続)獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より

ライオンは憤激し、怒りに任せて叫んだ - 「敵どもの話に耳を貸したばかりに、俺の眼は曇って真実を見抜けなかった。宿命論者どもの仕掛けた罠に、俺は嵌められたのだ。玩具のような木の剣が、俺の体に傷をつけたのだ。これ以上、あいつらの無駄話には付き合うものか。あいつらは欺くためには何だって言うのだ。悪魔のような奴らめ、悪鬼のような奴らめ。

「我が心臓よ、ためらうことなく奴らを微塵に引き裂いてしまえ!奴らの皮を剥いでやれ!上っ面の皮一枚の他には、何ひとつ持ち合わせぬ連中なのだから!」。 - 皮膚とは何か?見かけ倒しの言葉だ。それは水面をさざめく波紋のようなものだ。現れては消え去り、決して長続きすることがない。

知れ、言葉とは皮膚(殻)のようなもの、そして意味とは殻に包まれた核のようなもの。言葉は器であり、意味は器に宿る魂だ。外側にある殻を見ただけでは、核の疵を見抜くことは出来ない。また優れた核を見抜くことも出来ない。核の良し悪しは、殻によって隠される秘密だ。

風という名の筆を用いて、水という名の紙に記したところで、記された言葉はあっと言う間に跡形もなく消え去るだろう。水に記せば波紋がさざめく。だが現れては消えるのが波というもの。波に不変を求めるな、失望の末に自らの手指を噛むことになるだろうから。人の心の水面を吹く風がある、虚栄と欲望という風が。風という名の筆を捨て、水面を鎮めよ。それで初めて、御方(神)の御言葉が届くだろう。

創造主の御言葉ほど、甘く愛おしいものはない。決して消え去ることもなく、永遠に不変の御言葉は他にない。王も彼らの帝国も、また彼らのためのخطبة(フトバ:説法)も、時と共に過ぎ去っていく。地上にあって変化しないものなど何ひとつない、預言者達のخطبةと、彼らの歩んだ道を除いては。

地上の王の華麗さは、彼らの虚飾、虚栄によるもの。あれらは自らの欲望に従っているに過ぎない。預言者達は飾りを必要としない。聖なる御方、全てを統べる御方が彼らを輝かせ給うからだ。ディルハム貨幣に刻まれた王の名を見よ。代替わりするたびに削られ、新たな王の名が刻まれることの繰り返しだ。

だがアハマド(ムハンマド)の名は、一度刻まれれば永遠に消えることはない。アハマド(ムハンマド)の名ひとつで、全ての預言者達の名を数えたも同然。ちょうど一から十までを数えるのに、十が九までの全ての数字を含むのと同じように。

兎が随分と遅れたのは、計画した罠について念入りに準備していたためだった。長い長い時間の後で、彼はようやくライオンの許へとやって来た。後はほんの二言、三言、ライオンの耳にささやくだけで事足りるだろう - 黙想せよ、根源の海を。心の奥深く、意識の底から通じる海を。世界の全てはここに生じ、ここに育まれる理性と良心から成っている -

この海の、何と広大なことか!限りなく甘いこの海の水面に、見よ、我らの姿がくるくると目まぐるしく流れて行く - まるで水面に浮かぶ小さな杯のように。満たされぬままであれば、空っぽの杯はいつまでも海の上に浮かび続ける。だがやがて満たされれば、杯は水中へと沈んで行く。

真理は常に海面の下に隠される。我らの眼に見えるものは、海面の上に生起する現象としての世界のみだ。我らの姿も形も、隠された真理の海がもたらす波や飛沫に過ぎぬ。

姿も形も、それらは(根源へと)近づくための手段として用意されたもの。(根源の)海が、(現象の)飛沫をはるか遠くまで投げかけてくるのはそのためだ。理性と良識を与え給うた御方から、心が離れれば離れるほどに。弓の射手から、放たれた矢が遠ざかれば遠ざかるほどに - 海は波立ち飛沫を散らす。

愚か者はこれに気付かない。彼らの乗る馬の価値について考えた事も無ければ、馬に乗っていることすら忘れ去って平然としている。だがそれでいて、馬を手放そうとはしないのだ。執拗に、頑固に馬を走らせ続ける - もっと速く!もっと遠く!

ご立派なことだ。馬は騎手よりもはるかに優れて賢い。馬は風のように疾駆する、騎手が馬を失ったかと勘違いするほどに。一かけらの冷静さも持ち合わせない愚かな騎手は、悲嘆にくれてあちこちを駆け回る。扉という扉を叩いて、馬の在り処を尋ね回る。

「私の馬を盗んだのは誰だ?私の馬は何処だ?」。ご立派な騎士殿。おまえが当然のように跨がるそれ、おまえの腿の下にあって、おまえを運ぶそれは一体何だというのか。「これか?これは馬だ、見れば分かるだろう。それはそれとして、だが私の探してる馬はどこだ?」。小賢しい騎士殿、まだ気付かないのか。

他所を探して何になる。おまえの馬なら、おまえ自身の許に在るに決まっているではないか!だがあまりにも近く、またあまりにも当然のように在るがゆえに、人は自らの魂をあっけなく見失う。胃袋は満たされていながら、乾いた唇が「もっと、もっと」と欲しがるように。

光無くして、どうして色を見分けられようか?赤と緑と褐色の、三色の違いを暗闇で見分けられようか?だが色に囚われ、一たび心が色に占められてしまえば、それらの色はヴェイルとなって光を遮り、光について想うことからも遮られるだろう。

やがて夜が訪れ、色の違いが暗闇に隠される。だが眼を閉じれば瞼の裏には、色の違いが光に照らされたように浮かび上がる。外側から照らす光抜きには、視覚は色を捉えることは出来ない。だが想像上であってさえ、光抜きに色を捉えることは出来ないのだ。

外側から照らす光とは、太陽と、太陽を反射する惑星達によるものだ。内側から照らす光とは、聖なる御方が放つ光の反射だ。そして内側から照らす光抜きには、外側から照らす光を感知することも出来ない。視覚によって捉える光は、心に宿る光在って初めて感知されるのだ。

夜には光が失われる。光無き闇の中では、色の違いも存在しない。光の存在は、光の対極にある闇によって明らかにされる。色を知るには、まず光を知らねばならぬ。そしてそれが真実であると知るには、光の正反対である闇を知らねばならぬのだ。

神が痛みと悲しみを創り給うたのは、その対極にある幸福を明らかにするため、幸福について知らしめるため。このように、隠されたるものはその対極にあるものによって明らかにされる。だが神は対極を持たない。神はただ神ご自身のみにより隠される。

視覚はまず光を感知し、次いで色を感知する。色の相違は、互いの対極により感知される。ギリシア人とエチオピア人の相違を感知せしめるのは、互いの存在に依っているのである。光は、闇あってこそ光として感知されるのである。対極にあるものが顕される過程で、隠されるものもまた知らされるのである。

だが神は絶対の一であり、その対極を持たぬ。神の光も然り。神の光を知らしめるのはただ神の光そのもの。神の光の対極に位置し得るものなど、何ひとつ存在しない。これが「視覚が神を捉えることは無い(コーラン6章103節)」の意味するところである。いかに哀願しようとも、神を視ることは叶わない。だがこれは同時に、「だが神は視覚をも捉える(コーラン6章103節)」の意味するところでもある。 - かつてシナイの山で、モーセの身に起きたことを思え。

知っているか、形あるものの全てを生み出すのは魂であることを。声も言葉も音無き思考も、まるでジャングルから飛び出すライオンのようだ。思考が全てに先ずる。この言葉もこの声も、思考が生じさせるもの。 - 思考の海が何処にあるのか、我らには知る由も無かろう、だが美しく澄んだ言葉の波に出会えば、それを生じさせる海もまた明光風靡であることが知れるだろう。

知恵と知識の海を、思考の波が寄せては返す。やがて海は思考の波に、言葉と声という形を与える。寄せては返す波また波。寄せて生まれた言葉もあれば、返して再び死ぬ言葉もある。生まれたばかりの言葉が、あるいは息絶えた言葉が、ご覧、波間に浮かんでは消えてゆく。形無きところから形有るところへと生じ、再び還る、形無きところへと。本当に、ああ、我らの還りつくところは『それ』である - 「我らは還る、御方の許へと(コーラン2章156節)」。

ありとあらゆる瞬間が、死と再生の繰り返しだ。ムスタファ(ムハンマド)が断言した通りだ、この世界は永遠ではない。我らも我らの思考も、御方が宙へ向って放たれた矢だ。どうして宙に留まっていられようか。どうして御方の手許へ戻らずにいられようか。

我らがひとつ息をするごとに、刻一刻と世界は新たに創造される。我らはそれを知りもせず、物事の表面だけを見て「いつもと同じく変わらぬ」世界にいると思い込む。生命もまた刻一刻と新たに創造される。まるで水流のようだ、一瞬たりとも同じ姿ではない。肉体もそうだ、これも一瞬、また一瞬と繰り返される創造の連続だ。

創造の瞬間は、肉眼で捉えることは出来ない。 - その手に松明を持て、そして火を点して廻転させてみると良い。うまく松明を廻転させると、分かるだろう、肉眼には一本に繋がる炎の輪のように見える。これと同じことだ。神の創造の御業の、あまりの素早さゆえに時間は空間のようにさえ感じられる。だが時間とは一瞬ごとの積み重ね。空間のように伸縮するものではない。

だが世の学者達というものは、とかく肉眼で捉えられる以上のことは探求しようとはしないものだ。重ねれば天上に届くかというほどの書物を読破した男、このフサームッディーンですら驚いて尋ねる始末だ、 - 「そのような神秘、一体どちらの書物より学ばれたのですか」、などと。

- さて、さて。長話の間にも、ライオンはもはや怒りの度合いも頂点に達し、憤激のあまり狂う寸前。そこへはるか遠くから、兎がやって来た。こちらへ向って、飛び跳ね、駆けて来る。意気消沈しているかと思いきや、堂々としたものだ。むしろ怒っているようにも見える。ひどく不機嫌そうな、ふてくされたような態度。あんな兎を見たことがない。

兎は、可能な限り大胆に振る舞おうと決めていた。怯えた素振りを見せたら負けだ、少しでも疑われたら負けだ。やがて兎がライオンの足許に辿り着くと、ライオンは叫んだ、「ふざけるな、この悪党め!おれは雄牛のあばらを叩き割ったこともある、象の耳を引き裂いたこともある。そのおれの命令を、おまえのような腰抜けの兎が守らないとはどういう了見だ!

おまえの耳は飾りか?この間抜けめ、どうしてくれようか!」。ライオンの咆哮の、凄まじいことときたら!「お慈悲を、お慈悲を!」、兎は言った。「これには理由があるのです。私の話を聞いて下さい、王様、王様、どうかお慈悲を!」。

「理由だと?」、ライオンは言った。「馬鹿めが!散々待たせておきながら、何を言うか、それが王に対する態度か!時ならぬ時を告げる鳥の首など、刎ねる以外に何が出来る。愚か者の言い訳など、耳を貸す必要は無いわ!罪人の弁解など、犯した罪よりなお悪い。無知な者の言い草など、知識を殺す毒のようなものだ!

兎よ、おまえを許すわけにはいかん。おれとおまえは同じではない。おれの耳は、おまえの耳と違って愚か者の戯れ言を聞くためにあるのではない!」。

「王様」、兎は言った。「今日ばかりは、価値なき者に価値があると思ってお聞き下さい、虐げられた者にどうかお慈悲を!中でもとりわけ私めは、いと高き王様であるあなたへの供物として届けられた者でございます。あなたへ捧げられたこの私を、あなたが拾わずに誰が拾うと仰るのですか?

海をご覧なさい。全ての川という川に水を分け与え、同時にその頭と顔を空へと向けて、ほんの一滴の雨さえも決して取りこぼしません。だからこそ海は、どれほど川に分け与えようとも決して減ることがありません。増えもせず、かといって減ることもない。それもこれも、海が寛大だからです」。

「黙れ、黙れ」、ライオンは言った。「寛大さも時と場合による。衣装は背丈に見合った長さに裾を切るのが道理というもの」。「お聞き下さい」、兎は叫んだ、「私の背丈が、王様のお慈悲にそぐわないならばその時は、王様の竜のごときお怒りの前に喜んで私の首を差し出しましょう。朝食を済ませてすぐに、私は我が友と一緒にねぐらを後にして、王様の許へと走り出していたのです。

ええ、ええ、そうですとも、我が仲間達は、私の他にもう一匹の兎を王様のために差し向けていたのでした。ところが道の途中で、見知らぬ一頭のライオンが、あなたの卑しき奴隷である私達を襲ったのでございます。ええ、ええ、そうですとも、あなたの取り分として差し出された二匹の兎を、両方とも横取りしようとしたのです。

私は言いました、『やめろ、やめろ。我らは王の中の王に差し出された供物なのだ。おまえのような格下の者の出る幕ではないぞ』。するとやつは言いました、『王の中の王だと!貴様、おれを誰だと思っているのだ。恥を知れ、俺の前でそんな寝言は許さんぞ!おれの前を素通りなぞさせるものか。おまえも、おまえの友も、おまえ達の王とやらも、全員まとめてこのおれが引き裂いてやる!』

そこで私は言いました、『それなら、なおさら王様に会いに行かなくちゃ。行かせて下さい、王様にあんたの言葉をそっくりそのまま伝えてやらなくちゃ』。やつは言いました、『おまえの言葉の形代として、おまえの友をここへ置いて行け。もしもおまえが戻らなければ、おまえの友もおまえも、おれの法に則ってひどい罰を与えるぞ』。

私は懇願したんです、でも無駄でした。やつは私の友の首ねっこをひっつかまえて、私を追い払ったんです。私の友ときたら、そりゃあもう見事なもので - 見た目だって、毛並みだって私の三倍は素晴らしくって、まるまると太ってふくよかで。

しかしともかくそういうわけで、あのライオンがのさばっている以上この道はもう使えません。私達と王様の契約だって、守ろうにもこの先どうなることやら。あのライオンがいる間は、これから先は契約通り獲物が届かないものと思って下さい。ああ、こんなことをお伝えしなくちゃだなんて本当につらいなあ。真実って苦いものですね。

もしも今まで通り獲物をお望みなら、この道を何とかして頂かなくっちゃ何ともなりません。どうかあいつを追い払って下さい。全く、王様の獲物を横取りするだなんて。何という不敬の輩でしょうね!」。

「神の名において」、ライオンは言った。「おまえの話が真実ならば。そいつは何処だ?!さあ、案内しろ。おまえが俺の前を行け。そいつが一頭であろうが、百頭であろうが、見つけ次第に俺の法に則って罰を与えてやる!だがおまえが嘘をついていたならば、おまえに罰を与えてやる!」。

そこで兎は、先頭に立って案内した。ライオンを、用意しておいた罠の方へと連れて行った。兎は、掘っておいた坑を指し示した。ライオンの息の根を止めようと、兎は深い、深い坑を作っておいたのだった。兎とライオンは、二匹連れ立って坑の縁近くまでやって来た。兎が用意したその坑は藁で覆われ、その下にはなみなみと深い水が隠されていた。

水が流れれば、藁はあちらからこちらへと運ばれる。だが藁は山を動かせるだろうか? - しかしそれこそが、兎の成し遂げようとしている事だった。兎が仕掛けた賢い罠は、ライオンの首にかけられた縄の輪となった。実に素晴らしい。兎がライオンを狩ろうというのだから、全く大したものだ。

モーセを想え。モーセは、たった一人でファラオに戦いを挑んだ。海のごときナイルの川が、彼の軍となり兵となって加勢した。ニムロードを想え。ニムロードに、たった一匹で勇ましく切りつけたのは、片方の羽を失った虻であった。

敵を見誤るな。見よ、敵の言葉に耳を傾けたものの行く末を。見よ、嫉妬深い者を友とした者の行く末を、与えられたその報いを。追従者ハーマーンの言葉に耳を傾けたファラオの最期に学べ。裏切者シャイターンの言葉に耳を傾けたニムロードの最期に学べ。

敵は親しげに語りかける。その言葉は、いかにも思慮深く聞こえる。実に、実に都合の良い言葉ばかりを与えて耳をくすぐる。それが彼らのやり方だ。麦粒を餌に、罠を仕掛ける。彼らが飴を与えたならば、それは毒だと思え。彼らが慰めを与えたならば、それは鞭だと思え。

運命の車輪がひとたび廻り出せば、うわべ以外の何も眼に入らないことが起こり得る。敵と友との、見分けもつかなくなる。そして、そのような憂き目を見ない限り、人は真には謙虚にならない。だがそうした事が一度でもあれば、人は真に悔悟する。悲嘆を知って初めて真に祈り、請い、やがて感謝の意味を知り、斎戒の意味を知る。大いに嘆き、大いに悲しみ、大いに涙を流せ。 - 「隠されたる物事について最も良くご存知の御方よ。我らを押しつぶし給うな。取り除き給え、悲嘆の重石を」。

ライオンを創造し給うた御方よ。守り給え、我らが諍いに没頭するあまり、我を失うことのないように。鬱蒼と茂る心の奥から、ライオンが飛び出すことのないように。甘い水の正体を、炎の覆いで隠し給うな。焼けつく炎の正体を、水の覆いで隠し給うな。御方よ、逆鱗の葡萄酒に我らの脳髄を浸し給うな。ありもせぬ幻影に、姿かたちを与え給うな、惑わし給うな。

- これ、この酩酊とは何か?それは眼を覆い視界を奪い、分別を奪う。پشم(パシュム:羊毛)とیشم(ヤシュム:碧玉)の見分けもつかなくなる。これ、この酩酊とは何か?それは感覚に蓋をする。魚竜と白檀とを混同せしめ、水場へと至る正しい道を踏み外させる。