や名とは、まるで落とし穴のようなもの。甘い言葉、耳さわりのよい言葉とは砂のようなもの、我らの生命の水をたちまち吸い取ってしまう。生命の水を噴き上げてほとばしらせる砂は貴重だ - 探せ、滅多には見つからぬその砂を、茫々たる砂漠に埋もれた一粒を。

叡智を探して追い求める者は、やがて自身が叡智の泉となる。あれこれ、躍起になって知識をかき集めてそれに固執することもなければ、それまでの方法に執着することもない。まさしく自由闊達の境地だ。知識の碑を守護する者は、守護される知識の碑そのものとなる。かの者の理解は、神の聖なる知識によって濃度をいや増す。

物事を理解させるのは知性と理性の力による。知性と理性に導かれて理解が増せば、やがて知性と理性は師の座を譲る。以降それらは弟子となり、瞬く間に使い物にならなくなる。かつてガブリエルがそうしたように、それらは言うだろう、 - 「アハマド(ムハンマド)よ、もうこれ以上は無理だ、私は燃え尽きてしまう。ここから先は私を置いて一人で進むがいい、私にはこれが限界だ、おお、魂の王よ!」。

知性も理性も働かせようとはしない者がある。不注意極まりない者ども、感謝せず忍耐せず、また自制とも無縁の者ども。運命がもたらす必然の踵の後を、ただついて行く以外に何ひとつ知らず、また知ろうともしない。運命を、必然を、言い訳に利用する者どもめが!

あれらは恨みがましく訴える、「そうせざるを得なかった」「そうならざるを得なかった」と。仮病だ。だが仮病も、続けていればいつしか真の病となってあれらを墓場へと連れて行く。預言者は言った、「冗談でも病を偽るな。仮病はやがて真の病となって蝕む。たとえ冗談でも病を偽れば、吹き消される灯火のように生命の火も消える」と。

運命の名で呼ばれる「それ」の、真の意味とは何か?それは治療だ。骨が折れれば継ぎ合わせ、血の脈が断たれれば縫い合わせることだ。この道において、おまえは何をしているのか?歩き出してもいないおまえの足の、どこが折れていると言うのか?幾重にも包帯を巻き付けて、誰を騙すつもりなのか - おまえ以外の、誰が騙されると思うのか!

- だがこの道において真に励む者、励んだ末に折れた足を抱えて苦しむ者があるのも事実だ。忘れるな、傷つく者の傍らには、必ずالبراق(ブラーク:天馬)がやって来る。ブラークは傷つき苦しむ者を背に乗せ、痛んだ足の替わりになって運ぶだろう。その者こそは(真の)宗教の担い手。信仰を運ぶ者は、終に信仰に運ばれる者になる。(神の)命ずるところを受け入れたがゆえに、受け入れられる者へと変容したのだ。

それまでは、王の命ずるところをただ受け入れるだけの者だった。それ以降は、王の命ずるところを人々に伝える者となる。それまでは、星々の伝えるところにただ支配されるだけの者だった。それ以降は、星々を統治する者となる。これに困惑しているようでは、コーランを真に理解していないも同然だ。疑うのか、「時は満ち、月は裂けた(コーラン54章1節)」との御言葉を。

舌先に信仰を語りつつ、心の底では悪しき欲望を新たにする者よ。おまえの信仰を新たにせよ。舌先で語る「信仰」になど、何の価値も無いと知れ。自分勝手な欲望を生かし続ける限り、信仰が新しく生まれ変わるはずもない。自分勝手な欲望が、自分自身に対して門を閉ざしてしまうからだ。

聖なる書物の、無垢なる御言葉を汚すな。おまえの欲望に歪められた解釈に何の価値があろうか。書物を解釈する前に、まずは自らの魂を解釈するが良い。きままな欲望に沿ってコーランを解釈する者よ。書物の崇高な意味を引きずり降ろして歪めるのは、おまえ自身の欲望に他ならないことを知れ。