終)獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

終)獅子とけもの達:『カリーラとディムナ』より

ライオンが井戸に近づくと、それまで先頭に立っていた兎が歩みを止めてライオンの背後へと後ずさった。それを見とがめてライオンは言った。「こら、逃げるな。どこへ行く?何を後戻りしているのか。こっちへ来い、怖じ気づいている場合か!」。

兎は言った。「すっかり力が抜けてしまって足が動きません、まるで手足を失ってしまったかのようです。魂は震え、心は乱れてこれ以上動けません。私が今どんな気分でいるか考えてみて下さい!私の顔色を見て下さいよ、まさか金色に光ってなぞいないでしょう?血の気が失せているのが分かりませんか?」。

外側に顕われる様々な印について、神はそれらを「価値ある知識の源」と名付けたもう。それで求道者達の眼は、常に印に向って開かれる。どんな些細なことも見逃すまいとする。色と香りは重要だ、あれらは鐘のように鳴り響いて知らせる。馬のいななきを聞けば、馬がそこに居ることが知れるように。そう、音というのも重要だ、あれとこれとの違いを知らせる。

扉がきしむ音と、けたたましい驢馬の鳴き声は明らかに違う。あるいは人と人もまたそれぞれに違う。人、と言えば預言者はかつてこう言った、「その人の語る言葉が、その人自身を語る」。顔の色は、心の中の様子を知らせる。 - 冷たくするな、私を憐れんでくれ。私への愛を、おまえの心の片隅に植えておくれ。赤々と光る顔の色は、満ち足りた感謝の音色を響かせる。青白く沈んだ顔の色は、愛の拒絶と欠乏の音色を伝える。

私は出逢ってしまった事がある。私の手も足も奪い去り、顔の色を失わせ、外側にあるものも内側にあるものも全てをなぎ倒しありとあらゆる全てが打ち砕かれ、木々という木々は跡形も無く根こそぎ引き抜かれ、人間も動物も、植物も鉱物も、全てが色を失い動きを止めて - そうしたものに、私は出逢ってしまった。

私など、ほんのちっぽけな一部分を垣間見ただけに過ぎぬのだろう。あれの、運命の全体を見渡すなど - 世界の全てが青ざめて音無き悲鳴をあげ、信じ難い臭いを漂わせて -

過ぎ去ってしまえば、世界は再び息を吹き返して感謝に満ちあふれる。むき出しのまま朽ち果てたはずの庭も、今となっては何事も無かったかのように鮮やかな緑の衣で着飾っている。あちら側の世界では真っ逆さまに沈む太陽が、こちら側の世界では真っ赤な火炎を燃え立たせて昇る。

巡る季節の伴奏と共に星々は天に輝く。季節がひとつ過ぎ去る毎に、星もひとつ、またひとつと燃え尽きて立ち去る。それから月。月は何ものにも代え難く、美しさにおいて何ものにも優る。日々やせ細っていく時には、幻かと思うほどだ。そしてこの大地。静寂に包まれ微動だにしない。だが封じ込められた振動が一たび解き放たれれば、熱病のような狂騒を投ずる。

砂の一粒、また一粒が語り継ぐ悲しみの物語を聴け。かつては山であったものが、大地の振動に砕かれて小さな欠片となり散らばったのだ。魂の友たるこの風、生きるに不可欠なこの大気も、運命の輪の廻転如何によってはたちまち汚れて悪臭を放つ。魂の姉妹たるこの水、生きるに不可欠なこの甘い水も、流れずに淀めば黄色く濁って苦い毒となる。

燃え上がる炎を見よ、立派な口髭を蓄えている。炎ご自慢の口髭の名は「風」だ - ふっ、と一息吹き上げれば、「お呼びでしょうか?」 - たちまちにして死が馳せ参じる。海を見よ、海を渡る気流を見よ。一瞬にして変化し、激しくうねって逆巻く有り様を目にすれば、言葉にせずとも感知出来るだろう、海の下で、雲の上で、目に見えぬところで何かが起きているという事を。

天の歯車は常に廻転し続ける。これまでも、そしてこれからも - 飽くことなく探して、探して、なおも追い求め続ける子供のように。最初は最も低く、次いで中程へ、ついには天頂へ - 天頂を飾る星々の軍勢を見よ、あれは吉兆の星か、それとも凶兆の星か?

- これらの断片が連なって全体がある。そなたもまた断片のひとつ、全体のうちの一部分だ。断片の、ひとつひとつは実に単純だ。だが全体が悲しみと痛みに苦しむ時、その一部分が平常でおられようか?朽ち果てる前の大木の、一葉が生き生きとしておられようか?逆も然りだ。特に断片のひとつひとつ、すなわち水、土、火、そして風が、単純とはいえ互いに正反対の性質なのだから、これは何とも複雑だ。

全体の、ほんの一部分であるそなた自身にも、これらの相反する性質が同居している。羊が、狼を怖れることに何の不思議があろうか。もしも羊と狼が親しげに語り合ったり、互いに挨拶を交わし合ったりするようなら、その時は遠慮なく驚け。生命とは、互いに相反する断片が奏でる驚くべき調和である。死とは、それらの相反する断片同士の間に繰り広げられた争いの結果だ。

ライオンと驢馬に、共通点など見出せるだろうか?これほどまでに遠く相反する種が、等しく全体の一部分としてそこに在ること、これが神の恩寵でなくして何であろうか。等しく全体の一部分として生まれ、等しく全体の一部分として死んでゆく。これ以上に、驚くべきことが他にあるだろうか。

- 「ともかく本当に無理です、これ以上は動けません」、兎は言った。「私ゃ弱いのです、分かって下さい、恐ろしくって動けません」。ライオンは言った、「うるさい、余計な言い訳などするな。気分が悪い原因は何だ?もっとましな理由を言ってみろ、逃げようとするな」。

「だって、ライオンが」、兎は言った。「ライオンがその坑の中に隠れているんですよ。その坑が奴らの砦、奴らの要塞なのです。だから誰にも手出し出来ないのです」。

賢い者は誰であれ、あるいは洞穴、あるいは洞窟、またあるいは井戸の奥深くに暮らすことを選び取るだろう。誰にも邪魔されることのない秘密の隠れ処。霊的な歓喜は、常に孤独の裡にのみ得られるものと知っているからだ。井戸の暗闇は、現世の暗闇よりもはるかに好ましい。現世の背中を後追いしてみたところで、現世は決して満足をもたらしはしない。

「来い」、ライオンは言った。「そんな奴らはぶちのめしてやる。だがその前に、ライオンが今この坑にいるのかどうか、まずはおまえが確かめろ」。兎は答えた。「とんでもない!そんなこと怖くって出来ませんよ、むしろどこかに自分が隠れられる坑が無いものか、そっちの方が気になってるくらいです。

とてもじゃないけど無理ですよ、せめてあなたも私と一緒に見に来て下さらなくっちゃ。どうか一緒に歩いて下さい。私だけじゃ怖くて怖くて目も開けられません、坑の中を覗くだなんて出来っこありません」。そこでライオンは兎の傍へやって来た。ライオンの体躯に隠れるようにして、兎はしぶしぶといった具合で坑の方へと歩き始めた。

坑の中を覗いてみると、浮いた藁の隙間に、一頭のライオンと、一匹の兎がこちらを見ているのが見えた - それは水面に反射した、彼ら自身の姿だったのだが。ライオンは、水面に彼自身の姿を見た。水面は、一頭の傲慢そうなライオンと、そのとなりにまるまると太った兎を映してみせた。奴こそは自分の取り分を奪った敵。そう思うが早いがライオンは兎をその場に残して敵に飛びかかり坑へ - 自分の墓穴へまっさかさまに飛び込んだ。

彼が落ちたその墓穴は、彼自身が掘ったも同然だった、彼自身の行いが、巡り巡って彼自身の頭上めがけて落ちてきた。昔から、全ての賢者達が繰り返し伝えていることが起きたのだった。すなわち、悪者どもの行いはいずれ悪者どもに降り掛かるのだ、と。行いが悪ければ悪いほど、悪者の落ちる穴は深くなるのだ、と。虐げる者には、それ相応の正義が下されるのだ、と。

己を利するために不正を為す者よ。他者を陥れるために掘ったつもりの穴が、自分を捉える罠となるのが見えないか。罠を張り巡らせる蜘蛛のつもりでも、していることは己を縛るまゆを紡ぐ蚕のそれ。穴を掘るなら、ほどほどにしておけ。あまり深く掘りすぎると、後で泣くのは自分自身だ。

力無き者を侮るな。か弱き者に友軍など無い、などとは決して思うな。コーランにもある通りだ、読め、「神の助けが来たる時(コーラン110章1節)」から始まる物語を。読め、象の物語(コーラン105章)を。見よ、象の群れを。逃げ惑う敵をなおも蹴散らしたその直後に、懲罰をくちばしにくわえた鳥達の群れが襲いかかるのを。

何ひとつ持たない弱き者が、地上において慈悲を乞い願う時、聞こえないか、天上の天使達が激しく打ち鳴らして轟音を響かせ、弱き者に加勢するのを。 - ああ、何故聞こえないか、何故耳を塞いでいられるのか!弱き者を噛んでその血を啜れば、噛んだ者はやがて歯痛に苦しむことになる。 - だがどうする?そのような目に遭わない限り、分からない者には分からないのだろうか?

坑の水面に彼自身を見たライオンは、たちまち激しい怒りをおぼえ、その瞬間から自分と敵との見分けもつかなくなった。水面に映る自分の姿を敵と思い込んだライオンが、自分自身に対して剣を抜いたのも当然の成り行きだった。

友よ、不正を為す者の多くはこれと同じ振る舞いをする。自らの性質を認めようとせず、自らの悪を他者になすりつけて他者を責める。彼らから学ぶべきは実にこれだ、我が友よ。彼らが見せつける不正も偽善も、その横暴も、我ら自身を映す鏡のようなものと思え。

為された不正は、いずれ為した者自身を打ちのめす。罵りの言葉は、やがて罵った者自身に返ってくる。自分の非を認めぬ限り、自分の悪を認めぬ限り、自分を憎み自分を嫌悪し続けることになってしまう。そうとは知らず、自分の魂を自分の手によって貶めることになる。

自分の裡にある悪に目を背けることは、悪に立ち向かわず悪を野放しにすることだ。自分に属する悪を、自分で制せずして誰が制ずるのか。害されるのは自分自身だ、自分の影に飛びかかったライオンを見るがいい。自分の裡なるもの、自分の性質の奥底までよくよく見てみることだ。そうすれば、実に堕落とは己自身の裡に在るものと知れるだろう。暗い坑の底で出逢うのは敵ではない、他ならぬ自分自身だ。

ライオンもまた、深い坑の底で自分自身に出逢うだろう。かつて彼以外の他者が出逢ったことのある、彼以外の他者ならばよく知っているもうひとつの彼自身の像だ。食べなければ飢えて乾く。だが弱き者から、食べるに欠かせぬ歯までもを引き抜いて奪う者は誰であれ、自分から目をそらし続ける者だ、この物語のライオンのように。

「叔父の顔にまがまがしい印を見た」と、ある者が私に讒言する。私は言ってやる、 - 「そなたは叔父どのを見ているのではない」。そなた自身が叔父どのの顔に映し出されているのを見たまでだ。自分の姿から目をそらすな!

誠実な者同士が相対すれば、お互いを映し出す鏡のようにもなろう。これは預言者が言っていたことでもある。青い硝子を通して世界を見れば、世界は青ざめて見えるだろう。だがよほどの無知でも無い限り、世界の青さがどこから来るのか理解できるだろう。世界が鬱勃と堕落して見えるのなら、それはそなた自身より生じるものと知れ。批判するなら、まずは他ならぬ自分を批判せよ。罵りたいなら、まずは他ならぬ自分を罵れ。

自らを「信じる者」と称する者が、神の御光を通して物事を見ずに一体何をどう見るというのか。それでは不可視の領域が、いつまで経っても「信じる者」に明かされないのも当然ではないか。神の炎、神の怒りのみを通して物事を見る者に、一体どうして善悪の違いなど判断出来ようか?一体どうして、悪を善に転ずることなど出来ようか?

炎を、炎で制することなど出来ない。一滴、ほんの一滴づつでも良い、水を運んで炎を鎮めよ。そのようにして、炎を光に転じるのだ。水を運べ、炎を嘆く者よ!

神よ、清い水を支配する御方よ。われらに水を与え給え、世界が燃え尽きる前に。炎を鎮めるに足るほどの清い水を与え給え、炎を光に転じさせ給え。全ての海、全ての水は御方の命ずるところのもの。全ての水、全ての炎を支配する御方。御方に命ぜられれば、炎はたちまち清く甘い水に転ずる。御方に命ぜられれば、水はたちまち焼き尽くす炎に転ずる。

我らが望むところを叶え給うのも御方なら、主よ、我らに善きことを望ませ給え。悪を為させ給うな、我らに悪を避けさせ給え。悪からの救いこそは、主よりの最も善き贈り物。主よ、これほどまでに我らは探し求めている。探して、探して、探し求めている。問いの答えを与え給え、宝の在り処へと至る地図を与え給え。

災厄から解き放たれたことを確かめた兎は、大喜びでその場を離れて荒れ地を渡り、谷へと、仲間達の待つ方へと急いだ。ライオンは水底へと沈み、二度と浮かんでは来なかった。惨めな末路を辿ったライオンを見て、彼は浮かれて飛び跳ね、嬉しげに草原を駆け抜けた。

死の罠から逃げおおせたことを、兎は両手を打ち鳴らして喜んだ。生まれ変わったように新鮮な大気を感じつつ踊った、木の枝に芽吹いたばかりの若葉のように。空にむかって伸びる枝も、その葉も、重たい大地の楔からはほど遠く自由だ。頭を上げて高みを目指し、空を渡る風の友となる。

木の芽が、固い枝の表皮を裂いて姿を現し若葉となる。どの葉も、枝の最も高いところを目指す。われこそは、と争って木のてっぺんへと駆け上がっていく。固い殻を破って発芽する、さまざまな木々や果実の種子。新芽は、それぞれがそれぞれの歌を歌う。神を仰いで、口々に異なる感謝の歌を歌うのだ。「恵み豊かな御方は、われら草木に滋養を与え給う、『芽を出し、育ち、しっかりとした幹でまっすぐに立ち上がるように(コーラン48章29節)』」。

たとえ根元は固く大地と結ばれていようとも、彼らの魂は自由に空を舞う。大いなる喜びが訪れれば、泥土で出来た肉体の監獄も、魂をつなぎとめておくことは出来ない。神の愛に満ちた大気に包まれて舞踏が始まる、満月のように完全無欠な真円を描いて。肉体が踊れば、魂もまた踊る - 「どのように(魂が踊るのか)」、だと?なんという愚問だ。大いなる喜びが「どこからくるのか」だと?愚問だ、なんという愚問だ!

兎は、ライオンを牢獄に閉じ込めた。たかが兎と侮って、ライオンは逆に恥辱に塗れることとなった。これほどの不名誉に見舞われてなお、「百獣の王」を名乗るのだから驚くべき図々しさではないか。暗い坑の底に沈んだライオン、今は彼自身のものの他には食らう肉も啜る血もない。彼を陥れたのは彼自身の飽くなき欲望、兎はただきっかけをこしらえたに過ぎない。

兎の自由な魂が思うさま駆けて砂漠を渡るころ、ライオンは「何故」と「如何にして」の檻に閉じ込められて朽ち果てる。ライオンを討ち取った勇ましい兎は、今や仲間達の住まうところへ辿り着き、走りながら叫んだ - 「皆さん!皆さん!喜んで下さい、私ゃ吉報を持って帰りましたよ!

「良い知らせです!良い知らせです!皆さん、喜んで下さい!地獄の番犬はもうこの世には居ません。今頃、元の住処の地獄へ帰り着いたころでしょうよ!良い知らせです!良い知らせです!我らを脅かした敵はもう居ません。全てを創りたもう御方が、懲らしめのために奴の牙を引っこ抜いてしまわれたのです!あれほど多くの獲物を引き裂いた奴の爪も、死はまるで塵のように箒で掃き清めてしまいました!」。

これを聞いてけもの達は一斉に集まり、大喜びで共に祝った。こんなに楽しく笑い合うのは本当に久しぶりで、皆興奮し有頂天になった。彼らは兎を中心に輪になって取り囲んだ。兎は、まるで新品のろうそくのようにピンと背筋を伸ばしてみせた。輪になったけもの達は、兎の功績に敬意を表して深くお辞儀をした。

「天から遣わされた天使か、あるいは幸運を運ぶ妖精か。いやいや、乱暴者のライオンにとっては死を運ぶアズラエルでもある。君が誰であれ、兎どの、君が我ら全員の恩人であることには違いない。我らの魂は君に忠誠を誓おう。君の上に祝福あれ!神様が、君という川を清い水で満たし続けますように!君に祝福あれ、君の手にも、足にも、沢山の祝福あれ!

さあさあ、聞かせてくれ。一体どうやってあの意地悪いライオンと渡り合ったのだ?あの悪党を、一体どうやってやっつけたのだ?聞かせてくれ、臆病という病に罹った我らを癒すためにも。聞かせてくれ、怯えながらただ死を待つだけだった我らの魂を治す薬をくれ!さあさあ、聞かせてくれ!乱暴者の専制君主は、我らの魂に多くの傷をつけた。知りたいんだ、どのようにして悪に立ち向かうのかを」。

「皆さん、」兎は言った - 「ご覧の通り、私ゃ何の取り柄もないただの兎です。皆さんが仰るようなすごいことをやってのける兎など、一体どこの世界にいるでしょう?これは一重に、神様の助けがあってのことなのですよ。神様が私に、力を貸して下さったのです。私の心に、知恵の光を授けて下さいました。そして授かった光が心の他に、手にも足にも行き渡ったという次第です」。

低いところから高いところへ引き上げ給うのも神なら、高いところから低いところへと引き下げ給うのもまた神の御技。変化とは、常に神の御手より生じるもの。神は常に公平に振る舞われる。信じる者にも疑う者にも、敵にも味方にも等しく道を示され、また等しく曲がり角をお示しになる。

ご用心、ご用心!我らは曲がり角を曲がっただけ、道そのものはその後も続いている。つかの間の喜びに我を忘れるな。この身がこの世にある限り、何もかもから解放されるということには決してなりはしないのだから。この世は浮いたり沈んだりの繰り返し。我らの目指す王国は、そうした儚い移り変わりを越えたその先にこそある。

そら、耳を澄ませば聞こえてくる、七層の天のはるか彼方で我らのために打ち鳴らされる太鼓の音が。儚い移り変わりを越えたその先の王国で、時を統べる永遠の王に出逢おう。かの宮殿で、我らの先達と酌人が終わることのない旋舞を舞っている。今日と言う日の喜びは、明日も明後日も続くものではない。悪い酔いを残す現世の酒を捨てて、楽園の美酒を選べ、永遠の美酒を選べ。