続)砂漠のベドウィンと、その妻の物語

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)砂漠のベドウィンと、その妻の物語

ベドウィンは水の入った壺を差し出した、宮殿の広間中に、敬意という名の種を蒔きながら。「この贈り物を受け取って下さい」、彼は言った、「どうかお納め下さい、私を救うと思って。スルタンにお渡し下さい、王のしもべを、困窮から助けると思ってどうかお納め下さい。真新しい緑の壺に、甘露を、雨樋を伝った雨水を集めたものです」。

従者達は微笑んだ。微笑みつつ、彼が差し出したその壺に、貴重きわまりない生命のしるしを認めてもいた。統治する王が賢く優雅であれば、その賢さ、優雅さは、自ずと仕える従者達のしるしともなる。あらゆる物事は、王権を握る者の采配次第でいかようにも変化する。一点の曇りもない紺碧の空の下にあっては、大地もそれにふさわしく緑に輝くもの。

王とは、すなわち四方八方に向って伸びゆく水路だ。そして水路を流れる水とは、石臼に挽かれて精製される麦のようでもある。水路が、芳醇で清い水源から敷かれたものならば、流れる水も甘く清く、全ての者が良い水を楽しむだろう。だが水源が、塩気を含んで濁っていれば、流れる水もまた同じように価値なきものとなるだろう。

全ての水路は、ひとつの水源から派生している - さあ、この譬え話の水に飛び込め。深く潜って、意味の水源を探り当てよ。考えてもみよ。ひとつ処に縛られることのない放浪の魂の優雅さが、肉体にどれほどの影響を及ぼしていることか。考えてもみよ、純粋を出自とする理性の高貴さが、肉体をどれほど律していることか。

そして、考えてもみよ - 抑えきれず、制しきれることのない愛が、肉体をどれほどの狂気に陥れることか。しかしそのどれもが、カウサルのように清らかな水を湛えた海ならば、水滴の一粒ずつも、真珠や宝玉のように輝くだろう。

どのような学問であれ、その領域において名の知れた師に学べば、弟子達の魂は多かれ少なかれ師のそれと同じ道筋を辿ることになる。神学者の師を持つ弟子ならば神学を、法学者の師を持つ弟子ならば法学を、いち早く身に付けることだろう。それぞれの学問の言葉をもって世界を説明するようになるだろう。

文法学者を師に持つ弟子ならば、師の教える文法が、弟子の魂にすっかり染み込むことだろう。そしてまた、我らが道(神秘道)を行く者を師に持つ弟子ならば、魂そのものが、我らが王の中の王(神)に、すっかり染み込むことだろう。

これら全ての、多岐に渡る様々な知識や異なる学問を学びつつ、それでも我ら全ての道はただひとつの同じ方向へ、すなわち死の日へと向かっている。この道を歩むのに最もふさわしく、また最も役立つ知識とは何であろうか? - それは「どれほど学ぼうとも、私達は無知である」という知識である。