想いびとは『わたし』

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

想いびとは『わたし』

ある男が、恋しい想いびとの住まう館の扉を叩く。扉の中から、想いびとが彼に尋ねる、「どなた?」。彼は答える、「私です」。「お帰りになって」、想いびとはつれなく言い放つ、「今はまだその時ではないわ、お若いお方。わたくしの食卓には、生もののためのお皿の用意はないのよ」。

未熟な者であれば、恋しい想いびとの不在が燃やす恋の炎に焙るのがよい。それ以外には、独りよがりの偽善から、彼を救い出す手立てはない。男は、やってきた路を悲しげに去って行く。

それから一年あまりが過ぎ去った。男が、流浪の果てに再び恋しい想いびとの住まう館のあたりまで帰ってくる。悲しい別離の炎に焙られ続け、すっかり火も通って調理済みだ。その証拠に、彼は畏れている、不躾な言葉の一片でも唇からこぼれはしまいかと。畏れつつも溢れんばかりの敬慕を胸に、恋しい想いびとの住まう館の扉を叩く -

「どなた?」、想いびとが尋ねる。「あなたです」、男は答える。「心の全てを占めるあなたです」。「それならば」、想いびとは答える、「お入りになって、あなたがわたくしならば。この館に、『私』は二人も入れない。糸の筋目には両端あれど、針の目はひとつだけ。一筋に縒られた糸ならば、針の目にも通りましょう」。

こうして男は、長年の恋を成就させる。苦心の末に針の目に通された糸、これこそがまさにそれ。針の目は、駱駝を通すために出来てはおらぬ。

禁欲のはさみで切り刻みでもしない限り、駱駝を針の目に通すことは不可能だろう(コーラン7章40節)。だが読者諸賢よ、そのためには神の御手が、その御力が不可欠となろう、全ての不可能を可能とし、在らぬものをも在らしめる神の御手が。御方の御手によってのみ、あらゆる事象は生起する。あらゆる事象は、御方への畏敬によってのみ静寂する。目の見えぬ者も、耳の聞こえぬ者も、御方の御手を通して見える者の見ぬものを「見る」、聞こえる者の聞かぬものを「聞く」。

死者ですら、御方の御手を通して「死」を「生」きている。ただ一言、「在れ(コーラン2章117節)」と御方がお命じになれば、死者よりもなお死に近い者達 - 未だ存在せぬ者達 - も目覚める。読め、書物にある通り、「神は日々あらたなる御業をなしたもう(コーラン55章29節)」と。御方が何も為さぬと思うな、無為に過ごしたもうと思うな。

御方は日々、少なくとも三つの御業を為したもう。御方は日々、三つの軍勢を送り届けたもう。軍勢のひとつは父の脇腹から母のそれへ、みどりごを子宮に宿らせんがため。軍勢のひとつは子宮から大地へ、男と女で世界を満たさんがため。そして最後の軍勢は、大地から死へ、そして死を超えたその先へ。愛し合い慈しみ合うことの美しさに、誰しもを目覚めさせんがため。

- これについて語り合えばきりがない。かの館の、恋する男とその想いびと、嘘いつわり無きあの二人のところへ戻るとしよう。