イブリースは拒み、アダムは引き受けた

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

イブリースは拒み、アダムは引き受けた

ここでひとつ、行為について考えてみよう。我らの行為と、神の行為について比較してみよう。我らの行為は現象として明らかに存在する。これを自明の理としても良かろう。もしも被創造物の行為が現象として存在しないとするならば、それが幻であるならば、何があっても何をされても「何でそのような事をしでかしたのか」などとは誰も言わないだろう。

さて、我ら被創造物の行為を現象として存在せしめるのは創造主たる神による。我らの行為は、神の創造の表出である。

現象という手紙を見るとき、我らに出来ることは書かれた言葉を知覚するか、あるいは言葉の内包する意味を知覚するかのいずれかである。程度の差はあれ、それが人の常である。合理主義的であればあるほど、文字と意味の双方を二つながら同時に知覚するのは困難になるだろう。意味に心を傾ければ、言葉の理解はおろそかになる。言葉に心を傾ければ、意味の理解はおろそかになる。

目というものは、あちらとこちらを同時に見ることは出来ない。前を見るのと同時に、後ろを見ることが出来るとでも思うのか?そんなことは不可能だ。前と後ろを、同時に見ることは出来ない。それを知る必要がある。おまえの魂が、この瞬間、あの瞬間と言葉と意味との間を行ったり来たりしている間も、言葉と意味は二つながら同時に存在する。

存在せしめているのは創造者たる神だ、被創造者たる魂ではない。神は言葉と意味を二つながら同時に知覚する。ゆえに、言葉と意味は二つながら同時に存在する。御方にあっては、ある行為が別の行為を妨げるということが無い。

「貴方が私を誘惑し、私に罪を犯させたのだ」、シャイターンはそう言った。彼に属する行為について、彼がしたのは神の名による隠匿であった。「我らは、我ら自身を損ねてしまいました」、アダムはそう言った。彼は我ら常人とは違い、神の行為に敏感であった。彼は知っていたのだ、行為を現象として存在せしめるのは神であることを。その上で、彼は彼に属する行為について彼の名によって告白した。

そしてそれは最上の選択であった。彼の言葉には、神への敬意と友情が意味として内包されている。アダムは神への敬意と友情をもって彼の行為を「罪」と呼び、責任を引き受け、禁断の、 - かつ祝福の果実を食べたのである。

彼(アダム)の悔悟の後で、御方は彼に言った。「アダムよ。汝にもたらされた罪と苦難を創造したのはわれか、それとも汝か。定命の主は誰か。運命の主は誰か。われか、汝か。われを創造の主と知りながら、汝は何故それを隠すのか。何故に自ら罪を着るのか、何故に嘘をつくのか」。

彼(アダム)は言った。「御方よ、我が主よ。貴方への敬意を、友情を手放すことをこそ私は畏れます」。御方は言った。「ならばそれゆえに、われもまた汝に同じものを示そう」。 - 誰であれ、敬意を示す者が敬意をもって報われる。誰であれ、砂糖を差し出す者が蜜菓子を与えられる。

「善良な女は善良な男のために、善良な男は善良な女のために」。4分かち合うならば、怒りではなく喜びをこそ分かち合え。敬意をもって友をもてなせ、害意ではなく - 語れ、我が心よ、我が魂よ。宿命と自由意志の違いを明確に知らせる、何か気の利いた譬え話はないものか。

- こんな譬え話を思い出した。ここに、病を抱えた男がある。男の手は、彼の意志とは無関係に震えている。おまえの手はどうか。おまえの手も、同じように震える。だがおまえは、彼のように病んでいるわけではない。

どちらの手も、見た目は同じように震えている。その動きは、神の創造によるものである。だが前者と後者を、同じものとすることは出来ない。彼の手が絶えず震えているのを見て、おまえは彼を憐れむかも知れない。だが一体、彼の手が震えるのは彼のせいだろうか?断じて違う!

知的探求というのは愉快なものだ。こうした探求は、一体何の役に立つだろうか?人にもよるだろう。最初は浅い理解しか持たなかった者でも、あちらへ行ってはこちらへ戻りつつ道を進めるうちに、やがては深い理解へと辿り着くかも知れぬ。知的探求からは、これはこれで真珠や珊瑚を得ることも出来る。

否、魂の話をしているのではない。霊的探求と知的探求、これら二つは断じて峻別されねばならない。霊的探求と知的探求を混同してはならない。辿る方法も違えば、得られるべきものも違うのだ。霊的探求の結果、得られる美酒がある。これにはこれで守られるべき整合性というものがあり、一貫して完結する宇宙というものがある。

ウマルを見るがいい。知的探求に励み勤しんでいる間は、アブー・ル・ハカムは彼の無二の親友であった。だがウマルが知的探求の道を去り、霊的探求の道へと足を踏み入れた途端に、アブー・ル・ハカムはたちまちアブー・ル・ジャフル(「無知の父」の意。預言者を迫害した者の呼び名)と化してしまった。

知的には優れた感覚を持ち、完璧なまでの理解を持ちながらも、しかし彼は霊的には完成することなく、無知のままで終わったのである。霊的探求の道は、驚異に次ぐ驚異の連続である。見るもの全てが未知であり、その意味では知的探求にも優る。これを知る者からすれば、知性を磨き思慮分別を身につける知的探求は二の次だ。

それは魂に照明をもたらす。照明は輝きに輝きを重ねる。神の光を欲する者よ、この照明の前には、知性の光は邪魔になるだけだ。この照明の前には、論理の喧噪など夜の闇に葬り去らねばならぬ。神の光は他の何ものからも独立している。それは自律しており、知性や論理による証明など必要とはしないのである。