アダムの転落

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

アダムの転落

人類の父アダム、主である神から万物の名について教えを授けられた者。彼はありとあらゆる学問に通じ、ありとあらゆる知識を有していた。万物の名を通して、万物に関する知識が彼には備わっていた。それらがどのような本質を持つのか、またどのような流転を辿り、どのように終末を迎えるのかも - それぞれに関する彼の定義は、揺るぐことなく正確だった。

「それは『活発』である」と彼が定義付けたならば、それが『怠惰』に転じるということは無かった。誰が信じる者として終末を迎えるのか、彼は最初の一目でそれと知ったし、また誰が信じない者として終末を迎えるのかも、彼の眼には明らかだった。

学べ、「全ての名を知る者(アダム)」が学んだように。「全てのものの名を教えた(コーラン2章31節)」ことの、最も深い意味について学べ。我らにとり、名とは姿かたちや外見について指し示す記号に過ぎない。だが創造主である御方にとって、あらゆる名とは姿かたちが内包する実在そのものを意味している。

モーセにとり彼が手にした「それ」は、彼の眼には「杖」であった。だが創造主である御方にとり「それ」は「竜」であった。ウマルは、そもそも「偶像崇拝者」としてその名を知られていた。だが最期には、同じ彼の名が「信じる者」として知られることになった。

我らの知る「名」とは、つまりは「種」のようなものだ。種の中には、眼には見えなくとも花も果実もある。今、私の隣で私の話を聞くそなたについても、神の御目は最初からお見通しであったことだろう。ここでいう「種」は、これという姿もかたちも伴わぬ。だが在るところには確かに在るのだ。外側に顕われるものよりもはるかに多いとは言わないが、決して少ないものでもない。

それらは神の領域に在る - 簡単に言うなら、我らの真の「名」は、常に神と共に在る、ということだ。終末を迎えて初めて、我らの真の「名」が明かされる、ということだ。御方は、人それぞれにその終末に相応しい名を授け給う。どこに居て、どのように呼ばれていようとも、今のその名は全て借り着のようなもの。それがそのまま、その人の本質であるとは限らない。

アダムに学べ。姿かたちを問うのではなく、その内奥を、最奥を問うこと、知識と確証は常に魂によってのみ得ること。純粋な御光りによって眼をひらかれたアダムにとって、「物事を見る」とはそういうことだ。物事を、そのようにして見るアダムに、天使達は神の御光を感知した。それで彼らは、揃ってアダムに敬意を表し、跪いて礼拝の姿勢をとったのだった。

アダムに祝福あれ。称賛しても、し足りるということがない。復活の日が訪れるまで休みなく称賛したとしても、それでもし足りるということがないだろう。 - しかしこれほどまでに賢いアダムも、神の定めた運命を見分けることは出来なかった。禁については承知していたが、あくまでも知識としてのそれに過ぎなかった。

そもそも禁とは何か、法を越えるとはどういうことか。何故それが禁じられているのか、その目的は何か、そして解釈の余地はあるのか。彼が持てる知識のみを恃みとしたとき、彼の心は逸れた。禁じられた果実の他には、何ひとつ眼に入らなくなった。彼の裡の自然が、彼を惑いの道へと急がせたのだ。

まるで庭師と泥棒のようだ。庭師(アダム)が足に刺さった棘に気を取られている間に、泥棒(シャイターン)が好機とばかり一切合切を奪って素早く逃げ去った。惑いから覚めてすぐに、アダムは再び正しい道へと戻った。だが気付けば、彼の収穫物はすでに盗まれた後だった。

彼は泣いた、「神よ、私たちは自らを損ねてしまいました(コーラン7章23節)」。心から悲しみ、ため息混じりにそう言った、「闇の暗さと深さに、道を見失ってしまいました」。神の定めた運命は、雲のように太陽を覆って光を遮る。ライオンも竜も、怯えた鼠同然になる。仕掛けられた罠を見抜けなかったとしても、無知な奴だとヤツガシラを責めることなど誰に出来ようか。

定められた運命の前にあっては誰もが等しく無知だ。しかしそれでもなお、正しくあろうと励む者の何と幸いなことか。持てるものを持たざる者のために投げうち、自らについては天に委ねて祈りの裡に過ごす者の、何と幸いなことか!

夜のように漆黒の闇で覆い尽くすのも運命なら、手を取って昼の光の方向へ案内し、完成へと導くのもまた運命である。人生において、幾度となく試練を投げかけるのも運命なら、生を与えるのもまた運命である。試練を克服する術を与え、そののちに安寧を与えて癒すのもまた運命なのだ。

人は試練に出逢い、それでようやく運命について思い出す。だが運命の方は、一瞬たりとも人を忘れない。試練を与えるのも運命なら、楽園に一人ひとりのための天幕を用意するのもまた運命。それもこれも、御方の慈愛によるものと知ってしまえば怖れることなど何ひとつない。ひとつ、またひとつと乗り越えるたびに、心という王国の安寧はより揺るぎないものとなる。

- また脱線してしまった。話は尽きない、だがもう夜も更けた。さて、兎とライオンの物語に戻るとしよう。