直観について

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

直観について

預言者は申された、「これが時代というものだろうか、近頃は神の吐息を感じる機会に事欠かない。あなた方も耳をよく澄ませておきなさい、神の吐息を、ひとつたりとも聞き逃がすことのないように」。

神の吐息、それは途切れることなく巡りめぐってくる。あなた方のすぐ傍まで来て、ゆっくりと周囲を漂う。誰であれ、欲する人には生命を与え、それか らまた去って行く。ひとつの吐息が去れば、また次の吐息が届けられる。わが友人達よ、見のがすことのないように。注意深く、届けられた御方の吐息を受け取 れ。

それは楽園の中心にある生命の樹、トゥーバの樹そのもののよう。とこしえにみずみずしく、自由に動く。だがその動きはけもののそれ、地上のそれとは 明らかに異なる。もしもそれが、空と大地に下されようものなら、彼らは怯えて姿も色も失い、怖れのあまり水のごとく流れて落ちるだろう。

途絶えることのないこの吐息、この神からの贈り物に、空も大地もただ狼狽し恐怖するより他はない。だが、詠め、「われらは天と地に信託を示してやったが、これらは信託を担うことを断った、信託に畏れを抱いたのである2」。山々を、不動とせしめているのは何か。あの不動の中心にあるものは「それ」を担うことへの恐怖に他ならぬ。だが人間は違う。人間のみが、天と地のように縮みあがることもなく、尻込みすることもなく「それ」を、神の吐息を、信託を担ったのだ。

送り届けられる神の吐息は、激しく燃え盛る魂の炎を鎮めもする。霊的には死んだも同然の、動くことも感ずることもしない魂に、再び命を与えもする。  - さて、なぜ私がこのような話をしているのか。昨晩のことだ、私の許へまさしく「それ」が送り届けられた。私が知る「それ」とは明らかに異なる見か け、異なる方法だった。そのため、私の中にあるほんの一かけらほどの何かが、私の中へと「それ」が通ずる道を塞いでしまった。

ほんの一かけらのちっぽけなルクマが、私をルクマーンの道から遠ざけたのだ。3綴りは似ていても、何という隔たりか。私が欲するのはルクマーンだ、ルクマではない!ほんの一かけら、ほんの一口が大事の元、とはまさしくこのこと。それはルクマーンのかかとに刺さったとげのよう、ほんの小さなとげであっても、抜いてしまわぬ限りは歩みの邪魔となる。

とげなど無い、と思うかも知れない。だが目に見えるもの、影を作るものばかりがとげではない。「ほんの一かけら」「ほんの一口」の欲を放し飼いにすることに慣れてしまっていては、とげを見分ける判断の力すら、残されているかどうか怪しいものではないか。

欲望は人間を不注意にする。欲望は人間を散漫にし、識別を鈍らせる。甘いなつめやしの実と思って無造作に口に放り込むそれが、実はとげであることに 気付かない。「ほんの一口」を、正直に数え上げてみよう。私達が、一体どれほど衝動的であることか、どれほど貪欲であることか。

ルクマーンの精神は、まるで神の薔薇園のようだ。だがそれでいて、その精神のかかとはとげに傷つけられ苦しめられる。何故だろうか?痛みや苦しみ、 それはとげを食むラクダのようだ。私達をこちらからあちらへと運んでゆく。我らがムスタファ(ムハンマド)も、このラクダにまたがって旅をした、彼の後に 続く者達もまた。ラクダよ、ラクダよ。私を、その背に乗せて連れて行っておくれ。薔薇の花を、山と積んで運んでおくれ。芳香の届くところならば何処であっ ても、百も二百も薔薇園が育つことだろう。

好きこのんで、とげの茂みに鼻先を突っ込む者があるだろうか、砂の中に、顔を埋める者があるだろうか。おまえが探し求めるものは、おまえの背中に既 に乗っているというのに。不毛の土地に、どうして薔薇が咲くだろうか。それはどこか遠くにあるものでもなければ、外側にあるものでもない。

あちらからこちらへ、探し求めてさまよう人よ。一体、あとどれくらい迷えばそれを知るだろうか。一体、あとどれくらい問い続けるのだろうか、「薔薇 園はどこにあるのか?」と。あなた方の目を曇らせるもの、それはあなた方自身の目の中にある。自分のかかとに刺さったとげを抜いてしまわない限り、自分の 目の塵を取り除かぬ限り、あなた方はいつまでもさまよい続ける、「どこにあるのか?」と。

ムスタファ(ムハンマド)がこの世に生まれ落ちたのは、私達に調和をもたらすためである。彼が優しく妻に語りかける声が聞こえる、「フマイラ4よ、 黙っていないで話しておくれ」。フマイラよ、戦馬のひずめに打ち付ける馬蹄という馬蹄をかき集め、愛という名の炎の中に投げ込んでおくれ。全てを燃やして しまっておくれ。馬蹄は愛の炎に燃やされて、輝くルビーになるだろう。きらきら光る赤い石は、貴女の髪に飾ればきっととても似合うだろう。

さて、この「フマイラ」という語、これは女性形だ。アラブの人々はこの語と同じく、「魂」という語を女性形で言い表す。だが魂という語が女性形であ ることと、魂の本質そのものにはいささかの関わりも存在しない。魂に、男女の別など一切ない。魂の尊さとは、女性性も男性性も超えたところにある。それは 熱くもなければ冷たくもなく、乾いてもいなければ湿ってもいない。

魂を成長させる糧はパンではない。肉体と違って魂は領域に縛られるということがない、時間や空間によって姿かたちを変化させることもない。たとえる ならば魂とは、善きものを善きものたらしめ、甘きものを甘きものたらしめる、目には見えない働きのようなもの。これ無くして、善きものは善きものたり得 ず、また甘きものも甘きものたり得ない。 - あなた方が、私の言葉に惑わされることなくただ本質を受け取ってくれたら良いのだが。

砂糖を使って菓子をこしらえたとしよう。出来上がった菓子を食べ終えて、また菓子をこしらえて、そうやって繰り返し使い続けているうちに、やがて砂 糖はあなた方の手元から消えてなくなってしまう。だが外側の世界に甘いものを探すのではなく、自分自身の内側に甘いものを探してみたならばどうだろうか?

たとえるならば、信仰とはそのようなものだ。自分自身の内側に、砂糖きびの畑を耕すことだ。自分自身の内側に、豊かな畑を持つ人が、砂糖に不自由す ることなど二度と起こりはしなくなる。自分自身が、砂糖のようである人が、甘い菓子に不自由することなど二度と起こりはしなくなる。

愛する者が神と聖餐を共にするとき、愛する者は自分自身をぶどう酒に変化せしめる。理性は消失し、酩酊そのものとなってしまう。人の理性には限界が あり、それは人と愛との隔てにしかならない。個々人の理性は全的な知から切り離され、知るのは部分のみであり、愛を怖れ、愛を否認する。だが、愛を怖れて 避けようと試みる理性の働きそのものが、同時に愛の存在を暴露してしまう。理性が、いかに愛に負うところが大きいのかを知らしめてしまう。

理性は賢く、またよく知ってもいる。だがおのれを殺すことが出来ない。おのれを捨てることが出来ない。天使達を見よ、もしも彼らがおのれを滅することなくおのれにしがみつき続けるようならば、それは天使ではなく堕天した悪魔である。

個々人の理性は、その言葉、その行為のみを見れば良き友人のように思えるかも知れない。しかし言葉や行為といった外側の営みではなく、内側の営みに おいて、理性は全く重要ではない。そうだ、理性は全く重要ではない。おのれを消し去ることが理性には出来ないからだ。有から無へと還ろうとはしないから だ。喜びと共に、あるがままに還ろうとは決してしないからだ。やがていやも応もなく死が訪れ、そこで初めて、しぶしぶ立ち去ってゆく。

理性ではなく、魂をこそ導きとせよ。魂は全的な知とつながっている。

魂は完成へと至る道を知っており、その呼び声は完成への導きである。

- ムスタファ(ムハンマド)が、旅の途上にあった時のこと。彼は言った、「ビラール5よ、私達を励ましてくれ。おまえの声 は、私達を元気にしてくれる。遠慮せず、もっと大きな声で聞かせておくれ。おまえのなめらかな声には、蜜がたっぷり入って力強い。おまえの声、おまえの呼 吸を通して、私にはおまえの心が見える - おまえの心はなんと広いのだろう!そして中心には、かつてアダムがおそるおそる(神から)受け取ったのと同じ 吐息がある。才知ある楽園の住人達を魅了し、ふぬけにさせてしまったのと同じ吐息がある」。

ビラールの美しい声にムスタファは感じ入り、すっかり我を忘れた。神の配慮であっただろうか、その夜は、祈りの方がそっと彼のそばを離れた。祝福に 満ちた眠りに包まれ、時間は夜明けの祈りを通り過ぎ、やがて昼にさしかかる頃まで、彼は一度も起き上がることはなかった。だが彼の体が眠っている間に、彼 の魂は、誰に邪魔されることもなく愛する花嫁の手を取り接吻し、花嫁の顔を覆うヴェイルを取り去って、その光をじかに見るという栄誉を授かっていたのだ。

- そうとも。私は今、確かに神を、御方を「花嫁」と言い表した。だが一体、そのことに何の障りがあるというのか。愛も魂も、ふたつながらにヴェイ ルに覆われ隠されていることに違いは無いではないか。見かけ倒しの道徳をもって、ものも知らずに猥雑だの不埒だのとやかましい。

私は今まで、もう長いこと沈黙していた。御方のお怒りを畏れたからだ。もしも御方が私に怒りたもうたならば、おまえが言わずとも御方が御手自ら私の 口を塞ぐだろう。これを語り始めたのも、御方が私に言いたもうたからだ、 - 「語れ、わが詩人よ。続けよ、わが詩人よ。語れ、思う存分に語れ、不可視の 世界について知らしめよ。それをもって汝の天命を全うせよ」。

過誤は外側に宿らない。常にありとあらゆるものに難癖をつけ、あら探しに明け暮れる者の内側にこそ宿っている。とかくに清浄ぶりたがる者が、真に清 浄でなどあるものか。過誤とは、不完全な人間同士の交わりの中に生じるもの。互いに無知な被創造物に過ぎぬのだから、どちらか一方のみが正しく、どちらか 一方のみが誤っているということにはならない。

完全なる創造主との交わりの中には、ただ恩寵と平穏が生じるのみ。創造主たる御方との交わりにあっては、背徳もまた叡智となる。だが不完全な我ら人 間同士では、背徳を交換したところで生ずるのは害以外の何ものでもない。人間というもの、たったひとつの過誤に目を奪われると、たちまちそれ以前に当然の ように受け取っている百もの利益についてはすっかり忘れてしまう。純金も、混ぜ物無しには金貨として使いものにはならないと言うのに。

砂糖きびの畑に出かけて、そこにあるのが砂糖ではなく固い茎ばかりだ、などと言って怒りだすやつがあるか。固い茎には代価は払わぬ、甘い蜜だけを秤 に乗せろ、などと言うやつがあるか。体あっての魂、魂あっての体だ。「魂の清浄こそ肝要。その魂が清浄であればあるほど、その体もまた清浄である」と、神 秘道の偉大な先人達が異口同音に我らに伝えているのは、酔狂でもなければ戯れ言でもない。

見よ、彼らの言葉、魂、そして体の、その純粋な在りようを。はばかることなく神の愛にすがるその在りようを。彼らはほんのわずかな傷跡も、また差し 障りも残さずにこの世を去っていった。魂の声を聞け。魂で声を聞け。我らの偉大な先人達に敵意を抱かせるのは、魂ではなく体の声だ。

チェスや双六遊びであれば、体の声を聞くのも一興。だが遊戯は遊戯に過ぎぬ。体はやがて大地に還り、大地そのものとなるだろう。魂はやがてかの海へ 還り、透明な塩に結晶する。塩のうち最も洗練された塩、それはムハンマドの魂の塩だ。ありとあらゆる塩のうち最も雄弁、最も良き塩。その塩を使えば、どの ような肉でも極上の一品に調理される塩 -

ハディースとはまさしくそのような塩だ。ハディースという名のこの塩、これこそは彼が我らに残した財産。この塩を継ぐ者達が、あなた方の生きる今を共に生きている。あなた方には、塩を継ぐ者達を探し出すことが出来るだろうか?探せ、行って塩を継ぐ者達を探せ!

魂の塩を継ぐ者はあなた方のすぐ傍に、あなた方の目の前に座している。 - しかし実際のところ、「目の前」とは一体どこを指すのだろうか?魂の塩を継ぐ者は、あなた方の正面に座している。しかし「正面」とは一体どこを指すのだろうか?私達は魂の話をしていたのだ。

もしもあなた方が、「前」と言えばこちら、「後ろ」と言えばこちら、などと何の疑いもなく考えているようなら、魂を忘れて身体に囚われ過ぎている、 ということでもある。「下」も「上」も、「前」も「後ろ」も、それは体に関わる属性である。魂の、輝ける本質とは方角や空間に制限されるものではない。我 らが王の、まじりけのない光もてあなた方の内側にある視野をひらけ。注意深くあれ、空想をもてあそぶようであってはならない。

ごらん、この体を。何とちっぽけなのだろう。このちっぽけな体ひとつに頼り切って、悲しみと喜びの間を行ったり来たり。これでも、ここに「在る」と言えるだろうか?「前」だの「後ろ」だのに縛られたままで、本当にここに「在る」、と、私達は言えるのだろうか?

- 今日は雨が降っている。夜を訪ねて、少し歩くとしようか。雨に濡れながら寄り道するのも悪くはない、ましてや、それが御方からの贈り物ならば。

 


*2 コーラン33章72節。

*3 「ルクマ」は「一口<ひとくち>」の意。ルクマーンは賢者として高名な人物の名。「アラブのイソップ」とも呼ばれ、『精神的マスナヴィー』にもしばしば登場する。

*4 フマイラとは預言者ムハンマドが妻アーイシャにつけたあだ名、愛称。「赤い髪」というほどの意味。

*5 ビラール ビラール・ビン=ラバーフ・アル=ハバシーとは最初期にイスラムに改宗した預言者の友人の一人。アビシニア生まれの解放黒人奴隷。その美声を預言者ムハンマドに愛され、礼拝の呼びかけをする者(ムアッジン)をつとめた。