『密通を犯すならば自由な女と、盗むならば真珠を』

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

『密通を犯すならば自由な女と、盗むならば真珠を』

アラブの古いことわざに、「密通するならば自由な身分の女を選べ」というものがある。これの意味はそのままに、言葉を転じたものが「盗むなら(貝殻ではなく)真珠を盗め」という格言だ。

いくら愛を注ごうが、奴隷はいつか主人の許へと帰ってゆく。恋人は、惨めさの中に置き去りにされる。薔薇の芳香が彼の許を去り、薔薇の許へと帰ってしまったのだ。恋人の手に残されたのは、鋭くとがる薔薇の棘ばかり。彼の欲するところは、彼を離れてはるか遠くへ消え去ってしまった。彼の費やした労苦も努力も、全てが実ることなく水の泡となってしまったのだ。残されたのは足に突き刺さる棘の痛みだけ -

まるで影を狩る猟師のよう。影を欲したところで、どうして影を我がものになど出来るだろうか?地面に映る鳥の影を、いくら強く握りしめたところで鳥を得られるだろうか?影を捕えてみても、枝に止まる鳥は手の中に落ちては来ないのに。鳥は驚き呆れて言うだろう、「あの男、一体何がおかしくてあんなに笑っているのだろう?ばかも大ばか、影と実体を取り違えるだなんて!」。

言う者がある、「部分もまた全体に通じる。それゆえに部分を愛さぬ道理はない」、と。なるほど。良かろう、そうした者は薔薇の棘を食べ続けて見せるがいい。部分を愛することの道理を言うなら、棘も薔薇の部分だ。何の異存も不満もなかろう、芳香を手放して棘を食べろ。

部分とは、全体に関する「あるひとつのものの見方」に過ぎぬ。部分と部分を繋ぎ合わせて全体を見通すつもりも無いのなら、あるひとつの部分にばかり固執するのは賢いことではない。預言者の仕事というのは本当に骨の折れることだ。彼らが遣わされたのも、離ればなれになった部分の欠片を拾い集めて再び繋ぎ合わせるため。遣わされた彼ら自身もまた、それぞれに個別のかけらの身でありながら、そのような仕事を為すのだから大変なことだ。

しかしもう遅い、この話はここまでとしよう。諸君と語り合っていると、時間は本当にあっと言う間に過ぎ去る。さて、物語を締めくくるとしよう。