終)砂漠のベドウィンと、その妻の物語

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

終)砂漠のベドウィンと、その妻の物語

カリフの耳にベドウィンの話が届けられると、彼は壺に入った水を受け取り、その同じ壺を金貨で満たし、それから他にも数々の贈り物を添えて返礼した。彼はベドウィンを窮乏から救い、寄進と、名誉の衣とを差し出した。そしてこう命じた、「この壺をベドウィンの族長殿に手渡せ。お帰りの際には、ティグリスにお連れせよ。砂漠から、険しい陸路を渡ってはるばる訪ねて来られたのだ。せめて戻られるのには水路を使うのがよろしかろう、その方がはるかに早い」。

用意された小舟に乗り込み、ティグリスの流れを目にしたベドウィンは、恥のためにひれ伏す他は無かった。「なんと慈悲深く寛大な王であったことか!だが何よりも優るのは、彼が私の持ち込んだ水を受け取り、それを飲んだことだ。一体、どうしてそのような事が出来るのか。海のごとく豊かに持てる者が、何の逡巡もなく私の贋金同然の贈り物を受け取るだなんて!」。

さて、年若き我が友人達よ。この宇宙、この世界に存在する全てが、知と美に満たされた壺であることを、どうか覚えておいて欲しい。それも、それも、それも。ひとつの例外もなく、ありとあらゆる「それ」が御方の美というティグリスのひとしずくだ。私達の間にあるのはヒトの皮膚一枚の隔たりのみ。その下には、かの御方の知と美が充満している。

それは未だ隠された財宝だ。壺に溜まった水がやがて溢れ出すように、知と美とが隠しようもなく溢れ出し、王の絹衣のように大地を覆う時、大地は諸天よりもなお光り輝くヒトの住み処となろう - もしもかのベドウィンが、神の創りたもうティグリスを、辿り着く前に垣間見ようものならば、彼は壺をたたき壊していたことだろう。壺は粉微塵に砕けていたことだろう。

「それ」を目にした者ならば、誰であれ我を忘れる。我を忘れて取り乱すのが常だ。そして壺という名の自己存在に向かって石を投げつけ、壺をたたき壊してしまう。石を壺に投げつけるという行為に至らしめるもの、突き詰めるとそれは嫉妬に他ならぬ。だがそれで良いのだ。何しろここで言う壺というものは、たたき壊されてこそ完成に近づくものなのだから。

壺がたたき壊されて、初めて知るのだ、中の水がこぼれ落ちることもなければ、減りもしないことを。この破壊が招くものが、百もの静寂、百もの安寧であったことを。目をやれば、そこにあなたは見るだろう、粉々に砕けた壺のかけらが恍惚の舞踏を舞う光景を  - だがしかし、個別の知性を通して理解しようと試みたところで、その光景は不条理極まりなく、ばかげたものとしか映らないだろう。だが砕けてしまえば、そこにあるのは壺でもなければ水でもない、ただ忘我の歓喜のみ。ただ座して楽しめ - 「神は最もよく知りたもう(コーラン6章58節)」。

あなたがリアリティの扉を叩けば、扉は開いてあなたを迎え入れるだろう。思考の歯車を働かせ、思考の翼を広げるのだ、王の鷹となるためにも。だが歯車が噛み合わず、翼を広げることが出来ぬなら、歯車と歯車の間に泥土が詰まっているのだろう。泥土を食べ過ぎているのだ。泥土のパンを糧としているのだ。パンも肉も、やがては泥土に還る。控えめに食し、精神のパンを糧とせよ、パンと肉のように泥土に還るのではなく、御方の許へ還ろうと望むなら。

腹が空けば、犬のように振る舞う。激しく吠えて、気難しく意地の悪い生き物になる。たっぷりと食べて腹が満たされれば、今度は死体のように振る舞う。何も感じず、何も理解せず、動こうともしない壁になる。あなたは時として死体のようになり、また時として犬のようになる。だがそのようでは、聖者の後を追い、獅子の道をひた走ることなど到底望めまい。

狩猟には犬がつきものだ。だがその犬を甘やかすばかりでは、狩りに出かけることも出来ない。自分の犬、すなわち魂の獣性についてはしっかりとしつけることが肝心だ。犬には残り物の骨を与えておけ。満腹すれば、獣は反抗する。満腹した犬は獲物を追わぬ。飢えを知らぬ魂には、何ひとつ捉えられぬ。

かのベドウィンを宮殿へと導いたのは、日々の糧にも事欠く暮らしであった。そして導かれたその先に、彼は糧を見出した。充足に必要なもの、それは不足だ。そして王の寛大さをもって、我らは物語の結末とした。物語は不足によって始まり、充足によって終わるとしよう。

愛する者が語るとき、その口からは愛の芳香が立ちのぼる。何を語ろうとも立ちのぼるのは愛の芳香、かつての住処へ還り行こうと飛び立ってゆく、愛する者の言葉を翼にして。愛する者が法を語るとき、ありとあらゆる貧困の類いがその言葉に耳を傾ける。愛する者の語る言葉にすがりつき、その蜜をすすろうとする。愛する者が法を語るとき、その言葉に救いを求めて群がる貧困の放つ匂いが立ちこめる。

愛する者が背信を語るとき、漂うのは真の信仰の香りだ。そして疑念について語るとき、愛する者の中に生じるのは新たな確信の光である。 ー 嘘偽りのない誠心の海からわき起こる波また波。水面に浮かぶ泡また泡。泡は白く濁って見える。だがその泡を生じせしめたのもその下に広がる透き通った海だ。波も泡も、元を辿ればその根源は、透き通るあの海に在るもの。波を厭うな、泡を嫌うな。恋人の頬に触れようとして触れられぬ時について出たため息のようなもの。愛する者はえくぼについて語っているのだ、あばたではなく。

恋しいひとが語る言葉なら、たとえ嘘でも真実のように聞こえる。愛する者の言葉に重ねられた虚偽を暴こうとしたところで何になるだろう ー 虚偽を暴こうとすればするほど、隠されていた真実に引き寄せられるだけのこと。虚偽は真実の飾りに過ぎぬ、それもとびきり豪奢な飾りだ。砂糖を捏ねてパンの形をした何かを焼いてもパンにはならぬ。一口、舐めればたちまち知れるだろう、パンの形をしたそれが、一体何から出来ているのかを。

信じる者が、黄金で作られた像を見たならばどうするか。信じぬ者の手から像を取り上げる他に何があろうか。像を火にくべて燃やす他に何があろうか。形態という人為のかりそめを打ち砕く他に何があろうか。ひとたび加えられた型枠は、いつまでも黄金の上にこびりつくだろう。払っても払っても、幻想と妄想は黄金の上にまとわりつくだろう。だがそれでも、火にくべ燃やし尽くす以外には、人の目に真実を焼き付けるすべはない。

黄金の本質とは、それが主から下されたものだと知らしめるところにある。黄金の本質は主の本質に通じる。それが何であれ、黄金を用いたところに生じるものの全ては、ヒトを真理の道から惑わせるかりそめの偶像に過ぎぬ。かが一匹のノミのために、毛布を丸ごと燃やすような真似はするな。たかが一匹の蠅を追って、一日を丸ごと費やすような真似はするな。偶像を捨てろ、黄金を取れ。型枠を捨てて真理を取れ、言葉を捨てて意味を取れ!

もしもあなたが巡礼を目指す者ならば、あなたと道を共にする巡礼者を探せ。ヒンドを探すな、テュルクを、アラブを探すな。ただ純粋に巡礼者を探せ。姿や形に拘るな、色を見るな。見るならば、目的と意図とを見るがいい。黒かろうが白かろうが、巡礼を目指す者同士、調和せぬはずがないではないか。あなたが道連れの色に、道連れがあなたの色になるまで互いに親しみ合わずして何のための巡礼か。真に偶像から解き放たれた精神ならば、全て同じひとつの色であることが理解出来るはずだ。

- さあさあ、今度こそ本当に物語を終わろう。いやはや、ここまで長引くとは思わなんだ。ともかくも、どうにかこうにか結びまでこぎ着けたものの、こうして振り返ってみると上を下への大騒ぎだったな。まるで恋人同士の睦み合いのよう、一体、どこに頭があるのやら、どこに足があるのやら。

いやいや、この物語には頭となる始まりもなければ、足となる終わりもない、ということにでもしておこうか。御方より前に始まりなし、御方より後に終わりなし。この物語もまた御方に倣って、永遠と名付けるとしようか。

いやいや。違う、それは違うぞ。物語の肝心かなめとなった「あれ」があるではないか。そうだ。この物語は水だ。水もまた、始まりもなければ終わりもない。それにそら、水のしずくの一粒づつを見よ。どちらが前でどちらが後ろか、判じようもないだろう。

- こら!何をこそこそ書き記しているのだ。物語は終わったと言っているだろう。おしまいだ。おしまいだ。ええい、ふざけるのもいい加減にしないか、この罰当たりめ。筆を置いてよくよく考えろ。今語り合っているこれは、おまえ、これは言うなれば現金だぞ。おまえと私の取り分なのだぞ。こっそり山分けしようではないか。忘れたのか、我らはスーフィーだぞ。いやしくもスーフィーたる者、舞台裏を見せるなどもっての他だろう。

偉大かつ素晴らしきスーフィーのあるべき姿というのはこうだ。すなわち過去に縛られず、何ものにも囚われず、心の中には染みひとつ残さず - よいか、一度だけ言うが、聞いたことは全て忘れるのだぞ、何しろ「心の中には染みひとつ残さず」なのだからな。

我らは、物語に登場したベドウィンでもあり、同時に水の入った壺でもあり、更にまた同時に王でもある。我らは全てだ、全ては我らだ。真実から遠く締め出され、そしてまた真実へと還りつこうとするありとあらゆる全て、それが我らだ。そしてベドウィンが夫であるように我らも夫であり、そして妻がある。

夫は理性だ、蝋燭の灯火だ。そして妻は欲望だ、全てを欲しがりおる。我ら夫という蝋燭の灯火を、いとも簡単に吹き消しおる。いとも簡単に否定しおる - だが妻の否定こそが、物語の幕開けとなったのだ。妻の否定に耳を傾けてこそ、ばらばらだった物語の断片も、全体となり完成に至ったのだ。

ものごとは全て連環している。断片となった部分も、断片であるからといって全体から切り離されているわけではない。薔薇の芳香が、薔薇とは切っても切り離せないのと同じことだ。みずみずしい緑の香草の美しさと、薔薇の花の美しさは同じひとつの美しさだ。キジバトがくう、くうとのどを鳴らすあの声があってこそ、ナイチンゲールの歌声も際立つというもの。

私にはこれが合っている、眉間にしわを寄せ難問を解くことばかりに時間を使いたくはない。そのようなことにばかりかまけていたのでは、喉の渇きに苦しむ者に水を注いでまわる時間が無くなってしまう。難問が道を塞ぎ、にっちもさっちもいかずに困っているならば、出来ることはただひとつ - 忍耐だ、忍耐あるのみだ。

耐え忍ぶこと、これぞ幸福への鍵。あれやこれやと思案したところでろくなことにはならぬ。むしろつまらぬ思案など慎むことだ。気を散じるな、思案を慎むことに集中せよ。ヒトの思案は獅子とロバの追いかけ合いのようなもの。そしてヒトの心は茂みだ、つつけば何が出て来るものやら見当もつかぬ。

痒いところを掻きむしれば、ますます痒くなるというもの。薬を塗るのも結構なことだが、我慢出来るものなら我慢せい、薬よりもその方が効き目がある。まことに、医学の最初の一歩は常日頃からの節制だ。まずは慎め。あれもこれもと欲しいものに目を奪われるな、まずは自らの魂を見つめよ。自らの魂に目を転じ、魂を育むことに集中せよ、余計な思案は一切するな。

あなたの耳を傾けて欲しい、私は今、とても大事なことを話している。私の言葉を受け取って欲しい、そして金の耳飾りのように、あなたの耳に飾って欲しいのだ。その耳飾りは月に仕える者の目印だ。やがてあなた自身が耳飾りとなり、黄金色に輝くあの月に飾られ仕える日がやってくる。あなたは月へと迎え入れられ、プレイアデスの高みにまで昇りつめるだろう。

そのためにも良く聞き、良く学べ。まずはアリフからヤーまで、ひとつひとつの文字の違いを知れ。文字がひとつひとつ異なるように、被創造物もひとつひとつ異なる。見かけも違えば、その中身も違う。さらにまた、文字が語中の位置によって変化するように、非創造者もまた、ある視点から見た場合と、別の視点から見た場合では異なってくる。

同じ一人の男でも、ある者は冗談好きの男と考えたり、また別の者は真面目な男と思っていたりする。自分の思案が普遍であると思い込むところに、混乱や不信が生じる。しかしだからこそ、最高の検証の日として「復活の日」が用意されているというわけだ。昼の光を避け、顔を隠すヴェイルを欲するように夜の暗闇を求めても得られぬ日、それが復活の日だ。

詐欺を働くヒンドの商売人も、ごまかした帳簿を隠しおおせることは出来ない。けれど正直に、誠実に生きた者ならば、復活の日を待ち望みこそすれ怖れたりはしないだろう。頭のてっぺんからつま先まで、薔薇の花、百合の花のように一生を過ごした者にとり、「復活の日」は春の訪れそのものだ。

けれど葉や花弁の一枚も育てず、棘ばかりを後生大事にして一生を過ごした者にとり、春は好ましからぬものとなる。彼らからすれば、「復活の日」の、輝ける両の眼に射抜かれるのはたまらない。彼らは棘を磨く、魂ではなく。彼らは秋を好む、秋ならば薔薇の花も消え失せ、薔薇園を訪れる者もいない。従って棘を隠し持つことの恥も、他人に知られずに済むと考えている。

秋ならば、花と棘の違いを隠してくれる。棘にとり秋こそは春だ。色という色が消え失せてしまえば、石ころとルビーの違いも見分けがつかなくなると考えている。浅はかなことだ、春であろうが秋であろうが、御方の庭師からすれば見分けをつけるのは雑作も無いことなのに。世界中の眼が見ているものよりも、なお多くを御方の庭師は見ている。御方の庭師、御方の定めたもう宇宙の法則からすれば、何が自らに沿っているか、また何が自らから逸れているかは全てお見通しだ。

見よ、満天に輝く星々を。星々が、月を讃えて逸れることなく繰り返し軌道を描くのを。あらゆるイメージと、あらゆるフォルムが喝采する、「吉報が届けられた!吉報が届けられた! - 待ちに待った春の訪れだ!」。花のつぼみがほころびもせず、いつまでも鎖帷子のようにきつく締まっていたのではいけない。扉が開かぬようでは、果実達も部屋に入れない。

花は散るために咲くものだ。散ってこそ、果実の出番がやってくる。肉体は捨てるためにあるものだ。捨ててこそ、魂の出番がやってくる。花は吉報であり、果実はその報奨である。花はフォルムであり、果実はリアリティである。フォルムを捨ててこそ、リアリティが手に入るのだ。何かを減らすことによってのみ、初めて増やせるものがある。

パンを見詰めているだけで腹が膨れるだろうか?パンはちぎって、口に入れてしまわなくては何の意味もない。目の前からパンが無くなり、それで初めてパンは活力となる。葡萄の房を、飾っておいて何になる。押しつぶし、搾り取らねば葡萄酒にもならぬ。ミロバランも、すりつぶさねば薬にはならぬ。そして薬というものは、飲まねば病を癒すことも出来ぬのだ。